02、焼肉にはタレか塩か
どこかで肉の焼ける香ばしい匂いがすると、影蔵創は鼻をひくつかせた。
登校途中だった彼は、その匂いが大好物である特上牛カルビの焼肉に近しいことに気づき、はっと顔を引き締め駆け出した。白いトレーナーの上に紺色のフード付きパーカーを羽織り、柔らかいジーンズを穿いた彼の右手には木刀。数美と亜希の共通の友人である創は、剣道の有段者でもあった。
阿頼耶識は完全に怯んでいた。
自らを捕食者と信じて疑わなかった少年が今、目の前により上位の捕食者と認める少女を見て立ち竦む。
「29だと。莫迦な。そんな高位の番号持ちが何で高校なんか呑気に通ってんだよ! 望めば好きな官公省庁どこへだって行けるだろうが。それこそ数学統監府にだって……」
阿頼耶識は去年、数学統監府入りを希望したが、却下された。
理由は若年ゆえではなく、素養を満たさないという、彼にとって非常に屈辱的なものだった。
「数学統監府に興味はない。誰もが自分と同じように、威張り散らすことを好むと考えるのは愚の骨頂だぞ、阿頼耶識」
香ばしい匂いに、阿頼耶識は気づく。朝食を済ませた彼の胃袋をそれでも尚、刺激する匂い。育ち盛りの胃袋がぐう、と鳴る。
ぺとり、ぺとり、ぺとりと焼き上がった肉片が、阿頼耶識の額と両頬に張り付いた。
「熱っ、あっつっっ」
「肉よ、肉よ、舞い踊れ。夢野久作の『猟奇歌』を知っているか? 国語嫌いの阿頼耶識クン。彼の歌、否、他作品からも僕は肉の匂いを感じる。生々しくて、狂おしく美しい。ところで阿頼耶識。お前は焼肉にはタレ派か、塩派か?」
「……肉。29。語呂合わせの能力。お前は、〝にく〟と音のつく物を操ることが出来るんだな?」
そこで阿頼耶識は血相を変える。ごくり、と唾を嚥下する。
「つまりそれは、相手が生きてる〝にく〟であっても……」
かなりグロテスクな発想だった。
数美の見た目は小柄で愛らしく可憐な少女だ。
しかし阿頼耶識の目には彼女がモンスターに見えた。そうしてモンスターは桜色の唇を動かす。
「半分、正解だ。よく出来たね。阿頼耶識クン」
番号持ち同士が能力をぶつけ合う時、その場には結界が自然発生する。よく出来た仕組みだが、この結界は関係者は取り込み、また番号持ちには結界を自在に操作する者もいる。だから今、数美と阿頼耶識の他、結界内にいるのは亜希。そしてもう一人。
ぎりぎりに結界内に滑り込んだ創だった。
彼は長めの艶やかな髪を微風に浮かせ、木刀の切っ先を阿頼耶識の首に据えた。
「創だ~。おはよう」
「おはよ~」
「おはよう、数美、亜希。この事態はばれたと考えて間違いないな?」
「うん。てか、僕が切れてばらした」
「お前ね……。少しは自重しろよ。トップクラスの番号持ちの存在は国家機密級だぜ?」
「阿頼耶識が悪い」
「成程?」
すう、と創の切れ長の双眸が細くなる。
四面楚歌となった阿頼耶識は、しかし伊達に番号持ちではなかった。彼の能力は能力で、相当な異能だったのだ。阿頼耶識の周囲のコンクリートが花びらのように地を離れ宙に舞う。
「29だから何だってんだ。俺だって番号持ちだぞ……!」
「おおっとう」
飛来したコンクリートを、数美は亜希を庇いながら避けた。〝焼肉の補充〟が必要かと考えた時、創が木刀からすらりと白刃を抜いた。彼の持つ木刀は、仕込み刀だった。
「阿頼耶識。退けよ。俺も同級生の頸動脈を斬りたくはない」
「お、お前、気でも狂ってんのか。銃刀法違反、殺人だぞ」
「犯罪にはならないんだ、阿頼耶識。なぜなら僕が高校に入学する時に政府に掛け合ったから。本当は、僕は数学統監府に入ることを望まれていたが、断った。その代わり、高校卒業と同時に入府することを約束した。だから高校の間は、多少の融通を利かせてもらおうと思い、創の刀の所持と、僕の身を守るにおいての殺傷を許可させた」
「狂ってやがる……」
「何を今更。僕らは数字に踊らされている。番号持ちであれば尚更、現代の世であれば尚更だ。500グラムの体重の増減に喜び嘆き、ボーナス査定額に神経質になり、スーパーの割引セール、寄る年波、血圧、模試の結果、好きな野球チームの成績、商品の売り上げ、ウェブ小説のポイント、ランキングに一喜一憂する。だから僕は数学が嫌いだ。番号持ちが嫌いだ。僕は番外と呼ばれる人々こそを愛する。本当は統監府にも行きたくない」
現代においては数字が全て、至高である。少なくとも阿頼耶識はそう信じ込んで育ったし、他の多くの人間も同様だろう。番号持ちに生まれたことで、また生まれなかったことで、その人間の人生はほぼ決まる。そこに自由意志の介入する余地はない。阿頼耶識は数美が、それまでとは別の意味で不可解な存在と思えた。
「頼みがあるんだ、阿頼耶識」
「……脅迫の間違いじゃねえのか」
「そうとも言う。僕が番号持ちだということ、決して口外しないでくれ」
「なぜだ。堂々と胸を張れば良いじゃねえか」
そう言った時の阿頼耶識の眼は曇りなく、数美は僅かに彼を羨ましく思った。
「言ったろう。番号持ちは、嫌いなんだよ。自分も含めて」
「……――――エラトステネスの篩に懸けて誓う」
紀元前、古代ギリシアの数学者の発見を引き合いに出した阿頼耶識の目に、綺麗な眉をひそめた少女の顔が映る。
「僕は素数の見分け方なんかに興味はない。けれど阿頼耶識、お前には神聖なものなんだろうから、それで良しとしよう」
結界が消失する。のろのろと校舎に向かう阿頼耶識の後ろ姿は萎びた植物のようで、凡そいつもの彼らしくなかった。身に纏う高価なブランドの服が今はやたらと空しい。
木刀を元に戻した創が、その後ろ姿を見ながら数美に尋ねる。
「亜希のことは」
「ばれてない」
「なら良い」
交わされた声音はどちらもひどく凍てついていて、今日の気温より低かった。
阿頼耶識と数美の一連の遣り取りは結界内でのことだったが、それでも知る者には知れるところとなった。また、近所の焼き肉屋では焼き上がった特上カルビが数枚、姿を消した。