01、それなら僕は夢久と結婚する
数学嫌いの九藤の頭に突如降りて来たタイトル。
『僕らは数字に踊らされている』。
嫌々ながら資料を取り寄せて勉強して今日に至ります。
数字とか数式とかこれから出てくると思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
もしも数学が美しくなかったら、恐らく数学そのものが生まれて来なかったであろう。
人類の最大の天才たちをこの難解な学問に惹きつけるのに、美の他にどんな力が有り得ようか。
N・チャイコフスキー
西暦2034年。
各国にある時を境に生まれつき手のひらに999から1までの数字が刻印された赤ん坊が生まれるようになった。彼らは番号持ちと呼ばれ、1に近い数字の持ち主程、優遇された。だから赤ん坊を産む両親は新生児のしわくちゃの手のひらを固唾を呑んで見るようになる。番号持ちであれば将来の安泰は約束されたも同然だからである。
番号一桁台が海外に行けば国賓待遇を受ける。
そうしたメカニズムが機能していた。
また、番号持ちにも様々なタイプがいて、己の優越をひけらかす者、番号持ちであることを隠して慎ましく暮らす者などに分かれその人間性が表われる。
基本的に同じ番号持ちが同じ国に複数存在することはあり得ず、番号持ちが一人死亡すると新しくその数字を継いだ番号持ちが誕生する。
番号持ち含め数字に関することは数学統監府に管理される。
日本においては幕末に初めて「数学」が英和辞典に載った。その後、洋書調所(前身は蕃所調所)内に「数学科」が設置されている。
数学統監府は、明治維新の後、設立された東京数学会社の流れを汲んでいる。
その権限は非常に強く国会にさえ干渉出来る。
数学統監府に入る=エリートコースと見なされており、必然的に数学統監府内には番号持ちが多い。
その部屋には大きな本棚と勉強机、丸テーブル、クローゼットにドレッサーが置かれていた。カーテンは艶のある紺色で、若草色のふっさりしたタッセルがついている。床には幾何学模様の毛足の短い絨毯が敷かれて淡色のクッションが散乱している。丸テーブルの上にはマグカップが乗っていて、底にはココアの名残がある。
「数美、起きなさい。もう亜希ちゃん来てるわよ」
母の声で数美は眠りから覚めた。抱っこしていたテディベアから腕を外し、緩慢な動作で起き上がる。
黒いショートヘアはうねりがあり、下手するとぼさぼさに見える。ブラッシングを面倒がる数美だが、放置すると母や親友である亜希が煩いので仕方なくブラシで整える。ドレッサーの鏡に映る少女は青さの混じる白い頬に大きな瞳が並び、唇は小さい。可憐なビスクドールのようだ。就寝時に着ていた浴衣を脱ぐと、青紫の大きなリボン、パフスリーブのフリルつきブラウス、赤いベルトつきの黒いキュロットに着替える。
数美の通う高校は私服即ち制服と見なされる。
ゆえに数美はゴスロリ趣味の入ったお気に入りの洋服を遠慮なく着て行けるのである。
数美には物心ついた時から父がいない。茶道の家元である母の庇護下、何不自由なく育てられた。
中に茶室があるとは思えないメルヘンな外観の家を出ると、秋の陽射しが数美のまだ寝惚けた双眸を刺激した。空が高くて青い。悲しい程の晴天である。
ゴスロリめいた数美の服装に比べて亜希はフェミニンで、さらりと長い茶色の流した髪と清楚な雰囲気が統一されている。二人して小さな靴音を鳴らしながらコンクリートの大地を歩く。
「ピタゴラスと結婚したかったわ」
吐息混じりに清楚な少女の口から出たこの言葉に数美はうんざりした。
「またか。いつの時代の人間だと思ってる。それに彼は無理数の存在を揉み消す為に教団から真実を知る人を追放し墓を建てて死んだことにしたんだぞ」
「危険な男よね。そういうところにも惹かれるわ」
