022、スプーンきっちり三杯分
数美は浴衣姿で、πに手渡されたノートの表紙を人差し指でなぞっていた。孔雀色の大学ノートはざらりとした感触で、ぺたん、と数美はその横に顔をつける。丸テーブルは炬燵と化していて、数美自身も浴衣の上に丹前を羽織っている。夜になり気温もぐっと下がっている。初雪が近いかもしれないとテレビで言っていた。言っていたのは優秀と評判の気象予報士で番号持ち。局の看板だった。最近、芸能人の誰それとの交際が発覚し、話題になっていた。
数美の数学統監府入りの話は消えた。
持つべきは偉大な母である。塔子は娘の青春を、権力が圧し潰すことを断固として許さなかった。亜希と創は、後に数美自身から通話で事情を話した。下校を待たずして学校から姿を消した数美を彼らは案じていたが、事情を聴くと納得し、とにかく入府にならなくて良かったと言った。
数美は古式ゆかしい大学ノートをしばらく眺めていたが、やがてページを開き、シャーペンで考えながらゆっくりと文章を連ね始めた。何を書こうかと思ったが、何となく内容は亜希や創、塔子など自分に近しい人のことが中心となった。後は最近あった成績操作の事件などについても、触れてみた。
とりあえず書き上がった文章を見て、数美は頭を横に傾げる。πはこんなものを見て喜ぶのだろうか。とりたてて派手なところのない、ごく一般の女子高生の日常だ。まあ、成績操作の件は別としても。
〝好きだよ〟
あれは本気だったのだろうか。πはいつも通り、黄金色の髪に紫水晶の瞳で、神様に作られたような造作だった。あんな人が意思を持ち、双眸を煌めかせて生きているだなんて信じられない。ましてや自分を好きだなんて。
けれどそうであることを示唆するような言動は確かにあった。
では自分は? 自分の心の中に、πを想う気持ちは少しでもあるだろうか。
数美は自分の心を探る。
ないとは言えない。事実、πの姿を見てから数美の心はざわめいていた。父に似ていたからというのも本当だが、π自身を気にかけていたというのも本当だ。まるで白馬に乗った王子様のような少年に告白されて、嬉しくないと言えば嘘になる。だが一方で、彼もまた、数美を〝蓮森征爾の娘〟と見ている向きは否めないと思う。高位の次元。満天の星空。蓮の浮かぶ池。
『最適解』。
父のいるところ。それが『最適解』の居場所と=だとしたら。ベッドの上にある、テディベアを見る。
緑色の瞳をしているから玉露と名付けたテディベアは、数美の宝物だ。お前をくれた人は、今頃どこにいるんだろうね、と、胸中で問いかけた。
「全く、上も情けねえなあ」
「青鎬さん、声を落として」
統監府内、青鎬と凍上はそれぞれのデスクで事務作業をしていた。
「でもまあ、良かったんじゃないですか。上が権力に日和ったお蔭で数美ちゃんは高校生活を続けることが出来る」
カタカタカタとパソコンのキーボードを打ちながら凍上は続ける。目は画面から離さない。
「俺たちの立場はどうなるんだ。あそこまでお嬢ちゃんに言っておいて、まるでピエロだぜ」
「ピエロでも良いんじゃないですか。結果が大事ですよ、青鎬さん」
「大人だねえ、お前は。恋人、元気?」
一瞬の間の後、凍上が答える。
「お蔭様で」
「良いねえ。リア充。爆発しやがれ」
「貴方がそれを言うと洒落になりませんね。大体、青鎬さんは興味がないだけでしょうに」
「いや、全くないこたないぜ? 出逢いに恵まれねえだけだ」
「ご謙遜を。二班の大台ヶ原は青鎬さんにぞっこんですよ」
「それ男な」
「秘書課の蛇腹岡も」
「それも男な。お前、解ってて言ってるだろう」
「青鎬さんは男気があるから、同性に人気があるんですよねえ」
「話題変えよ。泣けてくるわ」
「良いですよ。コーヒーでも淹れましょうか」
「おう。今度、お前の彼女について詳しく聴かせろや」
「守秘義務ということで」
「爆発しろ」
「だって青鎬さん、口惜しくて夜も眠れなくなっちゃいますよ?」
「爆発しろ!」
凍上は笑ってコーヒーの粉をフィルターに入れた。スプーンきっちり三杯。
今はこのくらいの量が丁度良いだろう。
数学統監府最上階。
見晴らしの良い室内。贅を凝らした調度品。一脚の椅子が驚く程高値の数学統監府庁長官室に、ロマンスグレーの紳士が一人佇んで夜景を眺めていた。若草色のツイードスーツが誂えたように似合い、様になっている。現・数学統監府庁長官である尾曾道哩は部下の人望熱くその人柄で多くの人々に慕われていた。
樫の木で出来たデスクの上の電話が鳴る。
「私だが。ああ。――――繋いでくれ」
電話を掛けてきた相手は蓮森塔子。数美の母だった。尾曾道は彼女の茶道の弟子である。蓮森数美の統監府入府の件で、阻止すべく意見をねじ込んで来た塔子の言葉に、尾曾道は従った。それが彼らの力関係であるからでもあるし、尾曾道自身、数美を今、入府させるのは強引と判断した為である。
