024、毒と肉
それは、全くの偶然だった。
数美が緑と濃紺のチェックのPコートを着て、統監府近くの本屋まで向かっていた時のことだ。他の本屋より大型のそこは品揃え豊富で、学術書、芸術関連の本も多数、取り揃えてある。夢野久作の作品を題材にした画集の発売日が今日であるということを今になって思い出した数美は、夜の外出を塔子に渋い顔をされながら断行していた。
大通りの横道、黒いコートを着た女性が、青い長髪の男性を車に連れ込もうとしていた。数美はその男性に見覚えがあった。αだ。青鎬と数学統監府の屋上で戦闘した謎の男。πとも関わりがあるようだが、どうしたのだろう。彼らが出て来たのはバーだった。普通であれば酔い潰れた男を連れの女性が介抱していると見るところだが。
αは、野生動物のような男性だと数美は考えていた。疑い深く慎重で、容易に人に弱味を見せない。そんな男が女性の前でそうそう簡単に酔い潰れるだろうか。
「あの、」
数美が呼びかけると、女性は眼鏡の奥の冷徹な瞳をこちらに向けた。
これは違う。
数美の勘がそう断じる。邪魔が入ったとでも言いたげな目で、それでも女性は笑顔を作った。
「何かしら、お嬢さん」
「その人、どうかしたんですか」
「ちょっと酔い潰れちゃって。ごめんなさいね、見っともないとこ見せて」
数美の確信が強くなる。
αが、人前で酔い潰れることはない。顔を合わせた回数こそ少ないが、数美はそう断言出来る。つまりは、目の前の女性は嘘を吐いていて、αは不本意な状況にある。顔色は赤くなく、寧ろ青白い。
気づけば数美は口にしていた。
「その人、僕が引き受けます。こちらに渡してください」
「何言ってるの、そんな細腕で」
「タクシー使いますから」
「大体貴方、何の権限があって」
「その人の本名、ご存じですか」
女性の目が泳ぐ。やはりだ。
「彼を離せ」
ふう、と溜息を吐いた女性は、αをひとまず車に乗せる。
「肉よ、肉よ」
数美の言葉と共に焼き上がったばかりのビフテキが何枚も飛来し、車のタイヤを固めて走行不能にした。女性の顔つきが変わる。
「全く。余計なことしてくれるお嬢さんだこと。蓮森数美ちゃんね? 私は数学統監府の第三課三班の篝英恵。砂嘴班長から彼の〝回収〟を命じられているの。邪魔をしないで頂戴」
「なぜ、そんなことを?」
「彼には一班班長青鎬と戦闘した前科がある。即ち統監府に牙を剥く犬である可能性が。連れ帰り、それなりの裁断を下す必要があるわ」
「……毒でも盛ったのか? 手荒過ぎる気がする。確かに彼は青鎬さんと戦ったが、あれは青鎬さんも望んでのことで、私的闘争だったように見えた。あれだけで彼に統監府への叛意を問うことは強引ではないだろうか」
「よく口の回るお嬢さんね。だとしても、私は上司の命令に従うだけ」
「僕が邪魔すると言ったら」
ふ、と篝が笑んだ。この人は笑うと美人に見えると数美は思う。但し穏便な笑みとは程遠かった。
「お嬢さんに、退いてもらうまでよ」
篝は109と書かれた右手のひらをひらひらと振った。
彼女の異能が毒に特化したものであるであろうことは数美にも見当がついていた。ゆえに、自分の周囲に薄い結界を張って防御した。29の刻印のある手のひらを振る。熱い肉が飛来して篝を襲う。篝は何枚かを手で打ち払ったが、仕損じた肉は彼女の肌に張り付き火傷を負わせた。
「痛い、酷いことするのね。女の肌に。痕が残ったらどうしてくれるの」
「そこは、済まない」
篝が正拳突きを繰り出す。数美は退いて、後ろ回し蹴りを篝の細い身体に当てる。篝も後退したので、勢いはかなり削がれた。と、と、と、とビルの壁から壁に跳んで、その勢いのまま数美は篝に蹴りを更に放つ。だが動きが読まれていたので、安易に避けられ、数美の脚は空しく宙を蹴った。そこに出来た隙に篝が猛攻を仕掛けるが、これも数美の計算の内だった。
繰り出された肘に自らの腕を絡ませて篝の頭部に掌底を当てる。手加減はしなかった。
確実にクリーンヒットした掌底は篝に脳震盪を起こさせた。ぐらりとその場に倒れる。
数美はほう、と息を吐く。息は白い塊となった。車の中のαに声を掛ける。
「α。α、起きて」
だが返事はない。呼吸はしているが、完全に意識を失っている。数美は途方に暮れた。彼女一人でαの身体を動かすことは出来ない。タクシーを拾えれば何とかなるかもしれないが、大通りまで距離がある。
「π……」
確信があった訳ではない。
けれど、数美は無意識にπに助けを求めた。ふわり、と白いコートが路上に降り立った。天使みたい、と数美は思った。黄金色の髪がそよいでいる。紫水晶の瞳は、数美を案じる色だった。
「π」
「来るのが遅れてごめん、数美。視えていたんだけれど、異能が作動するまでに手間取った。たまにこんなことがあるんだ。αを助けてくれてありがとう」
「ううん。彼を、助けてくれるか」
「もちろん。一応は俺たちの仲間だ」
πは車の中からαの身体を引き摺り出した。背負い、数美のほうを向く。
「この借りはα自身がいつか返すだろう。もう遅い。数美も早く帰るんだよ」
「うん」
「それは許容出来かねる」
割り込んだ声は円熟した女のものだった。
毛皮のコートを着込んだ彼女の髪の毛はカールして先端は紫。ストッキングに包まれた美脚は眩しい程。最も目を惹くのは全身に巻き付けた太い黄金の鎖。πとはまた異なる美の持ち主である数学統監府第三課三班班長・砂嘴楠美が嫣然と笑み立っていた。