「それなら僕は夢久と結婚する」
「夢野久作? それだって随分、昔の人だし、彼の作品には狂気が入ってるわ」
「美しい狂おしさ。亜希。美しさは真理だよ。Mathematicsの語源はギリシャ語で『学ぶべきもの』を意味するマテーマタ。古代ギリシャにおけるマテーマタ=学ぶべきことは算術(静なる数)、音楽(動なる数)、幾何学(静なる量)、天文学(動なる量)の四つの科目から成り立っていた。僕はこれもつまるところ狂った美の産物と考える」
数美の一人称が僕であるのは昔から。所謂ぼくっ娘である。
「数美は数学嫌いな癖に詳しいのよね」
「べ、別に興味がある訳じゃないんだからね!」
「どうしてそこでツンデレになるの」
民家の門の横に揺れる小紫式部の実が美しい。
「ピタゴラスが駄目なら『最適解』のお嫁さんでも良いわ」
「……『最適解』が男とは限らないし、そもそもあれは伝説上の存在だろう」
『最適解』。
それは番号持ちとはまた別種の特異な存在。いるかいないかすら解らず、ただ出逢った人間はあらゆる恩恵に浴することが出来るだろうと、巷間ではまことしやかに囁かれている。実は数美は自分の父は『最適解』なのではないかという疑念を抱いていた。数学統監府に関わりがあったらしいことは間違いない。しかし母に問い詰めても、多くを語ってくれない。恩恵は要らないから『最適解』がいるものならば逢ってみたいというのが数美の心情だった。
「番外が、仲良くご登校かあ?」
「阿頼耶識、あ、違ったごめん、莫迦屋敷」
「違ってねええええ! 調子こいてんじゃねえぞ番外っ」
数字を持たずに生まれた者は、番号持ちから軽視される向きがある。番外と言って蔑まれ、嫌がらせを受けることも多い。圧倒的に番外の人数が多い中、ピラミッドの頂点と言える番号持ちに、番外はただ押し黙り耐えるしかない。
数美たちに執拗に絡んでくる少年、阿頼耶識豪は611番の番号持ちだ。日本人総人口1億2千万の内の999。そしてその999の番号の内の611なのでランクは高いと言える。だから学校でも外でもとにかく威張っている。番号持ちは自分の数字に関する異能を扱える。阿頼耶識の場合は「611キロ以下の物質であれば自在に操れる」ことである。これは相当なチート能力と言える。
「ちょっと、阿頼耶識君! 数美が好きなら好きって言いなさいよ貴方はピタゴラスに比べれば象の前の蟻だけど蟻だって健気に生きてるし軍隊蟻なら象だって食べちゃうわよ」
「フォローになってねえし、は、蓮森のことなんて好きじゃないんだからね⁉」
「……数美のツンデレは可愛いけど貴方のはちょっとごめん無理」
「んだとこのあまあああああ」
阿頼耶識の傍のガードレールがめきょりと変形、断裂する。凶器と化した塊は過たず亜希を目指して飛来する。
「きゃああああ」
学生鞄でガードレールの塊をはたき落としたのが数美である。
彼女の目は据わっていた。
数美は親友を害する存在を許さない。
「僕を怒らせたな、阿頼耶識」
「だ、だから何だよ、番外がいきったって――――」
にこ、と数美が笑んだ。
それはこういう状況でなければ、阿頼耶識が見惚れていたに違いない笑みだった。
「肉よ肉よ、切実に」
「?」
数美の意味不明な発言のあと、阿頼耶識の両頬の皮膚が切れた。
鮮血が散る。
「あ、ああああああ!? 何だお前、お前、番外の癖に」
数美は亜希を庇う姿勢で立ち、切り傷を押さえて蹲った阿頼耶識に冷たい一瞥を投げる。
「残念。いつから僕が番外だと錯覚していた?」
数美が好きな古典漫画の登場人物の言い回しだ。使ってみたいお年頃なのである。
「まさか」
「そう。僕は番号持ち」
そう言って、数美は右手のひらに貼っていた肌色シールを剥がす。
そこには確かに数字が刻印されていた。
「僕の数字は29だ」