027、トライアングル
ふー、と青鎬は息を吐く。
最近、どうにも周囲の空気をきな臭く感じる。きっかけは蓮森数美の番号発覚あたりからだっただろうか。あれから記号持ちの連中との接触が続いた。部下の凍上も涼しい顔で何事か隠しているような気がするし、三班班長の砂嘴に至っては明らかにご機嫌斜めだ。何かあったのかと訊きたいが、藪蛇になりそうで怖い。
結局、かずお君のイラストつきのマグカップでコーヒーを飲んでいる。天気だけは青鎬の胸中とは関係なく晴れ渡り、それと比例して冷えてもいる。冬の空気だ。青鎬は冬の容赦なさが嫌いではなかった。砂糖は入れ過ぎると良くない。人をスポイルして駄目にする。
砂嘴が女王の足取りで青鎬に近づいてくる。
正直、逃げたい。が、ぐっと堪えて表情筋の準備運動をする。
「何を百面相している、青鎬」
「いえ、砂嘴班長。何かあったのですか?」
あ~あ、訊いちゃったよと青鎬は心で嘆息していた。
果たして砂嘴の顔は般若の如くなった。
「蓮森数美が私と黄金の美少年の遊戯の邪魔をした!」
青鎬の頭の中でこの文章が意訳される。
「つまり、πとの戦闘中に蓮森数美が介入したのですか?」
「介入したと言うか、二人で私に抗してきたと言うか。あちらは手負いも抱えていたしな」
「手負いとは」
「αと言ったか。お前が一戦交えた水使いだ。占いで居場所が解ったので篝を遣わしたのだ」
「毒ですか」
「そう」
「剣呑ですな」
「派手にやり合ったお前が言うか」
確かにそれを指摘されると返す言葉がない。
要は毒でαを不能にして捕らえようとしたところを、数美やπに揃って阻止されたということか。数美が居合わせたのが偶然かどうかは判らないが、彼女は無抵抗のαを見て、それを連れ去ろうとする篝に対して拒否感を覚えたのだろう。義侠心に厚そうな彼女のことだ。
しかしそうなると、と青鎬は懸念を抱く。
数美が記号持ちの側に近しくなるのではないか。数美は統監府に勤めていた父親を失踪という形で失くしている。約束を違え無理矢理に早く入府させようとしたり、砂嘴のような強引なやり方を見れば彼女の中で数学統監府への疑心暗鬼の念は膨らむだろう。そこにπという、年頃の少女であれば誰もが見惚れるような王子様じみた美少年の介入だ。数美がπに、ひいては記号持ちの集団に傾かないとは限らない。
「何を考えている?」
「……蓮森数美の去就ですよ」
「愚かな。あれは統監府に来る予定だろう?」
「予定は未定です。あんたらが余計なことしたお蔭で、彼女が統監府嫌いになっても不思議じゃないんですよ」
砂嘴の片眉が綺麗に吊り上がる。
「あのお嬢ちゃんが胡乱な輩に就くと?」
「その可能性もあるってだけです。……砂嘴班長。あまり単独の行動は互いに控えましょう。ここは三課三班揃って動くようにするべきです」
「――――貴様の言い分にも一理あるな」
黄金の鎖を身体に巻き付かせた砂嘴は僅かに俯いた。マスカラすると睫毛長く見える、などと青鎬は違うことを考える。美女であることは青鎬も否定しない。苛烈な性格と併せて好みではないだけだ。
αは暖房の効いた室内の布団に寝ていた。彼が寝かされている部屋は、αがこの家を飛び出る前に使っていた部屋だ。まだ当時のままにしてあったらしい。感謝よりも、戻る可能性のない男の部屋をそのままにする酔狂に呆れる。障子戸。箪笥。机に椅子。凡そ八畳の室内には和風の調度が置かれていた。ノックの音がする。αは応えなかったが襖は開かれた。
zが土鍋の載った盆を持って入って来る。その後ろからπも。
「具合はどう? α」
「良くはないな」
「卵雑炊を作ったの。食べられるかしら」
「ああ」
気怠い身体を起こすと、軽く眩暈がした。まだ毒が抜け切っていないらしい。
「熱いから、火傷しないように食べてね」
zの柔和な笑顔を見て、一瞬、滅茶苦茶にしてやりたい衝動に駆られる。ふと、冷ややかな視線を感じて振り向けばπの紫水晶の瞳とかち合う。お目付け役と言ったところか。
「z。αと話があるから外してくれないか」
「解ったわ」
αの心境はともかくとして、胃袋は猛烈に食糧を欲していた。
散蓮華で雑炊を掬い、口に運ぶ。
πはしばらくそんなαを黙って見ていた。
「何だよ、π。涙流して感謝でもして欲しいのか」
「次は処断リストに加えると言った」
ピタリとαの手が止まる。
「だが今回ばかりは、お前は被害者だ。ノーカウントとする。しかしお前は独断行動をこれからも続けるのだろう。それがこちら側の不利益になることは避けたい」
「つまり何が言いたい」
「……うちに帰って来ないか。α。父さんもきっと、それを望んでいる」
αは目を瞠った。
「お前は戦力にもなる。他の連中も、言葉にこそ出さないものの、お前を心配している」
〝私と一緒に来ないか〟
吉馬によく似た相貌で、吉馬に似たことを言う。親子ということだろうか。
「考えておくよ」
「そうか」
「お前、少し成長したな。何かあったか?」
πがきょとんとして顎に手を当てて真面目に考える。
「数美と交換日記を始めた」
「ああそう」
返って来たのは心底どうでも良い情報だった。πは数美を好いているのだろうか。だがそれもどうでも良い。自分がこの陽だまりのような家に、吉馬なしでいられるかどうか、それが当面の問題だった。
数美は後ろ髪を引かれる思いで登校した。
亜希と創にはあった出来事を全て話した。特に創は、砂嘴の話のあたりでぶるりと身を震わせていた。π程には神がかっていないものの、創も十分、美少年と呼ばれる類であり、砂嘴が見れば嬉々として金鎖を振り回して襲い掛かることはあり得ると考えられた。
「交換日記ねえ」
亜希が含むところのある口調で呟く。
「何だ?」
「随分と古風なのね。数美のお相手は」
「僕の相手と言う訳じゃない。恐らくπは、僕の周囲の状況をこれで把握しておきたいんだろう。そこには蓮森征爾の娘だからという理由が大きく関わっている」
「それならメールでも良いでしょ? 数美、男心が解ってないわ」
亜希はちらりと創を一瞥する。
創は沈黙している。
さてこの奇妙な三角関係はどうなることかと亜希は考える。数美も創も、大事な親友だ。創が、数美を好いていることは随分前から知っていたが、こと恋愛においては鈍感な数美は気づく素振りすらない。これでは創が哀れというものだ。その、創が口を開いて言ったことは。
「何だか最近、番号持ちや記号持ちのいざこざに巻き込まれている気がするな。特に、数美。お前は親父さんのことがあるから尚更なんだろう。数美の入府を早めようとしたあたり、統監府も躍起になってる。厄介な事態にならなければいいが……」
「真面目か」
「何だ? 亜希」
「何でもなあい」
創の想いが数美に届かないのは、何も数美の性格の為だけではないらしいと亜希は思い直した。母の編んでくれたピンクの手袋に包まれた手でコートの前を掻き合わせて、空を見上げる。
一筋の飛行機雲。
滑り落ちてゆく。
何か、どこかに、密やかに。
イラストは加純さんより頂きました。




