029、死者と生者の境界線
疑問に思うことはいくつもあった。なぜ、創が強化結界に入れたのか。なぜ、有栖の能力をレンタル出来ているのか。だが、そんなことを問う余裕はなかった。それは創にも解っているようで、Ωの首に素早く手を当てた。彼がしたことはそれだけだった。それだけで、Ωの首の出血は止まり、蒼白だった顔色に血色が戻った。
「数美のお母さんから、有栖さんの能力をレンタルしておくように言われていた。こんなこともあろうかと。強化結界にはあいつの導きで入った」
創はΩの手当をしながら、手早く数美の思っているであろう疑問に答えた。数美はそれで全て了承した。
「……貴方の傷も治癒出来るけど」
創は早良を見遣る。早良は首を振った。
「要らない。君は随分と変わった能力者だな。面白い」
「早良さん。退いてくれ」
再度の数美の懇願に、早良も今度は否とは言わなかった。
その頃、πは塔子に招かれ茶室にいた。
もちろん彼にはΩと早良、そして数美の様子が視えていた。すぐさま駆け付けようとした彼を制したのは塔子だった。
「あの子たちなら大丈夫。お茶をお飲みなさい」
とてもそんな悠長なことをしている気分ではなかったが、塔子の声音には確信めいたものがあり、πは浮きかけた腰を下ろした。創が数美の元に駆け付け、Ωを治癒したので安心したことも手伝い、πは抹茶を口に含んだ。
緑色の、異国情緒漂う更紗小紋を着た塔子は、茶室の中ではとても大きな存在に見えた。
蓮森征爾が彼女を選んだ理由が解る気がする。聡明で凛としながら嫋やかで。数美に似ている。
「αさんの容態はどうかしら」
「快復に向かっています。お世話になりました。貴方にも、あの有栖という人にも」
「そう。それは良かった」
しばしの静寂。どこか遠いところで鳥が鳴いている。
茶室に刀は不作法だからと、今は刀を預けてある。
「π君。貴方は」
塔子が珍しく言い淀む。
「貴方は催馬楽吉馬を知っているのかしら」
「――――俺の父です」
「……そうだったの」
πは、塔子の口から父の名を聴いたことに驚いていた。なぜ、彼女がその名を知っているのか。
「私の夫、蓮森征爾と吉馬さんは友人だったのよ」
πの疑問に答えるように塔子が言う。憂いある声だった。
知らなかった。xもzもそんなことは一言も言っていない。彼らも知らなかったのだろうか。
「二人共、統監府を警戒していたから、このことはほとんど知られていないわ」
「征爾、さんがどこにいるかご存じですか」
「それは、貴方のほうが知っているんじゃないかしら」
その言葉は正鵠を射ていた。塔子は遠いところを見る眼差しだ。
「嫌ね。男の人って。全部、自分で決めて、行ってしまうんだもの」
「……男は莫迦なんです。勘弁してやってください」
「そうね。許してあげる。あの人のことも、吉馬さんのことも」
くすくす、と塔子は小さな笑いを零した。
そろそろ、Ωたちを迎えに行かなければ。今、あの強化結界にいる人間は転移が出来ない。治癒は創が施してくれたにしろ、πが迎えに行くのが妥当である。そんなことをπが考えていた時。
「吉馬さんは今頃、どうしているかしらね」
「――――――――え?」
「お元気だと良いのだけれど」
塔子ののんびりした口調に、逆にπは混乱する。塔子の言い方はまるで、今でも吉馬が生きているかのようだ。何か思い違いをしているのかもしれない。
「父はもう亡くなりました」
塔子の目がπの紫水晶を見据える。その視線は、無知な子供を憐れむ色を孕み、πは更に混乱した。
「知らなかったのね。吉馬さんは生きてるわよ」
早良波羅道が去ったあと、Ωをどうやって安全に運ぶかで数美と創は頭を悩ませた。出血は止めたし輸血もしたが、Ωの身体は万全とは程遠い。そうこうしている内に、見慣れた黄金色の髪の少年が結界内に現れた時には、数美はほっとした。πは思案顔で、とりあえず数美と創に礼を言った。
「Ω。らしくないな」
「いきなり呼ばれたんだ。抗戦するしかなかった」
「調子はどうだ」
「お姫様抱っこして運んでくれ」
「良いぞ。そのまま氷の張った湖に投げ込んでやる」
「待て待て、冗談だ」
「冗談を言える元気はあるんだな」
πは数美と創の顔をそれぞれ見た。
創が羨ましいと思う。背負うものなく、ただ純然と数美を守る為に動ける。
「影蔵創。君の異能は特別だな。使い方によってはほぼ無敵だ」
「そんなこともないさ。相手の許諾がなければ能力のレンタルは不可能だし、〝返却期間〟を過ぎると、新たにレンタルしないと使えなくなる」
「成程。ユニークだ」
「それより、こんなことはこれからも続くのか」
創が真顔で尋ねる。彼が懸念するところは、πにもよく理解出来て、しかし否定してやれないのが現実だった。
「続くだろう」
「いつまで」
「解らない」
「数美を危険に晒すのは嫌なんだよ」
率直な物言いに、πも同意せざるを得ない。現状、数美が当事者から外れることはあり得ないのだ。そうである以上、彼女は危険と無縁ではいられない。
「俺も同じだ。……君は良い奴だな」
πは数美と創を数美の家に送ったあと、Ωと共に家に帰った。数美たちを学校に戻すことも考えたが、非常時の後ゆえに、念の為に家に帰した。学校には塔子が連絡するだろう。家に帰り着き、Ωを部屋に寝かしつけ、α共々、看病をzに頼んで自室に戻る。おやつは何が良いとxに訊かれたのでチョコレートパフェと答えておいた。
自室の障子の白い紙を透かして冬の侘しい陽光が入ってきている。佩刀していた刀を机の上に置く。猩々緋王という銘の華麗な刀は父の形見だ。その筈だった。
絵はヤシロヒトセさんよりいただきました。




