第6章 黒と赤――連戦4
1.
朝の柔らかな光に隼人が目覚めると、そこは見知らぬ天井だった。少しパニックになって、そういえば拘束されたあとの記憶がないことを思い出し、赤面する。
男性用仮眠室のベッドは、彼が自宅で使用している煎餅布団よりかなり寝心地がいい。おかげでぐっすり眠って、隼人は久しぶりに活力を取り戻した気がした。
次は、エネルギー充填だ。
自分独りだろうと勝手に考えていた食堂には、先客がいた。スポーティな服装のアンヌとソフィーが朝食を食べていたのだ。驚きで眼を見張る彼女たちの視線を感じながら、食堂のおばちゃんたちにあいさつ。
「朝に会うなんて久しぶりだね、隼人君」
「そうでしたっけ?」
などとたわいもない話をしながら、焼き鮭定食を受け取った。
「あ、ご飯大盛りで」
ふと口を突いて出た言葉に、自分でも驚く。最近食欲が落ちていたのだ。
(あれのせいだよな……)
「あ、ここ、座っていいすか?」
家臣の警戒を笑って、お嬢様は寛大にも向かい側への陪席を許してくださった。
そして、自分のうかつさに内心ヒヤリとする。なぜなら、彼が隣の席に何気なく置いたデイバッグの中には、あれ、すなわち愚者の石が入っているのだから。
「隼人よ」
「は、はい?!」
声が上ずる。斜め前のソフィーが怪訝そうな顔をするのを苦笑いでごまかして、アンヌの次の言葉を待った。
「随分と痩せたようだが、ちゃんと食べているのか?」
「食べてますよ」と嘘をつく。
「ニコラの配下と毎晩戦ってますから」
目を伏せるアンヌを見つめる。化粧っ気は皆無だが気品のある整った顔立ちには、深い苦悩が現れているように見える。
ソフィーの表情が剣呑なものに変わってきた。本当にお嬢様大好きっ娘なんだなと心の中で苦笑して、
「いただきます」
「クララ、焼き鮭のお代わりをもらってきてくれ」
うやうやしく一礼してカウンターへと去るクララを眺めていると、
「おい、お前」とソフィーに咎められた。
「さっきからなんだ! アンヌ様をじっと見たかと思えばクララに目移りしたり! 節操が無いとは思わないのか?」
「節操が無いですか?」
「そうだ!」「そうだな」
口を挟んできたアンヌのほうを見やれば、ニヤニヤしている。こう言う顔もできるんだな。それでもノーブルな雰囲気が損なわれないのは、やっぱり育ちの良さなのか。
「まさかソフィーが焼きもちを焼く姿を見られるとは。亡命生活も捨てたものではないな」
「や、や、ヤキモチ??!」
上ずった声が食堂に響き、おばちゃんたちが驚いている。ニヤニヤ顔のままお代わりの焼き鮭に箸を入れ始めたお嬢様に、家臣は憤った。
「お戯れをおっしゃらないでください! なぜわたしがこんな、こんな――」
「隼人よ、で、どうなのだ?」
「……あの、話が見えないんですが」
アンヌに倣って食事を進めながら、それは本気の疑問である。だが、彼女には彼女なりの理由があるようだ。
「お前このあいだ、ソフィーならイケるとか言っていたではないか?」
もぐもぐと噛むこと5回。隼人はその時の会話をようやく思い出した。一方のソフィーは食事どころではないらしく、そっぽを向いてしまった。
「そういえば言いましたね」
「であろう? で、どう――「お言葉ですがアンヌ様!」
発言を遮られて嫌な顔をしないこの人は、思っていたより寛容な人なのかもしれないな。隼人はあるじに食ってかかっているソフィーを眺めながらお茶をすすった。
