015、お気に入りの傘の下
黄金色の髪、紫色の瞳の少年は、天使の階梯の中にいることも相まって、やはり神に愛でられた造形美と見えた。その紫水晶の双眸がゆっくり動いて、数美の姿を映し出した時、なぜだか数美の脳裏に〝捕捉された〟という単語が浮かんだ。だが少年は、その剣呑な単語に反して薄く数美に微笑みかけた。
「やあ」
声は創よりやや高いくらいか。それでも声変わりを終えた少年の声だった。
「貴方、濡れてる」
数美は重大事のようにそう告げた。最初に少年に語るべき言葉は、他にもあった筈なのだが、なぜだかするりと口をついて出たのは、そんな他愛ない言葉だった。少年の黄金の髪に細かな水滴がついて、きらきらと輝いている。長い黄金の睫毛も雫を乗せて、それらが一層、彼を人間離れして見えさせた。数美の言葉に、少年はこともなく頷いた。
「うん。そうだね」
「風邪をひくよ」
「大丈夫だよ。そんなにやわじゃない。座らない?」
いつもであれば、数美はナンパだと判断して立ち去るところだ。けれど、この少年には興味があった。それに少年は、わざわざ自分の座るベンチの隣を白いコートで拭いたのだ。数美の服が濡れないようにという気遣いからだろう。白は汚れが落ちにくいのに、と数美は思いながら、数美は彼の横に腰掛け、少年にも傘を差しかけた。少年は意表を突かれたように紫の目を丸くして、ありがとうと言った。
「僕のお気に入りの傘だ」
「そう、君のお気に入りの傘。君は優しいね、数美」
数美の身体が硬直する。警戒音。
「――――どうして僕の名前を知っている」
「理由は色々あるけど、一番は君が征爾の娘だからかな」
「征爾。父さん?」
「うん」
「貴方は誰だ。番号持ち?」
「違う。俺はπ」
「π。円周率……。記号持ち? 創と戦ったのは貴方か」
「影蔵創だね。うん」
「αと名乗る男とも知り合いか」
「気は進まないけど頷いておくよ」
ポッポッと傘が雨を弾く音がする。階梯は既にπから場所を移行し、二人の居場所は影となった。数美は考えていた。創から聴いた話と、αの発言から推察するに、このπと名乗る少年は要注意人物の筈だ。それなのに、不思議な程、彼といて心穏やかな自分がいる。この穏やかさには憶えがある。
「父さんと似てる」
「え?」
「そうか。だからずっと気になってたんだ」
「……ずっと俺のこと気になってたの?」
「うん」
「征爾に似てるから」
「そう」
「うーん。ちょっと複雑」
それでもπは色素の薄い頬を淡く紅潮させていた。
「父さんと親しいんだな。居場所も知ってる?」
「難しい質問だね。征爾とは、そう、親しいと言って良いかもしれない。居場所も、見当はついてる。けれど残念ながら、俺が君をそこに連れて行ってやることは出来ない」
「なぜ」
「彼は高位の次元に行った。今の俺ですら、辿り着けない場所だ。でも、君ならいつか辿り着くかもしれない。彼の娘だからね。そこは、とても美しいと聴くよ」
πの言葉に数美は何かの記憶を刺激されたが、それは捉えることの出来ないままに霧散した。
「お嬢さん」
「うっわびっくりしたああああ!! 何なのx、出歯亀? 急に出てこないで!」
ぬう、と背後から現れた長身の青年に、数美も度肝を抜かれた。アレクサンドライトの瞳。πと一緒にいた青年だ。黒い髪、黒いコートの中、双眸だけが異様な程に燦然と煌めいて、πとはまた別種の神秘性があった。
「いやあ、黙っていられなくってね。お嬢さん、こいつを動かしたきゃ甘いもんで釣るのが一番だよ。征爾の居場所にだって連れてくかもしれないぜ?」
「ちょっとやめろよ! こういうのは第一印象が大事なんだから」
「何でさ。男だからって甘い物好きは世に五万といる。恥じることじゃないぞ、π」
「だからさあああ、そういうことを数美の前で、」
「……上生菓子とかでも良いんだろうか」
「良いよ。いや、じゃなくて、君を征爾に逢わせる訳にはまだ行かない」
「話し振りが変わった。連れて行けないと言ったのは嘘か」
「嘘じゃない。数美。君はまだ何も知らない。俺たち記号持ちの存在ですら最近になってやっと知ったばかりだろう。番号持ちにもイレギュラーはいる。君のような。そして、数学統監府。あそこは魔の巣窟だ。俺の父親は統監府の人間に殺された。俺は今でもその仇を討ちたいと願っている」
「π。そしてx。貴方たちは国に歯向かうレジスタンスか」
問いかけながら数美は滑稽に感じた。一体この国の人間の何人が国や数学統監府を心から信頼していることだろう。数字至上主義の世の中、風潮に従いながら、それでも心中では舌を出す人間だって多いだろう。
「レジスタンスじゃないよ。多分ね。数美、ただ俺たちは数学統監府の出した答えを否定したいだけなんだ」
「気持ちは解るが多くの人間は肯定しているぞ」
「心から?」
「…………数学統監府にも話の通じる人間はいる」
数美は青鎬や凍上の顔を思い出しながら言った。
「個としてはね。しかし残念ながら統監府は集だ。個が圧し潰され真っ黒になった集合体だ。醜悪の極みだよ」
「π。貴方は……統監府を、お父さんの仇を、」
そこまで言い差して数美ははっとした。今、自分は口にしてはならない言葉を言うところだった。塔子の固い縛めを忘れて。不自然に言葉を切った数美を、πとxが同時に窺うように見た。
「ねえ、x。ちょっと近くのクレープ屋でクレープでも買ってきてよ。デラックスな感じの、数美の気持ちが和みそうなやつ」
「俺をパシリに使うな」
「スライスアーモンドとかチョコ、アイスが乗ってるのが良い」
「俺をパシリに使うな」
xは苦情を申し立てたが、結局はπの言うことに従いその場を離れた。πは一瞬、躊躇してからふわ、と数美の髪に手を乗せる。羽毛のような軽さであるのは、πが極限まで加減しているからだ。
「縛りの多い人生だね。俺も、君も」
「僕はπたちみたいに壮大な考えなんて持たない。ただ、身近な人たちを守れればそれで良い。π。創にも亜希にも手出ししないで。もちろん、母さんにも」
「……お母さんは君に何も話してないんだね」
「話してくれない。それでも僕の信条は変わらない。傷つけるなら、例え貴方でも許さないから」
πは大抵の美形には免疫がある。そして傍には始終、お目付け役のxがいる。彼の瞳は輝くアレクサンドライトだ。それに比べて数美は美少女の部類ではあるものの、まだ発展途上で瞳の色も髪の色も取り立てて目立ったところのない焦げ茶色だ。けれどそこに強い意思の力が加味された時、xのアレクサンドライトにも劣らないくらいに輝きを放つのだと初めて知った。