011、約束のパリブレスト
数学統監府第三課二班班長早良波羅道は三課きっての現実主義者だ。ゆえに砂嘴の占いを頭から信用することなく、部下を二名寄越しただけだった。地下を防衛する人員は青鎬や凍上、砂嘴らを含めて総勢六名。たかが六名ではあるが、内、四名は番号持ちであり、砂嘴の戦闘力も申し分ない。
青鎬は潜入者に哀れみを感じた程だった。
彼らは地下6階の物陰に身を隠し、潜入者を待ち構えていた。
πは一人で行くと言い張ったが、xはそれを許さなかった。仮にも忍び込む先は数学統監府。敵対していると言っても過言ではない組織の根城であり、猛者の集う場所でもある。πの剣の腕前も異能も桁外れであることは重々承知しているが、単騎突入は無謀過ぎる。
「俺一人で行く。お前は晩御飯作って待ってろ。オムライスな」
「じゃあ俺は二週間、お菓子を作らない」
「…………」
そういう次第で、xもπに同行することとなった。
冬に近づく陽射しを浴びた数学統監府の建物は黒い石が使われ、その威容を見る者に知らしめる。両側に立つ像のアンバランスがなければ、完璧だったろうにとxは思いながら先をすたすた歩くπの後を追う。無理矢理にxに同行の権を与える結果となったπは不機嫌だった。入口の自動ドアを〝通り抜ける〟。xもそれに続く。
ドアは動かない。中の人間も、誰一人としてπたちの存在に注目しない。まるでそこに人などいないかのように、通常の業務をこなしている。エレベーターまで行き着いても、それは変わらなかった。
「何階だ?」
「今朝のフレンチトーストと同数」
「6階か。その根拠は」
「さしてないが、完全数だ。貴重なものを隠すには手頃だろう」
「1、2、3か」
「おい。いつまでもフレンチトーストネタを引き摺るな。俺は育ち盛りなんだ」
「いや、そうじゃなくて、お前の目的だよ。1と2と3の番号持ちに会いに行くんじゃないのか」
「そうだ」
「なぜ空間転移しない」
「行き方を憶えておきたい。念の為な。帰りは転移する」
ポン、とエレベーターが音を立てて地下6階で止まり、ドアが開いた。
地下6階はアットホームな雰囲気が漂っていた1階に比べると殺風景で、全体に白っぽく殺伐としていた。電気は常時通っているようで明るい。健康的な明るさではなく、どこかしら消毒液めいた雰囲気の漂う明るさだ。
πは安定した足取りで歩を進める。その姿に気負いは見受けられない。同行しているxのほうが、寧ろ緊張感を抱いていた。
(一、二、……五、六。あちらさんの人数も完全数か)
索敵能力で待ち受ける統監府の人間の人数を把握して、皮肉に考える。
6対2で分が悪いと安直には考えない。xは自らの能力にもπの能力にも油断のない信頼を置いていた。やがてπがある部屋の前で足を止める。プレートにはただ『安置室』とのみある。他の部屋と違い、この部屋には厳重なロックが掛かっていた。恐らくは統監府の中でも上層部の人間しか立ち入れない領域なのだろう。
しかしπには何も関係のないことだった。彼は右手人差し指でロックの掛かった電子機器の周囲に〝円〟を描いた。するとそこにはぽっかりと綺麗な円の穴が開き、室内に入る障害はなくなった。πが室内に足を踏み入れ、xもそれに続く。
やたら広い部屋には、三台の棺のような箱が置かれていた。箱は氷漬けされている。中を覗くと男性が二人と女性が一人、横たわっている。一見、死んでいるようにも見えるが、これは〝冷凍保存〟だとπもxも察した。そして、次の瞬間、二人は正反対の方向へと横っ飛びに跳んだ。
一瞬前、πとxが立っていた場所の床は抉り取られている。ジャラリとした音。
砂嘴は喜んでいた。彼女はπのように絵に描いたような美少年が大好物だった。そんな美少年をいたぶることもまた、彼女に深い悦楽をもたらす。先端に分銅のついた金色の太い鎖をジャラジャラ弄びながら舌なめずりする。
「青鎬。邪魔してくれるなよ」
「あんたのお遊びが過ぎなければしませんよ、砂嘴班長」
「結構」
くすくすと笑いながら、砂嘴は重量のある鎖を自在に振り回した。その鎖はπやxのいる箇所を確実に捉えていた。砂嘴の番号は100。主に100キロの鎖を振り回すことを得意とし、その膂力は成人男性と比べて何ら劣ることはない。
キン、と澄んだ金属音が弾く。