「わたしはこんなふしだらな男は御免こうむります!」
「ふしだら……」
そういや、高校の時に2回くらい言われたな。久しぶりに過去のことを思い出す。
「そうだ! あんなに周りに女の子を侍らせておいて、しかもわたしにあのような、えーと……」
鮭肉の最後の一片を隼人とアンヌがそれぞれ飲み込んだ時、ソフィーの語彙がようやく現実に追いついた。
「誘いの言葉をかけて、女の子たちを試すような男と!」
「……なんか俺、すっごい畜生っすね」
「チクショウ?」
人でなしのひどい奴のことだとセルフ解説して、主従に納得してもらう。厨房の向こうでおばちゃんたちがゲラゲラ笑ってるのは、こっちの会話が聞こえてるんだろうな……
「畜生ついでに訊きますけど、ソフィーさんっておいくつなんですか?」
「なんだその理屈は……40歳だ」
思わずうなる。長命族だと知ってはいても、どう見ても祐希や万梨亜と同い年くらいにしか思えないのだ。
それを素直に口にすると、憤激から一転して暗澹たる表情になった。
「あの、すみません、お気にさわったんなら――」
「お前には分からないことだ」
そう言ったきり、口をつぐむソフィー。表情を消して緑茶を飲んでいたアンヌが湯飲みを置いた。
「年齢と外見がかけ離れるのが、必ずしも良いわけではない。我らはヒトの2倍、3倍の出会いと別れを経験せねばならないのだ。死が二人を分かつまでと誓い合いながら、相手ばかりが去ってゆく……」
後を継いだソフィーの口調は更に重い。
「死を待つまでもない。ヒトは老い、我らは老いぬ。その外見のギャップはだんだん大きくなり、噂は相手を苦しめるのだ。そんな思いをさせるのなら、いっそ……」
いつの間にやら厨房の姦しさも已んでいる。ソフィーの醸し出すやるせなさは、自身の体験を踏まえたものなのか。あるいは家族のか。
それでも敢えて、隼人は声を上げざるを得ない。なぜなら彼は、彼らは侵略されている側なのだから。
「じゃあどうして、永遠の命なんて欲しがるんですか?」
反問されると思っていなかったのか、眼を見張る主従。いや、普段は取り繕った顔をして控えているベルゾーイとクララも、ぎょっとしているのが表情から分かる。
「離別だろうが死別だろうが、別れが辛いんですよね? 永遠の命なんか手に入れたら、それも永遠に続くんじゃないんですか?」
見つめてくるアンヌ。彼女の瞳には、隼人の予想とは違って怒りではなくためらいが見られた。やがて、その重い口が開かれた。
「父は、衰えてきていたのだ」
止めようとするソフィーを目で制して、
「そこに、つけ込んだ者がいる。この島の地脈から噴出するエネルギーをその身に取り込めば、永遠の命を授かることができると。愚者の石の片割れを持つ者なら、それが可能だと」
その者の正体は、分からないという。ニコラが取り次ぎ役だったそうだ。
「じゃあ、その時点で叔父さんは……」
「おそらくな……」
大学へ行く時間が来た。湯呑のお茶をぐいっと飲み干すと、立ち上がろうとしたのに。
「お前は、怖くないのか?」
「戦いがですか?」
ソフィーは、かぶりを振った。
「わたし……たちがだ。わたしたちは、お前とは違うのだぞ?」
「怖いですよ。美人ですし」
できるだけさりげなくデイバッグを背負って、今度こそ立ち上がりながら微笑む。
「意味が分からんな」
「怖い美人は当分こりごりってことですよ。それじゃ」
右手をしゅっと挙げると、隼人はトレイを片づけにかかった。
2.
