014、人のエゴイズムは絶えない
目を開けば満天の星の天蓋があった。青く、これ以上ない程に青く澄んだ夜空に、芸術的に星が散りばめられている。眼下には、蓮の花がいくつも咲いた池。恐ろしいくらいの透明度で、星空を映している。その為、まるで星々の中に蓮の花が、蓮の花々の中に星が浮かんでいるように見えた。
独り、ぽつねんと佇む人影がある。
その人物は遠目には男女も判らず、水面に浮いているようだ。ひどく澄明な空間で、数美はその人の底知れない孤独を感じた。戻りたくても戻れないところまで来てしまったことを、その人は悔いているのだろうか。それとも。ここは美しいけれど、言語を絶する美しさがあるけれど、寂しい……。数美は無意識に佇む孤独な人に手を伸ばしていた。けれど二人の距離は余りに遠く、触れることさえ叶わない。
空に輝く星もきっと寂しいのだと、そう言っていたのは誰だったか。
数美は宙を掻いた手をぼんやり見て、手のひらの29を握り締めた。朝の光が室内を淡く照らしている。シャボン玉の柄のはだけた浴衣を直し、身を起こす。くふぁ、と欠伸して、つい今しがたまで見ていた夢を思い起こそうとするが、掴もうとすればそれは曖昧模糊として、ただひどく美しい夢だったという記憶しか残っていない。
やれやれとぼさぼさの頭を掻きながらベッドから降りて、クローゼットから今日、着る服を見繕った。
今日の空は泣き出しそうで、家を出る時、塔子に傘を持って行くことを勧められた。鈍色の空は憂鬱な溜息を吐きそうな様子で、湿った匂いもする。遠からず降り出しそうだ。
亜希が髪をさらりと耳に掛けながら尋ねる。
「例の件、進展あった?」
「ん。大体、五人くらいに絞り込めた」
「早い。大まかって言ってたのに」
「篠崎に貰った資料でふるいにかけた。僕も正直、もっと手こずるかと思ってたけど」
「流石、数美」
「問題は何番かってことだな……。いざ問い詰める段になって思わぬ異能で反撃されたら堪らない」
「そこまでお前が直接、関知する必要はないんじゃないか、数美。おはよう」
「おはよ、創」
「おはよ~」
途中から合流した創が自然に話に混じる。それから、数美と亜希の持つ傘を見て眉をしかめた。
「え、降るの? 俺、傘、持って来てないんだけど」
「創は降水確率とかお母さんの警告とかを軽視し過ぎだ。仕方ないから降ったら僕の傘に入れてやる」
「お言葉は有難いですけどね、お嬢さん」
創は数美の、紺色に水玉模様の傘をちらりと見る。
「何だ、僕のお気に入りの傘に何か文句があるのか」
「好みは千差万別でそれぞれ尊重されるべきだと思うんだ」
「創、私の傘に入れたげるわよ」
苦し紛れに言う創に、クスクス笑いながら亜希が助け舟を出す。亜希の傘はツートンカラーのストライプだ。男女兼用出来る無難な柄に、創が胸を撫で下ろす。対して数美はぷくりと頬を膨らませた。やがて校舎に着く頃には気の早い雨滴がぽつぽつと落ちて来ていた。創は休み時間、数美から渡されたリストに載った名前の同級生を職員室に隣接したカウンセラールームに呼び出した。無論、篠崎に許可を得てのことである。木刀を、いつでも使えるよう右手に持つ。
影蔵創の存在は、容姿や父親が番号持ちであること、そして特別に校内における木刀の所持が許可されていることなどから有名だった。その有名人に、目をつけられたと、水野針生は身体を小刻みに震わせていた。対して創は至ってフランクな笑顔を水野に向けた。
「そうびびんなって。ちょっと訊きたいことがあるだけだから」
「き、ききききたいことって?」
