021、まずは交換日記から
いつも通り亜希と創と登校した数美は、職員室に呼び出された。
「――――え?」
「聴こえなかったか。お前に数学統監府からの入府要請が来ている。近日中に入府するようにとのお達しだ」
篠崎は忌々しそうに告げる。篠崎にとっても数学統監府は憧れの機関である。願わくば入府をと望んでいたが番号持ちでもなくこれといった特筆すべき長所もない篠崎には入府は叶うことのない夢だった。それを、目の前の自分よりはるかに年少の少女が、番号持ちというだけで軽々、手にしようとしている。要は篠崎は数美に嫉妬していた。
「話が違う。僕の統監府入府は、高校卒業を待ってからのことだった筈です。なぜいきなり、そんな無茶なことを」
「私に言っても益になる答えは持たない。問い質したければ直接、自分で統監府の人間に訊くと良い。お前が混乱することを見越して、説明役の職員の方が、わざわざ足を運んでくださっている」
篠崎はカウンセリングルームの扉を顎で示した。
憤然とした勢いでその扉を開けて入室した数美はノックの作法を忘れていたが、今はそれどころではなかった。
そして室内にいた男性二人を見て、数美の勢いはやや削がれた。そこにいたのは青鎬と凍上だったからである。青鎬は立って窓の外を見ていたが、数美が入室したと同時に振り向いた。凍上は椅子に端然と座っていたが、やはり数美の顔を見た。彼らの顔には、数美への申し訳なさ、慚愧の念があった。
「一体、どういうことですか」
「済まないな、お嬢ちゃん。上からのお達しだ」
「僕は高校を卒業する。入府はそれからという約定だった筈です。天下の数学統監府が、年端も行かない相手と交わした約定を反故にするのですか」
「返す言葉もないよ。数美ちゃん。俺たちも、正直なところ今回の上の意向には驚いている。只、最近、番号持ちや記号持ちの関係が大分、きな臭くなっている。今回の上の要請は、君をそのごたごたから守ろうという考えからだと俺は思っている。強引であることは否めないし、高校生活という、一生の内で極めて貴重な時間を君から奪うことには非常に遺憾だけれど」
凍上が淡々と、しかし声音には労わりと真摯な思い遣りを籠めて数美に語る。その口振りから、数美はこれは既に決定事項なのだと思い知った。青鎬と凍上は数美を説得しに来たのではない。「命令」の念押しをしに来たのだ。そう、これは要請の名を借りた命令に他ならない。国会にすら干渉する権限を持つ数学統監府の命令に、一介の番号持ちである数美がどうすれば抗えるだろう。
「恐らくお嬢ちゃんは第三課一班、つまり俺の班に配属されるだろう。しかしお嬢ちゃんを前線には出さない。この強引な措置はお嬢ちゃんを守る為の配慮でもある。お嬢ちゃんは一班の中、後方待機という名目で、好きな本でも読んでてくれりゃそれで良い。給与は出る」
「違う、僕が言いたいのはそんなことじゃない! 守る? 後方待機? 莫迦にしている。数学統監府の中こそが、権謀術数渦巻くパンドラの箱じゃないか。要は僕を、記号持ちに取られる前に確保しておこうという目論見なんだろう」
青鎬と凍上が顔を見合わせる。
「否定は出来ないね。けれど、君を守る為というのは、必ずしも詭弁ではない。数美ちゃん。俺や青鎬さんを信じることは出来ないだろうか」
「……貴方たちは信じるに足る大人だろうとは思う。けれど結局は数学統監府の人間だ。上層部の意向に従い、動く。例えば貴方たちは、統監府が僕を記号持ちを釣る餌にしようとしたらそれにも従順に従うんだろう」
「んなことにゃさせねえよ。お嬢ちゃん。あんまり俺たちを見くびるな」
「――――帰る。母さんとも、話さなければ」
「送るよ」
「結構だ」
「送らせてくれ、数美ちゃん。罪滅ぼしだと思って」