「いや、礼には及びません。こちらが拙速に動きました。お嬢さんには気の毒なことをした。――――しかし、貴方も一人の母親なのですね」
今頃知りましたかと言う塔子に苦笑する。
「ああ、いや、失言でした。私からすれば征爾の奥方という意識が強くて」
塔子が沈黙する。再び失言したようだと尾曾道は察した。
「仕事がありますのでこれで。寒くなってきました。くれぐれもご自愛ください」
更なる失言を重ねる前に尾曾道は電話を切り上げた。
蓮森征爾と塔子を挟んで三角関係にあったのはもう随分昔の話になる。正直なところ、尾曾道は今でも塔子に未練がある。数学統監府庁長官という、この国でも一、二を争う権力者の席にいながら未だに独身を通しているのはその為でもあった。そうしたストイックなところが良いなどと、女性職員に人気があることを本人は知らない。
受話器を置いた自分の手のひらを眺める。
そこには4の数字が刻印されていた。
こいつの機嫌は解りやすい、とxは思う。伊達に長年、世話役をしてきた訳ではない。今、πは怒っていた。彼が怒ると紫の瞳の濃度が増し、まるで紫色の炎のようになる。
「統監府のやり方は姑息だ。俺は数美と征爾のリンクを再び待つ」
「待って、どうするんだ」
数美が強引に数学統監府に入府させられそうになった経緯は聴いている。ゆえにこその怒りであろうとの見当もつく。xはわざとゆっくりと尋ねた。
「征爾をこちら側に引き戻す。そして1、2、3、を奪う」
「どれもこれも実現にえらく骨折りそうなことを言うな、π。解っているのか?」
「解っている。だが、1たちを俺たちに就かせるにも征爾は必要不可欠なんだ」
「……お嬢ちゃんでは駄目かな」
「何?」
「いやだから、征爾の娘の言うことなら聴かないかなと思ってさ。お前、無事に交換日記を始められたんだろう?」
途端にπの怒りの空気が薄まる。解りやすい。
「数美をなるべく巻き込みたくない」
「征爾は良いのか」
「良い。元々が統監府にいた関係者だ」
「でもな。征爾を巻き込めば、必然的にお嬢ちゃんも来るだろうぜ?」
「…………」
紫水晶が戸惑いに揺れる。
「俺が守る」
そこらの軽薄な男が言えば空々しく聴こえる台詞だが、πの声には熱が籠っていた。
「そうか」
πがそう決めたのであればxにこれ以上言うことはない。
パスタの麺を煮立った熱湯に入れる。明太子をほぐしてオリーブオイルと刻んだにんにくを混ぜる。それからパスタの鍋の横で法蓮草を炒め、卵を片手で器用に割り落とす。今日は家で食べる連中が多いから、その分の量を換算する。
「x。お腹減った」
「もうちっと待ってな。お前、そこの檸檬ジュースをzに持って行ってやれ」
どんな時でも空腹を感じるのは健全な証だと思いながら、xはπに言う。
うん、と素直に頷いてπは檸檬ジュースの入ったマグカップを持って二階に上がった。
部屋の戸をノックするとか細い返事があった。
「入るよ」
zはαと戦ってから、風邪をひいていた。元々が丈夫でない彼女だ。山中の雪の中、水使いと戦えば身体に堪えるのは自明の理である。
zの部屋は、和風のπの部屋とは異なり、和洋折衷、モダンに整っている。無駄な物が一切置かれていないあたり、彼女の潔癖さを感じる。
「檸檬ジュース持ってきたよ。冷めない内に飲んで」
「ありがとう。xに家事を任せきりで悪いわね」
「気にしないで」
それはお前の言う台詞じゃないとxが聴いたなら苦言を呈しただろう。
寝巻にカーディガンを羽織り、起き上がったzに慈しみの目を向けてπはマグカップを手渡す。いつからこの子はこんな目をするようになったのだろうとzは思う。まるで今までと立場が逆転したようだ。xと二人、自分はπを親代わりになって養育してきたのに。ボタニカルアートの柄のマグカップは、zの手にしっくりと馴染む。因みにxは統監府のマスコットキャラであるかずお君のイラストのマグカップを使っており、πにはこれが大いに気に入らない。
「凍上薫が好き?」
πは先程までのxとの遣り取りに見せた怒りや子供っぽさとは全くかけ離れた大人びた視線でzに尋ねる。zはいくばくかの逡巡の末、頷いた。
「好きよ」
「じゃあもう、統監府に探りを入れる必要はない。彼と純粋に交際すれば良い。凍上にzを受け容れる器があるのなら」
「π。でも」
「俺は……。俺にも、好きな子がいるから、zに辛い思いをさせたくはない」
zはマグカップをサイドテーブルに置くと、πの身体を柔らかく抱き締めた。
「幸せになって。π。私たちの希望。私たちは皆、貴方のことを愛している。吉馬の子供だからという理由だけじゃなくて」
優しい抱擁に、πは束の間、目を閉じて身を委ねた。




