019、殺したのが貴方なら
πの胃袋が空腹だと喚いた。
神の手なる美少年でも育ち盛りだ。夕食時に敏感らしい。xが笑いながらちょっと待ってなと言って台所に向かう。
その背に問いかける。
「今日は何?」
「ホッケの塩焼きと山芋短冊、アスパラガス、パプリカ、それとブロッコリーのマヨネーズ焼き」
「zは?」
「外で食うとさ。今日は帰らないかもな」
「誰と」
「知らない。お前ね。年頃の女性のプライヴェートをあんまり詮索するんじゃないよ」
「じゃあどうでも良いけどΩは?」
トン、トン、と二階から足音が聴こえる。
「どうでも良いってことはないだろ」
白髪、金色の目の青年が欠伸しながら不平を言う。やや長めの髪が肩にかかり、襟元から出た肌の色合いと共に妙に色っぽい。
「だってΩは何にも家事をしないじゃないか」
「お坊ちゃまにそれを言われたくありませんねえ。俺はちゃんと仕事もしてる社会人ですし」
「ライターって立派なのか?」
「お前今、全国のライターさんたちを敵に回したぞ」
不毛な遣り取りの間にもxは地道に料理をしている。ホッケやブロッコリーの焼ける匂いが流れてきて食欲を促進させる。この家においてzはxと並びπの母親のような役割を果たしていた。恋人でも出来たかなと思う。zは容姿も性格も良い。どんな男が相手なのだろうと考えながら、一抹の寂しさを感じる自分をπは自覚していた。
「薫、仕事はどう?」
「いつも通りだよ。守秘義務があるから詳しくは話せないけど、面白いことがあったり、骨折りがあったり」
「無理しないでね」
実際、zは心配していた。翡翠の瞳に浮かぶ憂いは嘘ではない。それを感じたからか、凍上も軽く笑って見せる。
運ばれてきたグラタンはチーズの風味が濃厚で、大皿だったのも手伝い、凍上の胃を味、量と共に満たすに十分だった。zは鯛のソテーを品よく口に運んでいる。いつも、凍上は彼女といる自分が解らなくなる。zの身元はよく解らない。本人は小さな本屋に勤めていると言ったが、凍上はその言葉に疑念を持っていた。一度は統監府のデータベースで調べようとも考えたが、zの領域を侵す気がして出来なかった。そもそも統監府の資料の私的利用は許されない。
「香澄は大丈夫か? 無理してない?」
zは微苦笑した。彼女は生まれつき丈夫ではなく、凍上とのデートの時に何度か貧血や眩暈を起こしたことがあった。その度に迷惑をかけたと思うと胸が痛む。凍上にしている大きな隠し事についても、同様だ。
「大丈夫よ。もう、貴方に迷惑かけないから」
「違う。俺にかける迷惑なんてどうでも良いんだ。君の身体が心配なだけだ」
思い遣り溢れる台詞を言いながら、凍上はどこかでそんな自分を俯瞰していた。本当か? 本当にそう思っているか? 彼女の前だから、演技をしているだけではないのか? 青鎬にすら、自分はどれだけの隠し事をしている?
いつも、香澄と会う時は、芝居の中の役者になったような、心許ない気持ちになる。ふわふわとして捉えどころがなく、夢の中のような出来事。いっそ離れれば楽になるのかもしれないが、凍上にそんな選択肢はなかった。翡翠色の瞳にすっかり魅了されていた。
zの胸が罪悪感に苛まれる。
凍上の目は真っ直ぐ、自分だけを見てくれている。心配し、思い遣り、愛の言葉を囁いてくれる。彼のような男にこんな風に愛されることは、世の多くの女性の夢だろう。
いつも、凍上と会う時は、自分がマリオネットになったような錯覚に陥る。足元が覚束なくて、演じなければならない自分を必死で探って。πたちのことが一番大事なのは確かで、それはzにとって絶対に譲れない第一義なのに、凍上が好きだ。嫌われたくない。彼が自分に疑念を抱いているのは知っている。だからこそ、尚更、zは演技を続けるのだ。
鯛は脂がよく乗っていて、口に含むと花が綻ぶようにほろりと解れた。カチャカチャと耳障りな音がすると思ったら、自分の扱うナイフとフォークのぶつかる音だった。zは震えていた。
「香澄?」
「貴方が――――どうして、そんな人だから」
「香澄」
zと凍上の二人は目立つ容貌なので、店内では注目を集めていた。他の客が静まり返る中、クラシックの音だけが遠慮がちに流れている。
「店を出よう。俺の部屋で話そう。良いだろう?」
差し出すような凍上の提案に、zは小さく頷いた。