原付を大学の駐輪場に停めると、首を回して骨を鳴らした。今日は一日大学に居ずっぱりで、そのあと塾講師。
(なんか、ここんとこ、そんなんばっかだな)
朝起きて大学行って、バイトか、支部で検討会して、戦闘。規則正しいと言えるかもしれないな、と自嘲する。酒もしばらく呑んでないし。
「さ、行くか」
掛け声を自分にかける。そんな独り言をつぶやいている事実に驚いた。
(疲れが取れきったわけじゃない、ってことか……)
ローテーションでの出動は、ぎりぎり機能していると言えるのだろうか。できれば他支部からの応援を得られないか。そうすれば、もっとローテーションは楽になるのに。
だがそれは、すでに答えが出ていた。各地でオーガが出現し、他の支部はそれへの対処と警戒で手一杯なのだ。
ならば会長は――
「隼人、おはよう」
考え事をしていて全く気づかなかった。いつの間にか、そばに優菜がいたのだ。
あいさつを返したが、今度は彼女から反応が返ってこない。じっとうつむいて、彼と共に正門へと向かうのみ。
その横顔を、あえて見つめながらゆっくりと歩く。見とれているわけではない。こうすると、照れた優菜がなにかしら反応をしてくるのが常だから。見つめるに値する顔立ちなのはもちろんだけれど。
それでも無反応が2分ほど続いて、彼女は意を決したようにようやく立ち止まった。
「お願いが、あるの」
その口調に、ただごとではない雰囲気を感じ取る。隼人も立ち止まって、彼女と正対した。ひとこと言ったきり引き結ばれた唇と。
それが少しわなないてのち、開かれて言葉が紡ぎだされる。
「あれを、もう使わないで。お願い」
自分は今、困った顔をしてる。それが彼女の瞳に写っていて、黙って横に振られるのも。そして次の刹那、それが掻き消えるのも。
「優菜ちゃん……」
彼女は泣いていた。大粒の涙などという叙情的な瞬間はすぐに過ぎ去り、溢れ出て止まらないそれは桜色の頬を流れ落ち、止まらない。彼女自身も止める気がないように、まばたきすらしないで彼を見つめ続けていた。
『女の子泣かしてヘラヘラ笑ってんじゃねぇ!!』
ああ、このことだったんだ。
「分かった」
彼らと同じく正門をくぐって登校している学生たちが、あるいは興味深げに、あるいは係わり合いを持つことを恐れるように、避けながら学部棟群に向かう坂を上っていく。
あとで誰に何を言われようとかまわない。隼人は優菜の頬にまだ流れ続けている涙を、指で切った。
「使わないよ。約束する」
そこでやっと状況に気づいたのだろう、真っ赤になって涙を拭う、でも嬉しそうな彼女。それを見ながら、しかし彼の心は来たる苦境に飛ぶ。
あれを使わない。ニコラには使えないことは支部長からのメールで分かったが、そのラスボスにたどり着く前に、鳥人を、鳥人バルディオールを、そしてあのアルマーレを突破しなければならないのだ。
できるのか。みんなを、それで護れるのか。
厳しい顔になっているのだろう、また泣きそうになった優菜に笑顔を作って、坂を2人で上る――ことは叶わなかった。
「「はやとくーん、おっはよー!」」
「重い!」
真紀と美紀がすごい速さで坂を駆け上がってきて、隼人の両腕に飛びついたのだ。
「こら! 隼人まだ万全じゃないんだから、下 り ろ !」
「「ゆーなちゃーんはやっさしーねー」」
「節付けて歌うな恥ずかしい!」
周りの学生が呆れ半分で吹き出している。隼人も笑いながら、ミキマキ付き登坂を再開した。坂道に両脇から差し掛かる木々からの落ち葉と、それを照らす木漏れ陽を踏みしめながら。
3.
