016、子供が育つのは早い
散歩から戻った数美は、塔子に夕食は要らないと告げた。当然、その理由を追求される。
「外でクレープ食べたから」
「栄養が偏るわよ、そんなんじゃ。一人で食べたの?」
「ううん」
廊下に立っていた数美は玄関の傘立てのほうを振り向き、そこに差しかけられた紺色に水玉模様の自分の傘を見る。しっとり濡れた傘の先端からは細い水流が滴り三和土を濡らしている。
「父さんを知っている人と」
傘から視線を戻して告げた時、塔子の表情が明らかに硬直したのが判った。しかしそれは一瞬のことで、すぐに塔子は無表情という仮面を被ってしまった。だから数美も、πの名前もxの名前も出さず、そのまま部屋へと向かった。
部屋の扉を閉めると丸テーブルの傍に座り、手近にあったクッションを抱き締める。πは数美に約束してくれた。塔子にも創にも亜希にも手出ししないと。紫水晶の瞳に嘘はないと感じた。塔子は、数美になぜ父に関することを隠そうとするのだろう。父が消えた時、塔子は言った。父は数学の神に愛されたのだと。それゆえに姿を消したのだと。
そしてπは、父の居場所をここより高位の次元だと語った。πですら辿り着くことの困難な領域。神域と言い換えても差し支えないだろうか。
数学統監府との因縁についても、個人的な内情をπは話してくれた。少し話しただけだが、数美にはπにある種のカリスマ性があることが感じ取れた。恐らく、彼の周囲にはそれに惹かれて彼に従う大人たちがいるのだろう。そう、例えばxのような。αはよく解らない。彼はπに心酔しているという様子が見受けられなかった。
数美はここまで考えて細く息を吐くと、立ち上がり、台所に行ってオレンジジュースを硝子コップに注いで戻った。塔子は台所で一人分の夕食の支度をしていたが、先程見せた動揺は名残すら窺えなかった。
ラヴェンダー色のクッションの上に座り、テーブル上にあるノートパソコンを開く。
成績操作の容疑者は、創と亜希の協力もあり大分、絞り込めた。残る三名。数美が番号持ちであることを伏せて通す以上、また創たちに動いてもらうことになる。しかし数美はこの一連の流れに違和感を覚えていた。
スムーズに運び過ぎている。
滑らか過ぎる現状の紡ぐ旋律が、却って数美の感覚に引っ掛かる。オレンジジュースを二口飲む。果汁100%。ここでも数字が幅を利かせていることに、数美は少し可笑しくなった。数美は思考する。思考を放棄した時、人は動物になる。人たらんとすれば思考を重ねるしかない。
しばらくパソコンの画面を凝視していた数美は、昔はスマートフォンと呼ばれた、今ではそれより格段に薄く軽くなった通信機器を手に取った。
「犯人の目星がついたのか」
数十分後。
数美の部屋に集まった創と亜希は、それぞれ胡坐を掻いたり横座りして丸テーブルを囲んでいた。
「逆だ、創」
「逆?」
「犯人の目星が、つかなくなった」
「どういうこと? もうかなり絞り込めてたんじゃなかったの?」
「違ったんだよ、亜希」
「え?」
数美は思考をフル回転させている者特有のきらきらした瞳で親友を見た。
「僕は最初から勘違いしていた。犯人は、好成績を取ろうと目論んだ人間だろうと」
「ああ。それは間違いないだろう?」
「いや、間違いだ」
「どういうこと?」
「つまり、〝わざと悪い成績を取る〟ことを目的とした人間。それが犯人だ」
「……訳が解らない。そんなことして、そいつにどんなメリットがあるんだよ」
「解らない。それは本人に訊くしかないだろう。そしてその本人の絞り込みが難しい。今回の中間テストでは今までより成績の下がった人間の数は上がった人間の数よりはるかに多い。犯人が好成績の人間なら絞り込みもまだ容易だった。だがその逆となると。だから僕は言ったんだ」
「犯人の目星がつかなくなった、と」
「うん」
気を利かせた塔子が出してくれたオレンジジュースの水面を、創は親の仇を見るような目で睨んだ。
「それでもまだ、成績が良かった奴の容疑だって晴れないだろ?」
「いや、晴れた」
「え?」
「申し訳ないが、亜希と創の名前を使わせてもらった」
「どういうこと?」
「さっき、電話を掛けた。容疑者の男子生徒には亜希を引き合いに出して、女子生徒には創を引き合いに出して揺さぶってみた。二人共、僕と違ってモテカーストの上位者だから助かった。そして僕の感触では、彼らは皆、シロだ」
