020、ホットチョコレート
そこはどことも知れぬ山間。
黒に近い緑の中、雪がちらついていた。zがこの冬に見る初めての雪だった。
彼女とαは宙に浮いて対峙していた。αの足の下には水流が薄くある。zの足には「Z」の形に空間が〝切り込まれていた〟。
「薫に手出ししないで」
「あいつの前では猫でも被ってたか? 『神風のz』。料簡違いをしているのはお前のほうだろうが。本分を忘れて恋に現を抜かした。俺は何も間違ったことしちゃいない」
「……吉馬のことは、私がちゃんと訊くわ」
「だからそれが料簡違いと言ってる。お前はあいつを〝騙して〟手練手管で真相を訊き出すことが任務の筈だったろう」
「貴方から任務だなんて言葉を聴くだなんて。πのことも私たちのことも、どうせ仲間とも思っていない癖に」
「あながち間違いでもねえよ。それで? だったらどうする」
「こうするのよ」
zが右腕をジグザグに動かすと、αのすぐ目の前の空気がその動きの通りに切れた。αが紙一重で避けていなければ細切れと化していただろう。zは腕をZの連なるように動かしただけである。そしてその行為のみで彼女は対峙する相手をその形状に殺傷することが出来た。
細かな雪片が舞う。zの口からもαの口からも白い息が生まれていた。αが水流をzにぶつける。zはこれも切り裂いた。切断と水流の対決である。zにαが抗するには水の硬度を上げるしかない。そして彼はそうした。塊となった水が幾つもzを襲う。zはひたすら腕を動かした。が、切り損ねた水の塊が彼女に当たり、弾ける。
「水も滴るってやつだな」
「…………」
zは両腕を同時に動かした。切断に次ぐ切断がαを襲う。全ては防ぎ切れず彼は裂傷を負った。着ていたコートにもかぎ裂きが出来た。ちらとαはそれを見ると、瞬時にzとの間合いを詰める。拳を繰り出し、同時に足払いをかける。zは拳をいなして自らも蹴りを放ちαの脚にぶつけた。ヒュッと掌底が繰り出される。それはαの胸に真っ向からぶつかった。
宙の上、まるで地面があるかのようにαがザーと後退する。諸に入った掌底は、大の男のそれであれば骨が折れていただろう。それこそ青鎬のような。訓練したとは言えまだ女性であるzの力であればこそ、この程度で済んだ。が、αは咳き込みを抑えられなかった。
zが腕を再び動かそうとした時、静かな声が響いた。
「そこまでにしておいで。z」
襟元に金鎖のついた白いコートをはためかせたπが、円状の薄い透明な膜の上に立っていた。後ろにはXに切り取った空間上、xが立っている。
πの声は穏やかで優しかった。そのことがzの戦意を喪失させた。
「悪いけど、〝視せて〟もらったよ。zが望むなら、凍上薫には危害を加えない。けれど彼は父さんの死の真相を知っている可能性が高い。だから、穏便に訊いてみてくれ。α。お前は事を急ぎ過ぎだ。なぜ、自ら災いの種をばら撒こうとする。俺たちが仲間同士で潰し合っても益がないだろう。そう、お前が俺たちを〝仲間〟と認識するなら」
「…………」
αに仲間意識が欠片もないことぐらい、πには解っていた。
だからこの語り掛けは一種の牽制だ。このくらいで堪える男ではないと知る上での。
πが空の、更に高みを見上げる。黄金色の髪に雪片がついて、いつもよりも人間離れした容貌に見える。紫の双眸が何かを捉える。
「……凍上薫が空間転移の可能な同僚に連絡を取っている。彼に来られると厄介だ。z。送ってあげるから」
「π。ごめんなさい、私」
「良いんだ。君は何も悪くない。人を愛したことを、謝らないで」
πはzに近づき、自らのコートを脱ぐと彼女に着せかけた。
凍上の部屋の床に落ちた氷の粒がすっかり溶けて水になる頃、凍上は同僚の番号持ちと会話していた。一刻も早く香澄を取り返さなければ。彼女にも何等かの能力はあるのだろうが、相手はその相貌からして青鎬と戦ったαという記号持ちだ。彼女が何をされるか解らない。裏切る積りか、と言っていた。それが自分を愛したことだとしたら。
『お前が俺を頼るんだ。よっぽどなんだろうが、事情は後から話してもらうからな』
「ああ」
凍上は静かに請け負う。今は一刻を争う。
そんな時、ふわ、と香澄が室内に舞い降りた。白いコートを纏った彼女は天女のようだった。凍上が黙り込んだことを不審に思った相手が、どうしたと訊いてくる。
『凍上? おい』
「悪い。力を借りる必要性は、なくなった」
簡潔に事実を告げ、通話を切ると、香澄が凍上の腕の中に飛び込んできた。冷えている。よく見ればショートヘアーに雪片がついている。ずっと寒い外にいたのだろうか。色々と訊きたいことはある。
だがそれより先に彼女を温めることが必要だと凍上は判断した。
「……濡れてるじゃないか。湯はまだ張ってあるから。追い炊きして、入っておいで」
「うん。――――しばらくの間、こうしていて良い?」
「良いよ」
凍上は自らの体温を分け合うように香澄の身体を抱き締めた。
取り戻せた事実に心底安堵していた。ふと顔を上げた香澄の唇が、蒼くて冷たそうだったので、自分のそれをそっと重ねた。
「面白くない」
「π。さっきの大人な対応はどうした」
「煩い。凍上という男、悪くはないが、よりによってzを俺から取るだなんて」
「問題点が違うと思うがな」
いつもの家に帰還したπとxはリビングで言い合っていた。泰然と構えるxに、πは紫の瞳をちらりと寄越す。左手は、朱塗りの鞘を掴んでいる。いつでも抜刀できる構えだ。
「いつからzにあんな危険な真似をさせていた」
「一年くらい前かな」
「俺に相談もせず」
「訊いたらお前、絶対、反対しただろ」
「当たり前だ」
この件はxにとっても複雑なものだった。πにとってzが母親ならxにとっては姉だ。苦楽を共にしてきた。凍上に彼女を近づけるについて、発案したのはΩだが、xはその計画を呑むのに随分と悩んだのだ。
「チョコレート飲むか」
「飲む」
πの当然、と言ったような返事を受けてxは台所に移動する。
「正直、お前があんな態度を取れるなんて思わなかったよ。俺は、お前を見くびっていたかな」
小鍋にココアパウダーや牛乳、砂糖を入れながらxは言う。
リビングで脚を組んでソファーに座るπは、しばらくの沈黙の後に答えた。
「数美と逢ったから」
「ああ」
恋を知って成長したかとxは合点がいった。
鍋の火を弱火にしてチョコレートが溶けるまで混ぜる。
「だから、面白くはないけれど、zを傷つけたくはなかったんだ……」
甘い濃厚な匂いが室内を満たす。チョコレートは媚薬という考えもあったかとxは思った。吉馬が死んだ夜、自分を抱き締めたzの温もりを憶えている。この人にいつか恩を返そうと思っていた。凍上との恋の成就は、彼女を幸福にするだろうか。




