018、この世の真理と引き換えに
創は黙々として数美を背負い歩いていた。彼と数美の鞄は亜希が持っている。ひとまず、今日のところは羅宜雄の件は保留にして、数美を安全な家に送り届けることを二人は優先した。創は最初、羅宜雄が数美に何かしたのかと思い気色ばんだが、羅宜雄は本当におろおろと倒れた数美を前に狼狽えていて、とても芝居だとは思えなかった。
〝一体、数美に何を言ったんだ〟
〝僕は以前、不思議な夢を見たことがある。そこはとても綺麗な場所で、満天の星空と蓮の花の浮かぶ池が印象的だった〟
〝それで?〟
〝そこにいた人が言ったんだ。は、蓮森さんの名前を。だから、僕は、そのことを訊きたくて〟
たかが夢と一笑に付すには羅宜雄の表情は真剣だった。
〝言ったのはどんな奴だった?〟
〝それが、憶えていないんだ。女性だったのか、男性だったのかさえも……〟
こいつ軽いな、と数美を背負い直して思いながら、創は羅宜雄の言葉を反芻していた。同年代の中でも小柄で華奢なほうなので、鍛えている創が数美を背負う分には苦にならない。冷えてきた空気が彼女に障らないよう、数美自身が着ていたチェスターコートを羽織らせてある。色はオリーブグリーンだ。亜希が何も言わないことが不気味だった。日頃は大人しく夢見がちな少女だが、こと数美と創に関わる問題には、非常に過敏になる。
「亜希。思い詰めすぎるなよ」
「無理言わないで。こんなこと。もし誰かの差し金だと言うのなら、私はそいつを許しておかないわよ」
「お前が暴走すると、数美が悲しむ」
創が言うと、亜希が痛いところを突かれたようにぐ、と言葉に詰まる。昔から、自分たちはそれぞれがそれぞれのアキレス腱だった。大切な友人、掛け替えのない存在だった。だから創にも、亜希の気持ちは十分過ぎる程に解っていた。もうあたりは暗くなってきていて、どこかで犬が遠吠えしている。
何となく解っていたことだった。
いつか、数美はどこか遠いところに行く。自分や亜希の手の届かないところ。この、小さな少女はその身の内に凝縮された途方もない熱量を秘めている。今はまだ眠れる獅子だ。けれど一度、数美が覚醒したならその時、彼女は。創は数美を背負う手に力を籠めた。守りたいと思う女のほうが強いだなんて酷だと思いながら。
ああ、またここに来た。
数美は散りばめられた美しい星空と蓮の花を見て思った。目覚めると忘れる夢。あの人が立っている。こちらを見ていると、そのことが解る。なぜ羅宜雄がこの夢の光景を知っていたのかは解らない。番号持ち同士、どこかでリンクしたのだろうか。そんな不思議も、ここでなら有り得るように思えた。
あの人に声は届くだろうか。数美は試みに呼びかける。
『貴方は誰』
かける言葉に迷い、出て来たのはひどく直截な質問だった。
相手は少しの沈黙の後に答えた。だがそれは数美の問いに対する答えにはなっていなかった。
『ここに来てはいけない』
『なぜ』
『現世の大事なものを全て捨てることになるから』
『貴方は捨てたのか』
『そう。この世の真理と引き換えに』
『貴方は』
『戻りなさい』
目を開けると、亜希の顔があった。心配そうに眉根を寄せている。
「亜希……」
「大丈夫? 数美。おば様が林檎ジュース作ってくださったから飲んで。たっぷりお砂糖が入ってるわ」
自分の部屋だった。そのことに、落胆する気持ちと安堵する気持ちがある。身を起こせば創が少し離れたところにいた。無表情だが、亜希を同じく数美を案じているのが伝わってくる。亜希に渡されたマグカップから甘く温かな液体を嚥下すると、気分が少し落ち着いた。大事な夢を見ていた気がするが、思い出せない。
「お前、寝言言ってたぞ」
「寝言?」
