013、少年探偵団
新しく圧力鍋を買ってから塔子の機嫌が良い。今夜の夕食は豚の角煮、法蓮草の胡麻和え、高野豆腐となめこの味噌汁だ。メインである豚の角煮は件の圧力鍋で数美が担当する。豚の角煮に限らず、肉料理の類は大体が昔から数美に任されていた。29の語呂合わせの恩恵か、数美が作ると格段に美味しく出来上がるからである。
居間の座卓にほかほかと湯気の上がる豚の角煮は照り艶といい見るからに美味しそうだ。数美が肉料理を作る日は塔子は笑顔が増える。茶道の家元らしく日頃から和装の多い塔子は今日も藤紫と薄茶の入り混じる着物を纏い、慎ましく端座している。唇には淡い笑み。元々が十七の子持ちとは思えない若々しさと美貌の主である。茶道の弟子の男性にも彼女に恋い焦がれる者は少なくないだろうと数美は踏んでいる。
いただきます、と声を揃えて言ってから、法蓮草の胡麻和えを食べ、出汁と胡麻の風味がよく効いた美味に舌鼓を打ちつつ、本命の豚の角煮に箸を伸ばす。
豚の角煮は柔らかく弾力があり、口の中に入れると蕩けるようだ。
「美味しい。やっぱり肉料理は数美に任せるに限るわね」
塔子も満足そうに言う。そこらの料理店よりも数美の肉料理は美味であるので、塔子の誕生日の時はローストビーフなど、数美が腕を奮うことになる。
「肉に美味しくなあれ~美味しくなあれ~って言うと、よく仕上がるんだ。不思議なことに」
「何にも不思議じゃないわ。数美の言霊を肉が吸収しているのよ」
「いやそれ、だいぶシュールな発想だけど」
数美は考える。29に関する語呂合わせの能力。
その中でも塔子が固く禁じているもの。それだけはならないと、数美に幼い頃から言い聞かせた。それをすれば人間の枠からはみ出てしまう、と。
だから数美はそのことを創と亜希に話すことも躊躇した。結果、話した数美に彼らは普段と何ら変わりなく接した。その事実に、数美がどれだけ安堵したか解らない。ふと、先日の黄金色の髪の少年を思い出した。理由は解らない。ただ、数美の直感が彼は只者ではないと告げている。恐らくは番号持ち。それも高位の。数美を見て驚き、恥じらうような表情の理由は何だったのか。
数美はどちらかと言えばドライな思考の持ち主だ。大切な人間は少なく、彼らを守ることを一義に考え、他には余り興味がない。
けれど、あの少年は数美の中に不思議な程に残った。もう一度出逢うだろうという、それは予感より強い確信だった。食事を済ませ、部屋で夢野久作の世界に耽溺した数美は、浴衣に着替えてベッドに入った。テディベアを抱っこする。これは、父から誕生日プレゼントにこのテディベアを貰った時からの数美の癖だ。テディベアを多く作る数ある会社の中でも特に知られたブランドの商品で、この大きさで、しかも限定生産だったと聴いているから、かなり高価だっただろう。しかし数美にはそんなことは些末事だった。父から最後に貰ったプレゼントだということが肝心なのだ。
「父さんは、どこにいるんだろうね……」
テディベアにそう語り掛けると、数美の瞼は重くなり、とろりとした睡魔が訪れた。
翌朝は快晴だった。鱗雲が申し訳程度に浮かんでいる。
いつものゴスロリファッションに、塔子の勧めでピンクベージュのパーカーを羽織って家を出た数美は、亜希と歩きながら他愛もない話をして、やがて創と合流した。のんびり三人で談笑しながら歩いていると、黄金色の髪の少年のことなど夢のように思えてしまう。創も整った顔立ちで女子に人気があったが、あの少年は格が違った。生き人形という形容がしっくりくるかもしれない。しかし彼は少ない時間に豊かな表情を見せた。
「数美、どうした」
「何でもない。明後日から中間テストだな」
「ああ、嫌なこと思い出させないで頂戴……」
