017、カーテンが暴かれる時
数学統監府三課は常にどこか殺伐としている。
それは統監府内でも荒事を専らの職務としているからかもしれない。ブラックコーヒーを飲みながら、青鎬は黒い湖面を見る。この機関が潔白だなんて、どんな夢見がちな職員も信じてはいないだろう。また、そんな人間はそもそも統監府に採用されないし、万一何かの間違いで採用されたとしても数日と経たずに辞職願が出されることなど目に見えている。
要するに黒い組織なのだ。今、青鎬の飲むブラックコーヒーのように。
そう言えばこんなもやもやとした感情を昔、いつかも抱いた。
あれはそう、催馬楽吉馬が死んだと知らされた時だ。
完全数の番号持ちの、優秀な男だったと記憶している。優秀且つ人望もあり、彼が辞職した時には他にも幾人かの辞職者が出た。その男が、統監府内で〝事故死〟したと聴いた時、青鎬はすぐに消されたのだと直感した。吉馬は目立ち過ぎた。過ぎた人望が彼の命を奪ったとは何と言う皮肉だろう。
仮眠から目覚めた青鎬が凍上からその報せを聴いた時、吉馬の遺体は既に統監府内になく、身内にも知らされず内々で処理されたと聴いた。随分と強引なやり口だが、それがまかり通ってしまうのが数学統監府という組織だった。
青鎬に急を告げたあと、後ろを向いた凍上の肩が小刻みに震えていたことを憶えている。普段から沈着冷静、感情を露わにしない男が、吉馬の死には堪えるものがあったのだと、そのことに青鎬は軽い衝撃を受けた。驚くべきは吉馬の影響力だった。
あの夜、統監府内の、誰かが吉馬を殺した。496の完全数を持つ吉馬の異能を、青鎬は知らなかった。だが並大抵のものではなかった筈だ。
誰が吉馬を殺したのか。
青鎬は斜め向かいに座る凍上の顔を見る。今の凍上の顔はあの頃より大人びて、より精悍になっている。青鎬が、統監府内で仮眠とは言え〝何等かの戦闘が行われている時に気づかない〟ことはあり得ない。寝る前に咽喉の渇きを覚えた青鎬は、凍上に清涼飲料水の入ったカップを手渡された。それを飲んで、青鎬はすぐに眠りに就いた――――……。
「凍上」
「はい」
「お前、彼女とかいないの」
「俺の身辺調査ですか?」
「訊いてくれって頼まれた。因みに俺に関しては訊かれなかった」
「だって青鎬さん、興味ないでしょう」
「うん。ない。で、いるの?」
「いますよ」
もう少し言い渋るかと思っていた青鎬は、予想外にあっさり返った答えに喰いついた。
「どんなん? お前が選ぶんだから、よっぽどだろう」
「情が深くて綺麗な人です。目が森のような深緑で」
「へええ」
これは泣く女性職員が何人も続出するだろうと青鎬は心中でこっそり思った。
昼休み、教室で、数美と創と亜希は輪になっていた。昼食は既に済ませてあるが、育ち盛りの創はそれだけでは足りないのか、売店で買ったドーナツを食べている。
数美が人差し指を立てる。
「僕のプロファイリングはこうだ。成績操作の犯人は、恐らくそれなりに裕福な家に生まれ、そして番号持ちであることも手伝い、親に過大な期待を寄せられて育った。優秀な人間たれ、と。しかしその人物自身は自分に自信がなく卑屈だ。いつもどこか怯えている。親の期待は増す一方。常に好成績を取り続けることに耐えられなくなった彼は、テスト中に異能を暴走させた。結果、自分の成績は落ち、親に落胆され嘆かれたが、それは彼にとって一種の解放だった。彼はそんな歪んだ形でしか自由を体感出来なかったんだ」
因みに数美と亜希、創の周囲には簡易結界が張られ、中の会話が外に漏れる心配はない。
「犯人は男なのか?」
「多分ね」
「よくそこまで究明出来たわね」
「徹夜でパソコンと仲良くしたよ」
