023、ハッセルバック・アップル
馴染みのバーで、αはウィスキーを呑んでいた。球形の氷が美しくグラスに納まっている。控えめなバーの暖色系の灯を氷がちらちら反射する。この店に入ったのは九時過ぎだが、外は大分、冷え込んでいた。初雪になるかもしれないと思う。
数学統監府が蓮森数美を無理矢理に入府させようとしたらしい。愚かなことを。猛獣に手枷足枷を嵌めて手懐けようとでも考えたのか。〝あれ〟はそんな窮屈な型に和む人間ではない。少女の皮を被ったモンスターだ。少し垣間見たαですら判ることが、長期間、観察してきたであろう統監府の人間になぜ解らないのか、そのほうがαには不思議だった。
林檎とベーコンを挟み込んだハッセルバック・アップルの塩気と甘味が絶妙に相まってブラックニッカによく合う。しばらくの時間は楽しめそうだ。αは自らに時折、走らされる視線を完全に無視していた。人目を惹く青い長髪。何本もの三つ編み。整った容姿。同性からは嫉妬を、異性からは憧憬を買うこの容姿は、別段、αが望んで得たものではなかった。髪も染めた訳ではなく生まれつきで、三つ編みは何となく、だ。
「お隣、良いですか」
可愛らしい声の主は、声に相応しい小鳥のような外見をしていた。紺色のパンツスーツ。緩く波打つウェーブヘアはハーフアップにして背の半ばまで流れている。眼鏡の奥の瞳は聡明な光を宿している。バーで男に声を掛けるタイプにも思えないが、特に害なしと判断して、αは顎を引いて了承の意を伝えた。
αは物心ついた時には一人だった。両親はとうに亡く、施設で育った。右手のひらにαの記号があることを、散々からかわれた。青い髪、青い目だったことも、からかいや苛めの要因となった。αは必死に自らを鍛え上げて敵対する人間を蹴散らしていった。雌伏の時は長く焦れたが、報復の機会が訪れるとその辛苦も吹き飛んだ。ある者はαにおもねり、ある者はαを異端視して遠ざかった。
どうでも良かった。何もかもが。
〝私と一緒に来ないか〟
催馬楽吉馬と出逢ったのは、ある暴力団の幹部を半死半生の目に遭わせて逃げていた時のことだ。雪が降る寒い日だった。追手をやり過ごす為に入った裏路地に、上等そうなコートを着た男が立っていた。彼はαがそれまで見たどんな人間とも違った。相対しているだけで包み込まれるような安心感があり、得も言われぬ吸引力を備えていた。
傷を負っていたαに吉馬は肩を貸して、自分の家まで連れ帰った。
〝俺に関わるな。面倒なことになるぞ〟
〝そうか〟
吉馬はαの低い声による忠告を軽く受け流した。吉馬はマンションに独り暮らしのようだった。αを連れて帰ると風呂に入れ、清潔な衣服を与えた。温かな手料理を振る舞い、ここで寝ろと言って部屋をあてがった。αは混乱した。これまでに、こんな優しさを受けたことはなかった。吉馬はαの青い髪や目でさえ、何でもないことのように、言及しなかった。
やがてαは吉馬に自分が記号持ちという特殊な人間であることを教えられ、力の遣い方も教わった。全てが、良い方向に流れ始めていた。吉馬が独り暮らしと考えたのはαの早合点で、彼には他に大きな家があるらしいと知った。そこには吉馬の子供や仲間が暮らしている。お前もいずれそこで暮らすと良いと言われた時のαの心境は複雑だった。彼は吉馬を独占したがっている自分に気づいた。
ここでこのまま暮らしたいと言ったαを、吉馬は諭した。
大勢の人間と関わりなさい。私は今、微妙な立場にある。君を危険に晒すかもしれないから。
吉馬の目は真剣で、誤魔化しがなかった。
そうしてαは吉馬の子供であるπのいる家に移った。そこにはxやz、yやΩなどの記号持ちや番号持ちがいて、αは初めて自分の他の記号持ちの存在を目にした。
だが暮らし始めてすぐにαは、自分には集団生活がとことん向かないことを知る。陽だまりのような空間が居心地悪いのだ。そこで暮らす人たちは皆、善良で優しかったが、吉馬とは違った。吉馬のような人間は、他にはいないのだと実感した。
吉馬という存在の得難さをαは痛感する。
だから、吉馬が死んだという知らせは、到底、受け容れられるものではなかった。
星の綺麗な夜だった。zが泣きながらxを連れて家に戻ってきた。吉馬の亡骸を見たと言った。吉馬を慕う家の人間たちはそれを信じたくなくて、zの発言の信憑性を疑った。だが、幼いπが告げた。父の死を。その頃、πには自分の見たい光景が断片的に見えるようになっていた。まだ幼く、呆然とするπを問い詰めたのはαだった。
誰が吉馬を殺したかと。
πは力なく首を振った。解らないと言って、静かに涙した。
そこで初めてαは、自分も泣いていることに気づいた。αは家を出て、一人で暮らし始めた。吉馬が生きていてこそのあの家だった。もう価値はないとそう感じた。
「難しい考え事ですか」
αはゆるゆると隣を見る。無粋だとは思わなかった。彼女の声は思慮深さがあり、αの神経を逆撫でするものはなかったのだ。
「生きていると色々あってね」
「そうですね」
グラスを傾ける。甘いような苦いような。感傷が多分に含まれた味だ。
ベーコンを摘まむと林檎の甘味が沁みた肉汁がじわりと口腔に広がった。
「お嬢さんにも何かあるのかい」
「お嬢さんなんて年じゃないですけど、ありますよ。色々と。仕事関係とか」
「成程ね」
「私の知り合いに占い師がいまして」
ここまで聴いて、αは判断を間違えたかなと思った。この若い女性はオカルト好きなのだろうか。それで青い髪の自分に近づいた。
「ここに来たら貴方に逢えると言われて、それで来ました」
確定だ。
ブラックニッカとハッセルバック・アップルが惜しいがαは席を立つ。そこで違和感に気づく。眩暈がする。足元が覚束ない。
女性が華奢な通信機器をポケットから取り出す。
「砂嘴班長? 捕らえました。今から帰還します」




