025、女のプライド
ジャラリジャラリと砂嘴が鎖を身体から解いてゆく。それは降臨した女神が衣を脱ぐ様にも似た圧と迫力があった。
「また会ったわね、坊や」
「……」
「π、知り合いか」
「お嬢ちゃんは初めまして。私は数学統監府第三課三班班長の砂嘴楠美よ。そこの坊やは先日、うちの地下室にコソ泥に入ったの。撃退したけど」
「下見がてらの潜入だ」
「弱い犬程、てね」
「数美、下がって」
「おや、今度は逃げないの? 良いのよ、逃げて。逃げ惑う美少年をいたぶるのもぞくぞくするわあ」
「数美がいる。無様なところは見せられない」
「あら青春ねえ」
金色の鎖の先端についた分銅が過たずπに向かう。πが避けるとそれは地面にめり込みズン、と音を立てた。素早く砂嘴がそれを引き抜きまたジャラジャラと旋回させπを拘束しようとする。
πは抜刀した。πの得物は日本刀だ。柄は紫の組紐で彩られ、金色の彫金細工が精緻に施してある。刀ごとπを搦め取ろうとした砂嘴の鎖を弾き、直後、砂嘴の間合いに瞬息で入り刃を凪ぐ。砂嘴はこれを紙一重で避けて距離を取る。またπが間合いを詰め、今度は刺突を繰り出す。砂嘴の顔から表情が消える。彼女が本気になった証だ。
πが剣先で円を描いた。そこから炎が噴き出し砂嘴に向かう。砂嘴は鎖を振ってこれを鎮火する。続けて鎖と刀の応酬。
数美はπに助力すべきかと迷ったが、今は迂闊に立ち入れない。その上、πの矜持が数美の手出しを許さないようにも思えた。とにかく、蹲りαの上半身を抱いて守りと援護に備えた。
πが剣先で円を描く。すると今度は先端が鋭利に尖った氷が何本も突出した。砂嘴の鎖がこれらを打ち砕こうとするが間に合わない。砂嘴は大きく間合いを取る。
「その異能、便利なのね」
πは答えない。異能の全容を明かす真似はしない。それは砂嘴も同様だろう。彼女の能力がただ鎖を振り回すことだとは思えない。まだ何かある。
ジャラン、と音が鳴り響いた。
砂嘴の周囲には、何本もの鎖が顕現していた。いずれも、今、砂嘴の手にあるものと同じ太さ、長さだ。
「面倒だから、まとめて来てもらうわ」
砂嘴が腕を一振りすると、鎖の群れがπと数美、数美の腕の中のαに向かった。
彼らは金色の檻の中に閉じ込められた。外観は金色の鎖で出来た団子のようだ。うぞうぞと蠢いている。中は密閉空間となっていて、蟻の這い出る隙間もない。πが剣の刃に指を置く。
「円の加護。強化その一」
砂嘴は地に伏している部下に目を遣る。この金色団子と彼女を同時に連れ帰るのは骨だ。空間転移の異能を持つ職員に来てもらうかそれとも――――……。
思案の最中だった。πたちを閉じ込めていた鎖がすっぱり切れた。バラバラと金の切れ端が落下する。砂嘴は目を瞠る。砂嘴の遣う鎖の強度はダイヤより尚硬い。それを切り裂く刃などあろう筈がないというのに。
破れて粉々になった金色の檻の中から剣を構えたπの姿が現れる。後方にはαを庇うように蹲る数美。
「戦闘に油断と過信は禁物だ。お姉さん」
「そうね。そのようね。坊やは大人しくいたぶられてくれそうにないわ。困ったわ」
困った、と言いながら、砂嘴はまだ余裕のある表情だった。グロスの塗られた唇は弧を描いて艶めいている。
「じゃあ、これならどうかしら」
砂嘴がウィンクする。ゴトリ、と、何か重量のあるものが落ちる音。
金色の巨大な直方体がπたちを囲んでいた。
「私の能力の一つ。100×100×100センチの直方体を生み出すこと。硬度は高い。鎖は斬ることが出来ても、厚みのある塊はどうかしらね?」
砂嘴の声を聴きながらπは即座に判断する。
これは斬れない。ならば。
その時、後方にいた数美が囁いた。
「肉よ、肉よ、切実に」
シュパーンと小気味よく砂嘴の右腕が切れた。傷は深くないが、砂嘴を驚愕させるには十分だった。すぐにこれはπではなく数美の異能と悟る。数美は障壁の有無関係なく相手に傷を負わせることが出来るのだ。ゾッとした。どのくらいの距離を置けば、この真空の刃から逃れられるのか。πより余程、恐ろしい異能ではないか。
