026、相手が女神アテナでも
πが風呂から上がり服を着ると、待っていた数美が自分の部屋に案内した。πは基本的に年上の人間に囲まれて暮らしている。だから同年代の少女の部屋が物珍しく、ついしげしげと見渡してしまった。ドレッサーやクローゼット、テディベアなどπとは縁のないものが多く、新鮮な気持ちになった。ここで数美が寝起きしているのだと考えると、なぜということもなく照れ臭いような後ろめたいような感情が湧く。
「π、炬燵に入って。湯冷めするよ」
「うん」
数美に招かれて大人しく炬燵に脚を入れる。ちらと見た数美は、紺色の蝶が染め抜かれた浴衣の上に、丹前を羽織っている。
「はい、これ。返しておくね」
数美がπに厳かな手つきでπに渡したのは、朱塗りの鞘に納まる日本刀だった。紫の飾り紐が垂れて炬燵の上の台に当たっている。通常であれば柄には柄巻という紐や鮫皮などで滑り止めがついているものだが、この柄には彫金細工が施されているだけだ。しかしπはこの柄で手を滑らせたことはなく、いつも恐ろしくしっくりと馴染む。そこには父の異能の名残が感じられた。
鍔にも水煙と牡丹の透かし彫りと象嵌細工がある美麗な剣だが数美の細腕には武骨とπの目には映る。刃渡りは大人の大刀と変わらないので、尚更だ。ずしりとした重みを感じると、πはほっとした安堵を感じた。
「預かっていてくれてありがとう」
「ううん。大事なものなんだろう?」
「父さんの形見だ」
「そうか」
数美が痛ましそうな顔をするのを見て、πは彼女の善良を思う。優しい少女だ。その優しい少女が、これから起きる闘争の渦中で、どれだけ苦悩するかと考えると、πは暗い気持ちになった。せめて自分が彼女の盾になれれば良いが、πにはπの事情があり、xたちを率いる人間としての責務がある。影蔵創なら或いは何のしがらみもなく数美を守れるだろうと考えて、πの胸がちり、と痛んだ。
「飲んで。ココア。温まるよ」
「うん」
「π。あの統監府の女の人と前にも会ったことあるのか?」
「ああ。統監府地下に潜った時」
「地下に。なぜ」
「……あそこに眠る番号持ちを奪う。その下見の為に」
「番号持ち? それって1と2と3のこと?」
「そうだよ。巷にも流布してるんだな」
「信憑性のない噂としてだ」
「そうだろう」
「奪って、どうするの」
「仲間に引き入れる。数美は知らないだろうけれど、彼らは君のお父さん、蓮森征爾のことをとても慕っていたんだよ」
数美の焦げ茶色の双眸が思案深く色を濃くする。
「それならπとしても、僕を引き入れたほうが得策なんだな」
「そうだけど、数美が好きなのは嘘じゃない」
「解っている」
数美が微笑する。悲しみ混じりの微笑だった。
彼女は気づいていた。πが一人の少女の為だけに生きられる存在ではないということを。多くの人間に求められ、そしてそれに応えられるだけの器の持ち主であるということを。
「1と2と3を仲間にしてどうするんだ」
「最初は不干渉を通す積りだった。けれど情勢が変わった。統監府に対抗出来るだけの力を保持しておきたい」
「何の為に」
「専横を阻む為。今の在り方が異常なことくらい、数美も感じているだろう」
「テロでも起こすのか」
「交渉のテーブルに座る余地はある。こちらにはね。だが、統監府側から仕掛けてくるだろう。番号持ち、記号持ちたちの争いは避けられないだろうな……」
「――――嫌だ」
「数美?」
「僕は嫌だ。人が傷つけられるのも、死ぬのも――――……πが死ぬかもしれないなんて嫌だ」
そうかと数美は合点した。だからこの少年は、こんなにも神に愛される容貌をしているのだ。神に愛されるゆえに早く召されようとする。
「僕は相手が女神アテナでも、πを渡す気はない」
しどけない浴衣姿の少女が言うには、余りに凛として気高い声音だった。πは、大勢に求められる人間として、私情の多くを封じて生きて来た。だが数美のこの言葉は、πの心を根幹から揺るがした。いつか自分が刀折れ力尽きる時でも、この瞬間のことは忘れないだろうと思った。
「あ、交換日記、書けたよ」
こくん、とココアを一口飲んでから、数美がπに大学ノートを差し出した。
「ありがとう」
この礼の意味を、数美は気づかないだろう。πは孔雀色のノートを見て、再び言った。
「ありがとう」
それからしばらく喋って、πは部屋を出て数美はベッドに入った。
数美は暗い部屋の中、繰り返された「ありがとう」の意味を考えていた。数美もπも、大きな喪失を経験している。だから、その予兆に過敏なのかもしれない。自分の右手のひらを見る。29の刻印。固く縛められた、能力は、幸いにしてまだ使う状況に至っていない。その能力を使えば、自分は人としての一線を超えてしまう気がする。πに嫌われるかもしれない。
それでも、例えばπや亜希、創や塔子たちを守る為であれば、自分はその禁忌を犯してしまうのだろうと数美は考えていた。
リビングに敷いた布団に横たわるαを、塔子はじっと観察するように見ていた。
「……吉馬」
αが洩らした寝言に塔子はぴくりと身じろぎする。
吉馬。催馬楽吉馬?
なぜ、その名前を彼が。
催馬楽吉馬は夫である蓮森征爾の友人だった男の名前だ。
αは夢を見ていた。
吉馬が穏やかに微笑んでいる。何だ、生きている。なぜだか自分は彼のことを死んだものだと思い込んでいた。莫迦らしい勘違いに苦笑する。
けれど吉馬の微笑は徐々に苦悶の表情に変わり、唇から血がごぽりと溢れ出た。αは仰天して彼の元に駆け付けようとするが、なぜだか金縛りに遭ったように身体が動かない。
〝吉馬は死んだわ〟
zの言葉が響き渡る。あの翡翠の目をした女。吉馬の最期を見たと言った女。殺してしまおうかと思った。そうすれば吉馬の死はなかったことになると。
そんな行為に何の意味もないことくらい、自分が一番よく知っていた。
吉馬はもう戻らない。
吉馬はもう、戻らない。
薄ぼんやり目を開けると、余り見たくない顔があった。黄金色の髪、紫水晶の瞳。鬱陶しくなるような造形美。ここはどこで、自分はどうしたのか。朝の光が眩しく射し込む、広い室内に敷かれた布団にいることは判った。
「気が付いたか、α。ここは蓮森家だ。数美がお前を救った。今からお前を連れて帰る。礼を素直に言うようなお前ではないだろうが、せいぜい数美と数美のお母さんに恩を感じるんだな。そしてお前は今日一日は安静に過ごすんだ」
反駁したい気持ちは十二分にあったが、αはそれを呑み込んだ。まだそこまでの体力が回復していないからでもある。結局、自分はあの毒女にしてやられたのか。情けない。
「じゃあ、数美。またね」
「うん。また」
πが剣先で円を描き、αを背負うと、その中に足を踏み入れた。数美は塔子と彼らを見送り、ほうと息を吐いた。気のせいか塔子の顔つきがやや厳しい。
(父さん。僕は言われたように上手く出来るだろうか)