同じ頃、ミシェルが拝んだ朝日は、留置場の窓から見たそれとは違って、実にまぶしかった。
伯爵家差し回しのセダンに、迎えに来た弁護士と共に乗り込む。滑るように進みだしたその後部座席で、ミシェルは唇を噛み締めた。自分が処断されることは確実なのだ。保釈されたからといって喜ぶことなどできるはずもない。その措置が、倉庫街に籠もるニコラからモニター越しにされることが唯一の救いか。不面目であることに変わりは無いのだが。
その思考は次に、不愉快で慄然たる記憶を呼び覚ました。彼が弁護士を通じて面会を要求した男の言辞がそれである。その男は、日本の警察における高官といっていい立場の人間である。
『いやしくも公職にある者が、国外よりの侵略に加担するなどあるまじきこと。そのような国賊の存在を、私は決して許しません』
よくもいけしゃあしゃあと述べたものだ。伯爵家がこの計画を進めるにあたって、真っ先に接触し懐柔したのがその男なのだから。
ミシェルの心は、もう何度目か分からないほど寒々としてきていた。それは、高位の者だけが知りえる恐怖から。鷹取家という敵の実力を知っているからこそ、保釈を勝ち得た笑顔にはなれぬのだ。
鷹取家は、ただの財閥オーナー家ではない。ただの"現世の守り手"でもない。彼女たちは伯爵一族のような人外への変身能力を失い、強大な力を簡単に発揮できぬ。その代わりに、権謀術数を駆使し、あるいは参謀部システムの導入により、他家とは違った形で現世とこの国を護り続けているタフな一族なのだ。
その手が、伯爵家の講じた策を引っくり返しつつある。内通者からのご注進も無いほど、密やかに。
かの聡明にして辣腕な摂政閣下が、それに気づいていないはずはない。ないはず。
考え続けるミシェルの雰囲気に気圧されて、最初は世間話をしていた弁護士も黙ってしまった。空調がよく効いていることもあって、窓の外の快晴など及ばぬ冷え冷えとした車内である。むろん運転手も、一言も口をきかない。
やがてセダンは本拠地たる高級マンションの半地下駐車場へ滑り込んだ。最上階へのエレベーターに乗り込み、運転手と弁護士と共にまた沈黙行を繰り返す。
脂汗が出てきた。指弾される場に向かう手段として、こんな密閉空間はふさわしくない。
最上階の廊下を進んだ端に、ニコラたちの住まう部屋がある。玄関前に佇立する者たちに眼顔でうなずくと、無表情で頭を下げられた。その無礼な振る舞いにカッとなる。だがここで騒ぎを起こしてもしようがない。
廊下を進む。唐突に思い起こされたのは、自らが陥れたアンヌの言葉だった。『暗いじめじめした雰囲気』などと言っていた。その時は負け犬の遠吠えと嗤っていたが、今己の眼前にあるそれは、まさにそのとおり。……いかん、どうもネガティブになっているな。だが、ネガティブになるのも無理はない――
失意と悪寒の螺旋の先に、ミシェルは呆然自失を見つけた。
執務室にかかる伯爵家の紋章、聖杯を抱く天使。その前に腕を組み、ミシェルに背を向けているのは、彼の主たるニコラではないか。
なぜだ。なぜ、摂政閣下がここにいる? 倉庫街の中心部で、地脈のエネルギーをその身に取り込んでいるのではなかったのか。
それを問うべく一歩進んだ彼に、クロードから厳しい声が飛んだ。
「膝を屈せよ、ミシェル」
またしても、呆気に取られる。それは一般家臣の取る礼であり、免除されているのが高位の臣たる証であったのだから。
(降格、か……)
ならば改めて這い上がるまでよ。典礼に従い片膝を突いたミシェルの闘志が燃え上がったところで、
「ミシェルよ」
とニコラが背中から声を出した。その声は、彼が数日前に聞いたものとは違う。覇気、あるいは気力に満ち満ちた、まさに強者のそれだった。
「ただ今戻りました。……伯爵家の家名に泥を塗ったこと、お詫びのしようもございません。なんなりとご処断くださいますよう、お願い仕ります」
「そなたの配下は、実に勇敢であったぞ。2人ほど戦死してしまったが」
じっと首を垂れ、次の言葉を待つ。誰が死んだのかと問うことすら許されぬ重苦しい重圧の中で。
「そなたに付けておくには実に惜しい。よって、本日より我が配下とする」
降格どころではない。これは……
「そなたに命じる」
やはり背を向けたまま、重圧が強まる。
「今よりただちにあの地に赴き、エンデュミオールたちを食い止めよ。中心部に、決して入れてはならぬ」
言外の意味を悟って、ミシェルはうなだれた。眼を閉じ、ぐっと歯を食いしばる。重圧とその取り巻きが部屋から出て行くまで。
背後の扉が閉まる音に心からの安堵を覚えて、そしてその感情に一抹の寂しさを覚える。
ニコラ様は、厳しきお方であった。だが、たとえ若輩者や賎臣であっても、顔も見ずに命令を下すような人ではなかった。ここに到着した時がそうであったではないか。それが――
「死ね、ということか……」
ならば、せいぜい防いで死んでくれよう。覚悟を決めたミシェルは、死地に持ちゆく品を準備するべく、自室へと歩を進めた。
4.