しかし砂嘴にもプライドがあった。彼女からすればまだほんの小娘に過ぎない数美にしてやられてばかりは気に喰わない。右手のひらを前に出し、空気を握るようにぐぐ、と拳を作る。πたちを囲む直方体が包囲を狭める。更に拳を作り、直方体内部の空間を圧縮させる。πやαはともかく、蓮森数美を死なせれば上司からの叱責は必至だ。だが砂嘴は後に退く気はなかった。彼女のプライドに傷をつけた者、即ち死すべしである。
一方、直方体に囲まれた数美たちはこの現状を打破すべくそれぞれ思考していた。
πも数美も窮地を脱する術を持ってはいたが、それを使うことに躊躇っていた。数美はなるべく人を傷つけたくなかった。その意に反して彼女の能力は人を殺傷することに非常に適性があった。πもまた、出来る限り事を穏便に済ませたかった。毒を盛られたらしいαの容態も気にかかる。一刻も早く処置する必要性を感じる。
「円の加護。強化その二」
πが囁くと、金色の直方体に円の道がぽっかり出来た。
丸い空洞を通り、αを背負ったπと数美が出てくる。砂嘴の瞳が見開かれる。きつく唇を噛み締める。この化け物たちが。その思考は彼女自身にも帰るブーメランではあったが、砂嘴の思いを如実に反映していた。
「お姉さん。提案がある」
「何かしら、坊や」
「一時休戦にしてくれないか。αの処置をしたい」
「……その男。αだったかしら? 死なないわよ。私が篝に命じたのは統監府に連行する為の一服だもの。処置しなくても時間が経てば効果は切れるわ」
「そうだとしても、俺はこいつを安全圏に連れて行く義務がある」
「良いわ。本当なら坊やを滅茶苦茶にいたぶりたい気分だけれど、今は提案を呑んであげる」
「感謝する」
πは刀で宙に円を描いた。
数美に手を差し伸べる。
「数美。来て。家まで送るよ」
「それならπ。うちに寄って行かないか。πたちの家より近いだろう。αは、命に別状がなくても早く安全なところで休ませる必要がある」
「数美がそれでも良いなら」
そうして二人は円の向こうに姿を消した。
砂嘴が静かな眼差しで彼らを見送る。その静かさは穏やかさとは遠く戦意に満ちていた。
πやαを連れ帰った数美に、塔子は最初こそ驚きを示したものの、すぐにいつもの冷静な表情に戻り、リビングに布団をてきぱきと敷いてαを寝かせた。服毒、と聴いて思案した後、どこかに電話を掛けていた。そしてπや数美に温かな飲み物を出すことも忘れなかった。
やがて蓮森家を訪れたのは前髪が長くて目が見えないおかっぱの女性だった。ジャージの上に白衣を羽織っている。
「塔子さーん。診て欲しい人ってどこ~?」
「来てくれてありがとう、有栖」
「良いの良いの。塔子さんのお願いなら」
有栖と呼ばれた女性はリビングに横たわるαを一瞥した。πはやや警戒気味に有栖を見ている。数美は、母の知り合いならば心配はないだろうと信用していた。ふんふん、と有栖は頷き、αの額に手を当てた。
「はい、解毒完了~。副作用や後遺症の心配もない、割と優しい毒だったよ。一日は安静が必要だけどね。でも119番の私にはちょっと物足りなかったくらい」
番号持ちだったのか、とπと数美は同時に驚く。有栖が帰った後、塔子は彼女が治癒に特化した異能を持つことを話した。
「π君はどうする? もうこんな時間だし、泊まっていくなら部屋を用意するけど」
「いえ、それは流石に悪いですし」
「αさんのことも心配でしょう」
「……」
「冷えたでしょうからお風呂に入りなさい」
有耶無耶の内にπは蓮森家に宿泊することになった。
数美が炬燵に入って一緒にお喋りしようと言うと、πはこくんと頷いた。その頬は紅潮して、砂嘴と対峙していた少年とは別人のようだった。