そう言う数美の目の下には確かに隈が出来ている。
「だからあとは二人に任せる。それっぽい人物を捜してくれ」
「ここで丸投げかよ」
「僕はもう十分に頑張った」
「まあね。数美の言い分も解るわ」
「仕方ないなあ」
「ああ。それと、僕もπに逢ったよ」
「え?」
「故意? 偶然?」
「どうだろうな。偶然っぽくはあったけど、僕に逢いに来たのかも」
くすりと数美が茶目っ気ぽく笑う。
創の眉間に一本、皺が刻まれたのを亜希は横目に見る。
「僕の父さんの知り合いだった」
「え、ちょっと待って。頭の中を整理させて頂戴。πは、創と戦った。そして統監府の屋上で青鎬さんと戦ったαはπの知り合いだった。そしてπは、数美のお父さんとも知り合いだった……。これってどういうこと?」
「解らない。ただ一つ言えるのは、父さんとは容易に逢うことは出来ないと言ったπの言葉に嘘はないだろうということだ。……母さんは、父さんが消えた時、父さんは数学の神に愛されたのだと言ったけれど、それはつまり、πの言っていた、より高位な次元に父さんが行ったことを意味していたのかもしれない。πは、彼の父は統監府の人間に殺されたとも話した」
元統監府の人間で姿を消した蓮森征爾。
同じく元統監府の人間で、同じ統監府の人間に殺されたπの父。
この二人に接点はあるのだろうか。
「πと数美の出逢いからして、仕組まれたものみたいね」
ふわりと教室のカーテンが風に煽られて膨らむ。このカーテンの一枚の布の向こうのように、確たる真実はまだ見えない。
しかしいずれこのカーテンを暴く時は来る。
数美はそう感じた。
放課後、人のいなくなった教室に、晩秋の残照が射している。
窓は閉められ、カーテンはきっちりまとめられている。今日の日直に鍵を預かり、数美は創と亜希と、目の前の小柄な少年を見据えた。
「有能だな、創」
「女にばかり苦労させる訳に行かないだろ。お前のプロファイリングで、大体の目星はついたしな。羅宜雄古悠太。お前が異能で成績操作したんだろう」
羅宜雄は繊細そうな華奢で色白な少年で、創の追求の前に小動物のようにおどおどしている。
「僕は――――違う、異能なんて持ってない」
「じゃあ右手のひら見せてみろよ」
「…………」
「羅宜雄君。僕たちは君を糾弾したいんじゃない。真実が知りたいんだ。君は今まで、外では番号持ちということを隠して来たんだろう。その苦労が並大抵ではないことは僕には解る。なぜなら僕も同じ、番号持ちだから」
「え」
数美が右手のひらの肌色シールを剥がして見せると、羅宜雄は食い入るようにそれを凝視した。
「29……。本当だ」
「君の数字を見せてくれ」
羅宜雄は恥じらう様子を見せていたが、やがて右手のひらから、数美と同じような肌色シールを剥がすと、番号を数美たちに見せた。
「999」
「わ、笑っても良いよ。一番、ビリの番号だ。異能だって、ろくに制御出来ない」
「でも君は今回、紙上の数字とコンピューター上の数字、そのどちらをも大規模なスケールで操った。これは中々出来ない芸当だ」
「……999までの、目に映る数字なら書き換えることが出来るんだ。出来ない時も多いけど」
「いや、君の能力は素晴らしい。数学統監府が知れば垂涎ものだ」
「あ、あ、あ、余り傍に寄らないで、眩しい」
ぐい、と創が数美と羅宜雄の間に身体を割り込ませた。
「ああ、失礼」
「いや、いや、良いんだ。僕は、これから、先生に怒られるんだろうけど、その前に、蓮森さんに訊きたい……」
「何だ?」
「蓮と、満天の星の見える場所に、心当たりはない……?」
数美の目が見開かれた。見開かれ、そしてその小柄な身体を危うく創が抱き留めた時には、数美の意識は失われていた。