「先生、痩せましたね」
「つか、やつれてるって言わね? 大丈夫っすか?」
男子塾生の心配そうな声に笑い顔を作って、隼人はバイトが忙しいからと嘘をついた。
「いいなー俺もバイトしたいっす」
「お前結構小遣いもらってんじゃん」
「あるに越したこたぁねーじゃん、カネ」
「なんか敏也が言うと、いかがわしー」
男子も女子もああだこうだと言い合いながらも、カネほしーカネほしーの大合唱。
「まあな、いろいろかかるよな」
と同情する。まだ授業開始時間じゃないし、この程度の雑談は隼人もしたい。
「せんせーは特に、ですよね?」
俺の家庭の事情は話してないはずだが、と心中いぶかしがっていると、
「だよねーすっごい美人だもん。夏休みに街で見かけたんだけどさ、めっちゃ高そうな服をびしっと着てて――」
暑がりの『雪女』理佐が、そんな"自爆"をあの時期にするとは思えない。だが、別人だろと否定しきれないくらい、彼女は目立つ存在だし。
それ以前に、
「いや、もう付き合ってないから」
火事は初期消火が大事。彼が過去に血を流して得た世間対策である。
案の定、さーっと生徒たちに情報が沁み渡り、
「チャンスタイムだよ、沙良ちゃん!」
別の火元から出火してしまった。が、肝心の沙良がいない。欠席かと思って名簿を見たが、連絡も来ていない。
「なんでだよ里穂、お前がいくんじゃねぇのかよ」
「いやいや、まずは沙良ちゃんにいってもらって、ドカンと爆発してもらって」
「失敗すること前提かよ!」「鬼だ、鬼がいる」
「誰か、坂本さんから何か聞いてないか?」
あえて話を事務的な方向に曲げる。彼女と同じ学校に通っている生徒がいるかどうか、記憶があやふやだったのを思い出したのだ。
「佐藤さんって同じ学校じゃないの?」
「ん? 違うよ? 1回だけ電車が一緒になったことはあるけど」
見渡すかぎり、誰も沙良と同じ学校に通っている生徒はいないようだ。そこへ、沙良が飛び込んできた。
「すみませーん、遅くなりました」
そう言いながら、自分に向けられた多数の視線にたじろぐこともなく、真っ直ぐ突き進んでくる。
「せんせー、こんばんは!」
「お、おう、こんばんは」
「さあ、授業を始めてください」
先ほどの会話を混ぜっ返して冷やかそうとしたクラスメイトたちが眼を白黒させている。望むところだと返す間も与えてくれず、二の矢が飛んできた。隼人の急所をえぐるように。
「そして、今日はもう帰って寝てください」
「いやそういうわけには――」と言おうとしたが遮られる。
「せんせー、こんなに体調悪そうなのに、バイトなんかしてちゃだめじゃないですか!」
「……どーしたの? 沙良ちゃん」
生徒たちの中でも特に親しいみやびが声をかけたが、ちらりと視線を投げただけでまた隼人に厳しい眼を向けてくる。
「大丈夫だよ。昨日ぐっすり寝たし」
また嘘をつく。本当は『大丈夫』ではないのに。そして授業の時間がやってきた。
さすがに授業中は大人しくしていた沙良だったが、授業が終わってからまた動き出した。講師控室での個別質問に噛み付いてきたのだ。
「先生、帰って寝てください」
こんな厳しい顔をする彼女を見るのは、初めてである。いつもの『せんせー』という独特のイントネーションすら出てこないほど。
ここで嘘をつくことは可能だ。少し粘ったうえで根負けした演技をして、仕方なく帰る振りをすればいい。
だが、なぜか沙良の態度が癪にさわった。今までの彼女とは違う、居丈高なと言えばいいのか、有無を言わさない口調が隼人の心に反発を生んだのだ。
だが彼は、そこでつんけんした対応をするようにはできていない。
「帰れないよ。このあと、大事な用事があるんだ」
その前に、個別質問を受け付ける。こういう日常を滞りなく続けることが大事なんだから。そう念じながら。
ふてくされてしまった沙良も、みやびたちに連れられて渋々といった態で戻ってきた。
それも30分ほどで終了し、生徒たちは引き下がった。立ち上がってぐっと伸びをして、突然目の前が真っ暗になる。思わず両手を事務机に突いて気を落ち着けていると、
「隼人君、大丈夫かね?」
東堂塾長が歩み寄ってきた。肩に手を当てて、顔をのぞきこんでくる。
「顔色が悪いぞ。もう帰りなさい」
素直に従って、荷物を手早くまとめる。控室出入り口からの刺すような視線に耐えながら。
階段をゆっくりと降りる。視線の主――沙良もついてくる。原付にたどりついてヘルメットをかぶったところで、背後の沙良を振り返った。
「じゃあ、気をつけて」
……そんなに潤んだ眼で見られても、困るんだが。
「せんせー……」
口調がいつものに戻ったのを確認して、ふっと笑う。そして彼女の頭を撫でた。
「行ってくるよ」
みんなを護るために。沙良たちの未来を護るために。
「んもぅ……」
5.