ゆったりしたソファーに座るπの目の前に、ホットケーキの乗った皿がコトリと置かれた。紫水晶の瞳が微動する。ホットケーキには四角いバターと、メープルシロップがたっぷりかかっている。こいつはいつも、俺が望む前に俺の欲するものを知るなとπは思いながら、xを見た。それは、例えば蓮森数美であっても。
「食えよ。出来立てが美味いぞ」
「この俺に、誓約をさせられる人間がいるとは思わなかった」
「お嬢ちゃんのことか?」
「ああ。数美は無意識だろうが、自分に近しい人間を害するなと、言葉で俺を縛った。征爾の娘とは、こういうことか」
「誓約はお前であっても破れないのか」
「力技でなら破れるかもしれないが、反動が来るだろう」
「ふうん。悔しいか?」
xの直截の物言いに、πは苦笑した。
「多少ね。うん。焼き加減、最高だよ、x」
「そりゃどうも。まあ、恋なんてものは、相手に縛られてなんぼだからな」
「は?」
「え?」
「誰が誰に恋?」
「――――お前がお嬢ちゃんに」
カラン、とπが持っていたフォークとナイフを皿の上に落とした。
「え、嘘」
「いやお前、それこそ嘘でしょ。自覚なかったの?」
「俺はただ、征爾の娘だから特別視してただけで……え、嘘」
「リピートしてるぞ」
「…………」
再びπはホットケーキを食べ始めたが、その動きはぎこちない。天然だったのかとxは紅潮したπの顔を見て思う。実はかなり驚いていた。大切に育て過ぎただろうか。πがこと恋愛に関してここまで奥手だとは思わなかった。xは、数学統監府の人間に殺されたπの父親のことを考える。偉大な男だった。得も言われぬ魅力があり、求心性、つまりはカリスマがあった。πのカリスマは間違いなく父親譲りだ。
だからこそ自分たちはπに従っている。πの周囲には彼の父となり母となり、また兄や姉となる存在たちがいた。彼らは一様にπを宝子のように育てた。xもまた、その一人だ。
「x」
台所で洗い物をしていると、声を掛けられた。淑やかそうな外見の、ショートカットの美女。双眸は深い森を思わせる翡翠色だ。
「z」
「どうしたの。難しい顔」
「496……。催馬楽吉馬のことを考えていた。柄にもない。感傷だ」
「吉馬。πの、お父様のこと。今になってなぜ」
キュッと蛇口をひねり、水を止める。タオルで手を拭きながらxは答えた。
「子供が育つのは早いと思ってな……」
催馬楽吉馬。
πの父は496の完全数の持ち主だった。完全数とは、正の整数の範囲である整数の全ての約数を足し合わせたものがもとの数に一致するもので、999までの中には6、28、496しかない。完全数の全てはこれまで51個見つかっている。完全数の持ち主は、驚異的な力を有するとされる。催馬楽吉馬は元・数学統監府の人間だったが、統監府の在り方に疑問を持ち、辞職した。そんな彼の元に記号持ちや、同調する番号持ちが集い、吉馬自身は予期していなかった一勢力となった。惜しまれるべきは人格者である吉馬の、人間離れした能力であり、それゆえにこそ彼は統監府に最も警戒する人物と目された。
星の綺麗な夜のことだった。
xはまだ少年で、吉馬の帰りを待っていた。吉馬は数学統監府の知り合いと話し合いに行くと言って出掛けた。吉馬に懐いていたxは、仲間の制止の声も振り切って統監府近くまで吉馬を迎えに行った。もう、その頃、彼は自らの能力を自在に使えるようになっており、その自負もまたxにそうした行動を取らせる要因となった。統監府近くの、深夜まで営業しているバーの店名が記された灯に寄っかかり、自分の姿も仄かに浮かび上がらせながらxは立っていた。
灯の熱が接触している身体に浸透するようで、xは吉馬の帰りを今か今かと待ち侘びていた。
やがて聴こえた靴音に顔を輝かせると、そこにはzがいた。彼女の綺麗な翡翠色の瞳が濡れている。zはxを抱き締めると、ここにいてはいけないと言った。
〝どうしてだ? 吉馬がもうすぐ来るだろう〟
〝……吉馬は来ないわ〟
〝なぜ〟
むかむかと、腹の底から嫌な予感が込み上げてくるのをxは必死で無視した。
〝統監府の人間に殺されたから〟
〝――――嘘だ〟
〝嘘じゃない。私は彼の亡骸が、統監府の人間に、処理、されるところを見た。早く私たちも逃げなくては〟
〝殺したのは誰だ。俺がそいつを殺してやる〟
zはもうxに答えず、彼の腕を掴み引き摺るように走り出した。殺してやると言ったxは呆然自失として、zに腕を引かれるままに走った。
後にxは、統監府三課一班に催馬楽吉馬を殺した相手がいると突き止めた。