「きが多い。お前、今回の中間テストでえらく良い成績だったそうじゃないか。何か不正行為でもしたか?」
創は小細工が苦手且つ嫌いである。直球で尋ねた。水野は創の問いに対する答えがそこに書いてでもいるかのように床に視線を這わせた。
「ば、番号持ちでもない僕に、そそそんなこと出来る訳ない、それに、中間の結果に一番、驚いてるのは僕なんだ」
「ふーん」
嘘ではないだろうな、と創は水野の顔色や挙措を見て判断する。数美の見立てでも、彼にかかる容疑は薄かった。好成績を取るのは嬉しいが、自分の実力でなければ素直に喜べないのが人情というものである。その点、水野はほぼ白だった。今回の成績操作の真犯人は、不正をしてでも好成績を望む、虚しい輩。そんなんじゃ幸せになれねえよと創は思う。水野を解放してカウンセリングルームを出ると、篠崎がぬう、と立ちはだかった。
「調子はどうだ」
「ぼちぼちです。水野は白ですよ」
「そうか。お前、蓮森の特別視のおこぼれに預かってるからって良い気になるなよ」
「なりませんよー」
ああ、面倒臭いと思いながら創は篠崎を睨む代わりに職員室のミントグリーンのカーテンを睨んだ。こんな清潔感溢れる色さえ本当は嘘っぱちで、聖域とされる職員室内にも諍いや争いはある。嫉妬も憤懣も渦巻いている。中には番号持ちである数美や阿頼耶識に、露骨に媚びを売る教師もいるのだから世も末だ。
肩に置かれそうになった手を、創は持ち前の勘と反射神経で避けた。避けられた英語教師・桑畑儀賀はマスカラで濃く縁取られた目を丸くしている。化粧と香水の匂いがきつい。彼女は気を取り直して猫撫で声を出した。
「影蔵君、大丈夫? 篠崎先生に無茶言われてるみたいだけど」
創は顔面に営業スマイルを張った。この年からこれではどうかと自分でも思うが、これが女性相手だと殊に受けが良いので活用している。
「大丈夫ですよ、桑畑先生。ご心配ありがとうございます」
営業スマイルの効果は抜群だ。桑畑は男子高校生相手に頬を赤らめている。
「そう? なら良いんだけど。何かあったらいつでも頼ってね。先生は影蔵君の味方だから」
この手の言葉程、信用が置けないものもないと創は思いながら、それでも表面上は、はい、と明るく返事した。
放課後、亜希の傘に入れてもらいながら、創はこのことを数美に報告した。雨音が賑やかに歌っている。雨天のせいもあってか少々、肌寒い。三人共、抜かりなく上着を羽織っているあたり、賢明だった。車道から車が撥ねさせる水の盾になる位置に創は自らを置いている。
「水野はそうだろうな。亜希のほうはどうだった?」
「残織間家さんも違いそうよ。彼女、ひどい名前だけど本人は至って理性的な才女、美少女で、今回の中間テスト、誰かが仕組んだ結果じゃないかって言ってた。自作自演とは思えなかった。成績は普段より良かったことに寧ろ憤っていたわ。プライドが高いのね」
透明な水滴の作るウォータークラウン。
亜希の話を聴きながらその造形美に数美は見惚れる。あちらでもこちらでも、透明な雨滴が弾けている。それらは群れを成すと淡く白いカーテンのようになる。創と亜希と別れて帰宅し、自室でパソコンを弄っていた数美は、外が明るくなったことに気づいた。窓辺に近寄る。狐の嫁入りだ。太陽は出ているのに雨が降っている。何となく愉快な気になって、数美は傘を差して散歩に出た。
天使の階梯がそこここに見える。世界は祝福されたように見える。
「人のエゴイズムは絶えないのに」
ぽつりと洩らす数美の呟きを、彼は聴いたのだろうか。
数美のいる児童公園のベンチに、襟元に金鎖をつけた白いコート、朱塗りの剣を佩いた黄金の髪の少年が座っていた。