「うん。『最適解』かって」
マグカップを持つ手が強張る。
どういうことだろう。羅宜雄の言葉を聴いて、そして気を失ったらしいことは把握出来る。けれどなぜ。羅宜雄は蓮と満天の星に心当たりはないかと尋ねた。その言葉が、何等かの引き金になった。数美はとても心許ない感覚に陥り、テディベアをぎゅっと抱き締めた。
「数美、顔色が悪いわ。今日はもう、ゆっくり休んで」
「うん。ごめん。羅宜雄のことは、篠崎には黙っていてくれないか」
「なぜ。犯人不明だと言えばあいつのことだ、またねちねちお前をいびるぜ」
「彼は数字の被害者だよ。僕に免じて頼む」
ここまで言われて無理を通せる創ではなかった。無論、亜希はとうに数美の意思を尊重する積りである。数美に負担がかからないよう、創と亜希は塔子に挨拶して、蓮森家を出た。もう外は真っ暗で、創は亜希を送ってから自分も帰路に就いた。ダウンジャケットを着てきて正解だと思った。季節はすっかり冬で、このままあっという間にクリスマス、そして正月が来そうな気配だ。
だが創は、何事もない新年を迎えることが少しも出来る気がしなかった。
πは閉ざしていた目をぱちりと開けた。彼は生成の革張りソファーに座って一人しばらくの間同じ姿勢で瞑想していた。傍にはxがいる。当然のように。こいつこれだから恋人が出来ないんじゃないだろうかなどとπは思いつつ、今見た光景を告げた。
「数美が、征爾とリンクした」
「やはり征爾は『最適解』だったのか?」
「恐らくは」
「お前ではそこまで行けないのか」
「今の俺一人では難しい。数美の力が要る……」
くしゃり、とxがπの黄金色の髪を撫でた。
「自分を無力と思うなよ。あれは文字通り次元が違う」
「解っているが、数美に頼らなくてはならないという現状が歯痒い」
「解らなくもないがな」
πにとっては疚しいことだが、彼はずっと前から数美の見る夢をチェックしていた。それは覗きに等しい行為で、彼は数美と話した時、胸の中で罪悪感を覚えていた。
だが征爾との繋がりは数美の他にはおらず、必然的に数美と征爾の接触を待つしか手はなかったのだ。他にも数字持ち、記号持ちであればあの場所を垣間見た者はいるかもしれない。しかし明確にリンク出来るのは数美だけだ。
数美は高校卒業と同時に数学統監府に入府する。それより前に、彼女をこちら側に引き入れる必要がある。今や統監府や番号持ち、記号持ちの間で数美は血眼になっても欲しい存在となっている。番号持ちが垣間見れるということは即ち統監府にもあの場所を知る人間がいるということである。
数美の取り合いになる。
その中で、彼女が心を痛めはしないか、πはそれが気掛かりだった。
「いっそお前、お嬢ちゃんを彼女にしちゃえよ」
「はい?」
「恋人同士ならこの家にだって来てもらえるだろ?」
「それは性急過ぎる! 数美とはまず交換日記をしてから、次に手を繋いで」
「いつの時代の化石のお話?」
こいつ奥手にも程があるとxは呆れた。膨大な力、神がかり的な造形美、カリスマ性を備えた少年が、一人の少女に関しては普通どころかひどく古風な態度で臨もうとしていることにxはπの初恋に対する非常な緊張を感じ取り、やれやれと肩を竦めた。
凍上がそのレストランに行くと、相手は既に着席して本を読んでいた。何をしても様になる美女である。そう思う凍上自身も絵になる容貌で、店内の女性の目がちらちら彼に向いていた。
「遅れてごめん。待った?」
常套句でも、心が伴えば相手に届く。
彼女は本に栞を挟んで閉じて微笑む。緑色の目が湾曲する。
「ううん。面白い本だったから大丈夫よ、薫」
統監府のお仕事も大変ね、とzは言った。
可愛いイラストは黒猫に住む図書館さんからいただきました。