外は冷えていた。凍上は、自分の羽織っていたトレンチコートもzに着せた。zの震えは寒さからくるものではない。心に仕舞ったものの内容量が限界を超えて、外に溢れ出しているのだ。よろめくzを、凍上は抱きかかえるように支えながら自分のアパートまで歩いた。幸いなことに凍上のアパートはレストランに程近かった。
浴槽に溜まる湯を、zはぼんやり眺めていた。置かれたバスソルトにはラベンダーを乾燥させた紫色の花びらが入っている。こんなところが何となく凍上らしいなと思う。自分は一体、何をしているのだろう。湯の音が響く。セパレーツなので、洗面所と脱衣所を兼ねたスペースはそれなりにある。zはそこに服をまだ着たままに座り込んでいる。
凍上薫。
自分が探らなくてはいけない男。
自分が愛してしまった男。
いずれ自分は彼に殺されるのだろうか。
それとも自分が彼を殺すのだろうか。
湯の量が一定、溜まったのを見計らって服をゆっくり脱ぐ。バスソルトを入れて裸になり、浴槽に身体を浸す。ほっとして強張りが抜ける。ほろり、と涙が零れた。
香澄の啜り泣く声が聴こえる。そのことがどうしようもなく凍上を苦しくさせる。
凍上はネクタイを緩め、部屋を暖房で暖めてから牛乳を温めた。今の香澄にはコーヒーも紅茶も、刺激させてしまう気がして怖い。やがて風呂から上がった香澄は部屋に置いてあった自分のゆったりした服に着替えて、先程より落ち着いた顔を見せている。湯上りの香澄は、ほんのりと肌が上気して、色香がある。我に帰れば抱き寄せていた。
「薫」
「ごめんね」
「どうして貴方が謝るの」
「俺のせいで君は苦しんでるだろう?」
「違うわ。私自身のせいよ」
二人はその後、ソファーに座った。
それはπたちの住まう家の豪華なソファーに比べればこぢんまりとしていたが、二人にとってはそれで十分だった。寄り添い合う体温が必要なのだ。
凍上の差し出したホットミルクを、zは両手で受け取って少しずつ飲んだ。綺麗だな、と凍上は見惚れた。彼女が美女であることは最初から知っていたが、今、マグカップに唇をつける香澄は露含む風情で、男心を蕩けさせる美しさがあった。
「君は、俺に訊きたいことがあるんだよね」
「……ええ」
「その為に俺に近づいた」
「否定しないわ」
「――――俺のことが好きじゃなかった」
「違う!」
その瞬間、zは弾かれたように顔を上げた。深緑の双眸はそれを本心だと伝えている。そのことに凍上は何より安堵した。
「何が知りたいの」
柔らかい声が出せたと思う。彼女を怯えさせない、追い詰めない声。
チ、チ、チ、と鳴るサイドボードの上の時計をzは見た。数字。数字の羅列。そこに視線を据えたままで口を動かす。
「1と2と3。彼らを凍らせたのは薫なの」
「そうだよ」
「貴方は、やっぱり番号持ちなのね」
凍上は右手のひらのシールを剥がす。数学統監府では外部に番号持ちと知られない時に使う為の、肌に密着する高性能のシールが番号持ちに支給されている。だから凍上は、zの前でこれまでずっとそれを貼っていた。
zは食い入るように凍上の手のひらを見つめる。
「15。強いのね」
「君に敵うかは解らないけれど」
ぼそりと凍上が呟きを落とす。zが無表情に凍上を見る。
「吉馬を殺したのが貴方なら、私では到底、勝てないわ」
空気が凍ったような数秒間が流れた。いや、本当は一秒にも満たなかったのかもしれない。
「――――――――催馬楽吉馬。彼は君の」
「恩人よ」
「…………」
今度は凍上が無表情になった。彼は目まぐるしく思考していたので、割り込んだ声に反応するのが僅かに遅れた。そしてその僅かは致命的だった。
「それは頂けないなあ」
水がくるくる宙を舞う。青い髪、青い瞳のαが、zの細い手首を引いた。
「あ、」
「裏切る積りか? z。女ってやつはこれだから信用ならねえ」
凍上はすぐにαを取り巻く水を凍らせた。
「彼女を離せ。 今すぐ、お前の体内の液体をマイナス15度にも出来るんだぞ」
「そうやって吉馬も殺したのか」
zがぎょっと目を剥く。だが、彼女はαの縛めから逃れようともがいた。
「薫……っ」
手を伸ばす。
凍上もまた、zに手を伸ばしていた。
だが、二人の手が触れ合う直前で、αはzを連れて姿を消した。後には微細な氷の粒だけが残った。