倉庫街要塞付近の暗がりでは、エンデュミオールたちがそこかしこに腰を下ろして待機していた。ブラックを待っているのだ。今夜はアスール以外全員出動。ルージュはバイトから少し遅れてくるとの連絡が入っていた。
待ちの時間というのは、緊張を紛らす世間話と並行して、倉庫街と鳥人たちのことに話が集中するのはやむを得ないことだろう。
今夜はグリーンとプロテス、ゼフテロス、3人の質量操作系がその語り手だ。
フンフーン
「ほんとに監視カメラも何にもなかったね」
「やろ? やる気あんのかいなって思わへん?」
フンフフーン
「駆けつけてくるのもおっそいし。やっぱ、バリケードなんてポイってことだよね?」
「お金持ちは違いますね」と呆れ口調で横からトゥオーノ。
フッフフーン
「あの赤いバルディオールも出てこないし」
「舐められてる?」
フンフンフフーン
「昨日の戦闘結果見て、出てくるかもね。そのためにブラックを待って――」
グリーンがついに我慢の限界を超え、怒鳴った。
「うるさい! 残念ねーやん!!」
鼻歌を歌いながらどこ吹く風のブランシュ。視線が集まってもまるで動じていない。
「どうしたの? この人」とロートの問いに、
「褒めてもらえたんですよお昼に」とイエローが苦笑して肩をすくめた。
「隼人君に?」
「そうです。昨日がんばったから。ね? ブランシュ」
頬を染めてぶんぶんとうなずくブランシュに、
「いじましいなぁ」
「ま、全てがもう無駄なんだけど」とプロテスが混ぜ返す。
それを聞いて、アクアがケラケラと笑い出した。
「質量操作系の投射スキル、マインド・クラッシュが発動! ブランシュは悶絶した!」
地に両手と膝を突いてうなだれるブランシュを見下ろして、グリーンはほとほと呆れた様子。
「なんで一人のオトコにそない執着すんねんな」
「珍しいよね」
プロテスが応じた時、なにやらヒソヒソと話し合っていた北東京支部の二人から、ロートが抜けてきた。
「ちょっとお伺いしたいんですけど」
グリーンたちに男前な顔立ちが向けられる。
「隼人君のモトカノってどなた?」
みんなで、まだダメージから回復しないブランシュを黙視して指差す。
「いやそうじゃなくて、高校時代の」
プロテスは黙って自分を指差した。
「だってさ、トゥオーノ」
あっちか。プロテスは憮然さを隠さない。それに対するトゥオーノの質問も、中々に厳しい。
「どうして、笑って話し合えるんですか?」
プロテス――千早が隼人にした仕打ちを知ってのことだろうか。いずれにせよ、答えは一つしかない。
「隼人が、あたしを許さないから」
「……意味が分かりません」
お子ちゃまには分からないよと言おうとしたところに、渦中の人がやってきた。
「遅くなりましたー……どしたの? ブランシュ」
「あ! はや……ブラック!」
たちまち跳ね上がって声を弾ませるモトカノに、モトカレは優しく笑いかけた。
「今日こそ一気に中心部まで行こう。今日も頼むぜ」
「う、うん! がんばるわ!」
(乗せ上手だね)
(女の敵ですから)
(クズめ……)
最後のゼフテロスにくすりと笑った直後、プロテスは見てしまった。ロートの掛け声に応じたエンデュミオールたちの動き出しが、ワンテンポ遅れたことを。
横目でゼフテロスを見やると、彼女も気づいたらしい。目顔でうなずいてきた。
タフな戦いになりそうだ。プロテスは不安を押さえつけて、みんなとともに疾走を開始した。
6.