凍上の懇願の声に、数美は抗えなかった。
黒いベンツに乗り、高校を後にした。
天気の良い日だった。放射冷却で早朝は寒いくらいで、今は抜けるような青空が頭上に広がっている。道路は空いていて、凍上の運転はスムーズに進んだ。蓮森家の前で数美を下ろすと、青鎬と凍上は数美に軽く挨拶して去って行った。黒く艶光りする車体が遠ざかるのを見送り、数美は家の門前で半ば放心状態にあった。
オリーブグリーンのチェスターコートの両腕を抱く。
こんな急展開になるなんて、一体誰が予想出来た。そんな数美に声を掛ける者がいた。
「数美。こんにちは」
「π……」
黄金色の髪が陽光を反射して眩しいくらいだ。今日も彼は襟元に金鎖つきの白いコートを着て、朱塗りの鞘を佩いている。紫水晶の瞳が真っ直ぐ数美を見ていた。その目に含羞の色が宿る。
「あの、俺と、交換日記してくれないかと思って――――……て、えええ?」
突然、ぶつかるようにπの胸元に縋った数美に、πは仰天した。え、何これ幸せ俺死ぬの? などと忙しなく考え、数美の様子がおかしいとやっと気づく。取り敢えず上に下に動かしていた腕はそろそろと数美の肩に置いた。それだけでもπの心拍数は上がった。
「何があったの」
「……数学統監府に入府しろと言われた」
「何?」
πの面持ちが険しくなる。そう来たか。征爾との繋がりを持つ数美を、今の内に取り込んでおこうという考えだ。要は、駒扱いだ。紫の瞳に怒りの炎が宿る。
(ふざけるなよ。数学統監府。そっちがその積りならこちらにも考えがあるぞ)
πは数美の身体を柔らかく離して、左手を繋いで以前、会った公園に向かった。利き手は空けておかなくてはならない。いざという時すぐに剣を使えない。足取りは緩やかだった。πは老婦人を導く慎重さで数美を導いた。ピチュピチュと小鳥が甲高く鳴いている。
公園のベンチに座っても、πは数美の手を離さなかった。
「数美。君は今、権力抗争に巻き込まれている」
「解っている」
そうだろう。聡明なこの少女は、自分の立ち位置を正しく把握している。
「父さんが目当てなんだろう」
「それに加えて、君自身も欲しいんだろう」
「πたちも?」
ざらりとしたベンチの縁を右手でなぞりながらπは少し黙った。今の数美には言葉を一つ仕損じれば酷い傷を与えてしまいそうで、彼はそれを恐れた。
「俺は……。君と交換日記がしたい」
「交換日記?」
「うん。もう手を繋げて一足飛びしちゃったけど、ちゃんと順序は踏みたいんだ。数美、俺と交換日記してくれる?」
傷ついた小動物のようだった数美が、微かにだが笑った。
「随分、古風なんだな。πは僕が好きなのか」
「好きだよ」
冬の空気の中、春風のようにさらりと告げる。
「父さんの娘だから?」
「きっかけはそうだったけどね」
今は違うと婉曲に否定する。
「π。僕はどうすれば良い。僕は高校に通いたいんだ。亜希や創とも離れたくない」
「創。影蔵創か」
この時、πの胸に湧いたのは軽い嫉妬だったが、それを露わにするのはみっともないと思い、努めて冷静な振りをした。
「恐らくだけれど、数美は統監府入りにはならない」
「え」
「君のお母さんに訊いてみると良い。君の父である蓮森征爾は、そう、特別な人間だった。その妻である君のお母さんもまた、ある意味非凡なんだよ。数美は高校生活を全う出来るだろう。だから安心して」
「……πは学校には行かないの」
「行かないよ。興味ないしね。でも」
数美と一緒の学校なら通ってみたかったかなと言い、πははにかむように笑った。
πと別れて帰宅した数美を、塔子は優しく出迎えた。統監府入府の件は何も心配することはないと告げて。
塔子は高名な茶道の家元である。
その弟子には数学統監府上層部の人間も、少なからずいたのである。




