028、119番
成績操作の件では、案の定、篠崎に散々、嫌味を言われたが、数美たちは羅宜雄のことを黙して通した。羅宜雄は数美たちに感謝して、時々、話しかけてくるようにさえなった。阿頼耶識はそんな数美たちのことを遠巻きに見ている。学校の中での同じ番号持ちで、一定の親しさを互いに感じられるのは良いことだ。阿頼耶識は判らないが、羅宜雄は数美たちにはにかむような笑顔を見せるまでになった。
家庭の事情で色々大変だろうが、今回、自分が引き起こした騒動で、羅宜雄なりにそれまでとは違う気の持ちようで両親に接することが出来るようになったらしい。数美はそのことを素直に喜んだ。蓮と満天の星の見える場所については、彼は夢で見たことであり、そこにいた人物が数美の名を呼んだということ以上のことは解らなかった。数美はそれで良いと思っている。
体育の時間の終わり、寒い寒いと口々に言いながら数美が同級生たちと着替え終わって、教室に向かっていると、誰かに呼ばれた気がして〝振り向いた〟。
振り向いた先には白い空間が広がっていた。誰かの強化結界の中だ。なぜ、誰が自分を呼んだのか。
そこに立ち、冷えた視線で数美を一瞥するのが統監府第三課二班班長・早良波羅道だということを数美は知らない。問題は彼と対峙している相手である。白髪、金色の目の青年。どちらも面識のない相手だ。番号持ちか、記号持ちか。
「蓮森数美。君を呼んだ覚えはないのだが」
早良は淡々とした声で言う。長身痩躯の彼の声はバリトンの響きだ。
「それともそこの男が年端も行かない少女に助けを求めたかな。だとしたら大人として、男として情けないと称しておこう」
「貴方は誰だ」
「失礼。名乗りが遅れたな。私は数学統監府第三課二班班長・早良波羅道」
「俺はお嬢ちゃんを呼んだ覚えはないぞ。数美ちゃんだね。俺はΩ。πの仲間だ」
数学統監府とπたちの勢力の衝突。
もう事態はここまで進んでいたのか。ではここに自分を呼んだ相手は一人しか思いつかない。自分はどうするべきか。出来るなら仲裁に入りたいが、とてもそんな雰囲気ではない。だが。
「早良さん。Ω。退いてはくれないか。僕は、どちらにも肩入れしたくない」
「出来ない相談だ、蓮森君。それに君が参戦する必要はないよ。この男は私が」
不自然に早良が言葉を切った。数美には容易にその言葉の続きが推測出来た。
「Ω。逃げてくれ」
「お嬢ちゃん。それは男の沽券に関わるってやつだ」
「早良さん。なぜこんな強硬手段に出た。πは話し合いのテーブルに着く気はあると言っていた」
「課長の判断だ。潜るレジスタンス。〝記号持ち〟を消せと。しかし青鎬あたりは葛藤しているだろうな。文字通り、あれはまだ青いから」
数美はΩを見る。
彼は美しい青年だった。白い髪も金色の瞳も、神秘的でπに通じるものがある。記号持ちは総じて容姿に恵まれていると決まっているのだろうか。
しかし彼は美しいだけではなかった。無数の花々がΩの周りに浮遊する。それは花弁をまき散らしながら早良に向かった。早良は手を緩慢に動かし、烈風でこれらをはたき落とした。
「花は嫌いか?」
「肌を焼く花はな。散れば良いのだ。散々、散々、散々」
早良の言葉に合わせて真空の刃がΩを襲う。避け切れず、Ωの身体から鮮血がしぶく。数美に通じる異能だ。
(散々。33の番号持ちか)
「肉よ、肉よ」
言いながら数美は早良に近接し、飛び蹴りを放った。熱された肉が何枚も飛来して早良の顔面を覆う。だが早良は無表情でこれを拭い、飛び蹴りも腕一本でガードした。
「蓮森君。大人しくしていてくれないか。私は君を傷つける積りはない。すれば課長にも叱責されるだろうしな」
「Ωを傷つけないでくれ」
「不承知」
「ならば僕も退けない」
すい、とΩが動く。数美と早良の間に割り込む。数美の身体を柔らかく押し退け、早良の腹部に膝をめり込ませた。まだ先程、早良から受けた傷は塞がっていない。流血しながらの攻撃だった。
Ωのこの攻撃は有効だったらしい。早良は身体をくの字に折り曲げ、間合いを取った。
「――――斬斬、斬斬、斬斬」
散々、の攻撃より尚、深く鋭く早い刃がΩに向かう。数美は無意識にその前に身を晒していた。父に叱責されるかもしれないと思った。
(でも父さん、僕は死なせたくないんだ)
刃は数美とΩを紅に染めるかと思えたが、Ωが記号の刻印された右手のひらを前に押し出すと、弾力のある膜が生じて早良の攻撃を無に帰した。花がふわり、ふわりと舞う。
早良は無表情の裏でこの事態を苦々しく思っていた。
蓮森数美。
蓮森征爾の娘。
『最適解』の鍵を握る人物。そして1と2と3の命運と動向の鍵でもある。課長から、彼女は傷つけるなと厳命されている。
早良の判断は早かった。瞬息でΩに迫り、頸動脈間近で「斬」と囁いた。Ωの首から血が噴出する。同時に早良も花の毒に焼かれ傷を負った。数美の顔色は蒼白となる。
「駄目だ、駄目だ」
「……退きなさい、蓮森君。止めを刺す」
自らも痛苦に苛まれながら、尚、早良はΩに迫ろうとする。
〝数美。その異能だけは使ってはいけない。使えば貴方は、人としての道を踏み外す〟
数美はΩに抱きついた。赤い雨が彼女にも降りかかる。
「蓮森君」
数美は拒絶の意を表すべく激しくかぶりを振った。
Ωが死ねばπが悲しむ。
(π。何をしているんだ。早く来てくれ。Ωが死んでしまう)
「119のレンタル受諾」
響いたのは、πではなく創の声だった。
表紙絵は志茂塚ゆりさんよりいただきました。