抜刀して鎖を弾いたπの姿に、砂嘴の興奮は増しに増す。
「ああ、良い。良いよ。可愛いねえ、坊や」
「……x。俺は男を相手取るから、このおば、姉さんを頼んだ」
「嫌だよ。俺だって怖いもんは怖い。この世で何が怖いって、楽しそうな女くらい怖いものはないんだ。帰ったら明日はパリブレスト作るから頑張れ! π!」
「パ、パリブレスト、う、ううむ、おば、姉さん……」
何だか苦悶しているなと青鎬はややπたちに同情気味の視線を送っていた。凍上は淡々と〝氷で作った〟拳銃を構えてπたちに狙いを定めている。その拳銃は過去、S&W社が製造した自動拳銃に似ている。だが、砂嘴の鎖を避けながらπとxに上手く照準を定めることが出来ない。牽制として何度か発砲したが、無駄撃ちとなった。彼の場合、弾切れの心配がないことが強みではある。
「なあ、凍上」
「何ですか、青鎬さん。ちょっと今、集中したいんですけど」
「ぱりぶれすとって何だ」
「お菓子ですよ、シュークリームを円状にしたような」
「へー。よく知ってるね。手がかかりそう」
「……貴方、何しに来たんですか」
凍上は会話の間にもπとxに向けて続けざま発砲している。
「いや、だって本当に氷漬けがいるとは思わなかったからさ。俺の異能、ここではご法度だろ」
「じゃあご自慢の格闘術で働いてくださいよ給料分は」
「砂嘴班長が遊んでる間は接近戦は無理だ」
「……貴方、何しに来たんですか」
会話がループしている。
そもそも、第三課の班長とその部下たちは互いに対抗意識があり、仲が悪い。それをいきなり戦闘で呼吸を合わせろと言うほうが無理な相談であり、砂嘴の考えの甘さが露呈していると言えた。本人は至って楽しそうであるが。
πは右に左に素早く動き、金の鎖をかわしていた。xが何もない空間から柄が黒漆の素槍を取り出し、砂嘴の鎖を絡み取る。力と力の戦いに、ふ、と砂嘴が握力を緩め、xに近接して蹴りを放った。高く上げた脚の付け根。あ、見えた、と思ったxだったが、そこは紳士の嗜みとして無関心に務め、砂嘴の蹴りを両腕でガードする。女性の脚力とは思えない衝撃に、xは二、三歩、後退した。
xに首尾よく砂嘴を押し付けることの出来たπは、凍上の放つ銃弾を避けながら青鎬たちに迫った。
「おい、凍上、刀っ」
「今から急拵えで作れませんよ」
「じゃああの少年はお前に任せる」
「大概にしてくださいね?」
青鎬は間近に迫るπの容貌をつくづくと眺めた。
金髪に紫の瞳。確かに砂嘴の占いは当たった。だがこれは彼女の玩具になるような玉ではない。モンスターの一種だ。
πの腕を引っ掴み、圧力を加える。πはするりとこの縛めを容易く抜け出し、青鎬の顔を直視した。
「宮仕えも大変だな」
「あざーす」
「班長」
「安心しろ。今日はちょっと様子見に来ただけだ。……この〝眠らされている〟三人はいずれ俺たちが貰い受ける」
「怪盗予告かい。今じゃないのは何でだい?」
πが薄く微笑む。
「植物の毒を使う異能持ちがいるな。今はまだ俺にもあいつにも支障はないが、長居は出来ない」
「……」
よくもまあ、勘の良いことで、と内心、青鎬は舌を巻く。確かに、砂嘴の部下に、πの指摘した異能を持つ女がいる。今、彼女は敵であるπとxに対してのみ、その能力を行使している。無味無臭のその毒は、気づくと身体に回り全身を痺れさせる。πはいち早くそれを察知したのだ。
「x。退くぞ。パリブレスト約束な」
「何でだよ。お姉さんの相手をしたのは結局、俺だろうが」
「男が言を違えるのか」
「いやいやいや、おかしいだろ」
会話の間にもxと砂嘴の攻防は続いている。チッと舌打ちしてxは大きく槍を旋回させた。
「では統監府の諸君、御機嫌よう」
宙に浮いたπが、くるりと刀の切っ先で大きく円を描くと、それに吸い込まれるようにxの姿もπの姿も消えた。砂嘴が顔を覆いわっと泣き出す。
「あんまりだわ!!」
「砂嘴班長、落ち着いて」
「あれ、πでしょ? πよね? 円周率の美少年をもっともっと、いたぶりたかったのにっ」
「…………」
「班長、本来の趣旨からずれていますよ」
何も言う気をなくした青鎬に代わり、凍上が冷静に突っ込んだ。室内は戦闘の痕跡を色濃く残しているが、眠る男女は戦闘前と少しも変った様子はなかった。