嘆く亜希だが、取り立てて成績が悪い訳ではない。数美はオールマイティに成績が良く、創もそれなりで、比べると亜希がぱっとしないというだけである。赤点を取ったこともないのだから、それで良いのではないかと数美は考える。
数美たちの通う高校は進学校として知られており、そして新進気鋭の建築家が校舎を改築したことでも有名である。ふんだんに木材を使用し、温もりのある大きな箱、という印象を見る者に与える建物を担当したその建築家は、番号持ちである。建築方面に才能を開花させたらしい。
特に体育館はサグラダ・ファミリアにも用いられるカテナリー(懸垂曲線)が取り入れられて荘厳だ。サグラダ・ファミリアをデザインしたアントニ・ガウディは「美しい形は構造的に安定している。構造は自然から学ばなければならない」という考えの持ち主だった。
だから数美は、高校に通うこと自体は、決して嫌ではなかった。但し担任教師である篠崎赤春は苦手だった。何かにつけ数美に因縁をつけてくるあたり、阿頼耶識の大人バージョンのようでいて、その癖、大人で担任であるものだから、阿頼耶識よりも格段に性質が悪かった。
そして中間テストの最終日、数美は篠崎に呼び出された。
篠崎はトレードマークのようになっている六角形の眼鏡のフレームを弄りながら、勿体ぶった口調で切り出した。
「成績操作が行われた様子がある」
「成績操作……?」
「ああ。普段とは明らかに多数の生徒の点がおかしい。異常だ。これまで高かった者は低く。低かった者は高く。またはランダムに。残念なことに蓮森、お前の成績は普段と変わらんがな」
それを残念と称して良いのか莫迦教師、と数美は内心で毒づく。まだ内々の話だ、と篠崎は思い出したように声を潜める。莫迦教師、と数美は再び内心で毒づく。
「お前は番号持ちだ。しかもこの学校の生徒の中では一番に高い。この状況の原因、成績操作した人間を突き止めろ」
「僕一人に厄介ごとを押し付けるんですか」
にやりと篠崎が嫌らしく笑った。
「お前にはお仲間がいるだろう?」
「創と亜希には話して良いと」
「止むを得ん」
「他の教師の助力は得られないんですか。それこそ番号持ちなら心強い」
「……成績操作が必ずしも生徒の仕業だとは限らない」
つまり、犯人は教師かもしれないと篠崎は考えているのだ。成程、それなら迂闊に助力を乞うことも出来ない。
数美が職員室から戻ると、創がどうだったと心配顔で訊いてきた。数美と創は成績上位者が入る特進クラスに在籍している。数美はうん、と頷くと、帰り道に亜希も一緒の時に話すよと返した。
「成績操作?」
柔らかな風が吹く。その風は冷たくなく穏やかに亜希の長い髪を揺らした。
数美は篠崎から聴いた話を創と亜希に話した。二人はそれぞれ思案顔になる。下校途中の小学生たちが笑いながら通り過ぎて行く。
「考えられることは、自分の成績を不正に良くしたい人間がカモフラージュに行ったということだ。それにしてもこんな大がかりな犯罪は番号持ちくらいでないと成し得ないだろう」
「数美は犯人扱いされなかったのね。良かったわ」
「僕の成績には変動がないと篠崎は言っていた。だからだろう。無用な信用を得た」
「俺、推理とか苦手だぜ」
「僕が大まかに絞り込んでおく。そこからはかまをかけたり、する必要性も出てくるだろう。二人にはその手伝いをして欲しい」
「解ったわ」
「了解」
近所の歯科医の庭のシュウメイギクがあえかに咲いている。赤に近いピンクが陽射しを浴びて心地よさそうだ。創と亜希と別れ、本屋に立ち寄り、数冊の文庫本を買った数美は帰路に就いた。買った文庫本は全て推理ものだ。何かの役に立つかもしれないと考えたのが半分、単純に面白そうだと思ったのが半分である。
隣家の郵便ポストに玩具の風見鶏がついている。
金色に陽光を弾くそれは数美にあの少年を連想させた。