優菜はスマホを取り出して時間を確認する余裕すらなく、ひた走りに走っていた。バイトが押しに押したあげく反省会をするとまで言い出されて、大事な用事があるからと無理やり上がったのだ。
そこで優菜は迷った。駅まで走るのはいいとして、そこからどうするか。
時間はかかるが、現場の近くで降りられるバスに乗るか。
浅間市には早く着くが、現場にタクシーで行かねばならない電車にするか。
その迷いが、既に彼女の溜まった疲れを端的に現していたのかもしれない。そして、そういう時はえてして選択が凶と出るものである。次に来るべき電車が、駅の手前で人身事故により止まってしまったのだ。
電光スクリーンを呆然と見上げる。たっぷり5分は思考停止してようやく、優菜はまた走った。走って、たまたま駅前ロータリーに滑り込んできたタクシーをなんとか捕まえることができた。
今日のバイト代どころじゃないお金が吹き飛んでしまうが、仕方ない。運転手に行き先を指示すると、じっと待ちの時間が訪れた。
隼人君を慰めてあげなはれ。なぜか唐突に真紀の言葉が脳裏に蘇る。
そんなこと、できるわけない。親友の自爆を見て取るや彼に身を任せて、なんて真似をできる女じゃない。優菜は自分をそう思っている。
あるいはそれは、言いわけなのかもしれない。
怖いのだ。彼が。彼を想う気持ちと同等に。
自分は、うまくやっていけるのか。彼に怒って、その結果彼の心の傷に触れてしまう。そうならないと自分に断言できるのか。
彼の背中に幾度呼びかけても、返事すらしてくれない。涙混じりになって取りすがって、やっと振り向いてくれるのだ。
「なに? 田所さん」
いやだ。いやだ。いや――
「――さん! お客さん!」
運転手のだみ声に起こされて、優菜は跳ね起きた。赤面しつつ料金を払って降りる。そのままコンビニに入る振りをしてタクシーをやり過ごす――わけにはいかなかった。
運転手が窓から首を出して、歓声を上げる。
「まぁたやってんなぁ」
その視線の彼方には、色とりどりの光が乱舞していた。その原因を、優菜はよく知っている。なにしろそこに急行して、自分も参加しようとしているのだから。
「お客さん、この辺の人? あそこで何やってるか、知らない?」
知らないと全力で答える。そして優菜は、コンビニに出入りする客が一様に彼方を見上げてぽかんとしばし立ち尽くしているのを察した。
(うう、真っ直ぐ倉庫街には行けないな……)
とりあえずタクシーが帰った方向とは逆へ。優菜は不自然に見えない程度に足を速めた。
そして戦場に到着したエンデュミオール・ルージュは、仲間たちの苦戦を目にすることとなった。
中心部到達を阻む壁。それは、あの赤いバルディオール、アルマーレだった。そして、
「! オーガ……ッ!」
そう、10体ものオーガが狭い通路に列をなし、エンデュミオールたちの攻撃を阻んでいたのだ。鳥人の姿こそ見えないが、倉庫を越えて浸透しようとする者をアルマーレが阻害している。
ルージュの力では、アルマーレには通用しない。ならば、彼女の相手はオーガだ。
火球を放って味方を援護し、駆け寄って炎に包まれた拳を叩き込む。火球と拳が別々のオーガに命中して、幸先いいと思った次の瞬間、
「La vie de la flamme(命の炎)」
アルマーレが上空に放った火球が分散してオーガに降り注ぐ。
「治癒されちゃった!」
『できるだけ二人一組でオーガを1匹ずつ確実に始末して』
無線から聞こえてくるのは横田の不安そうな声。感情の揺れが声に出やすい彼は、正直指揮に向いていないのだが。
支部長はどうしたのだろうと問う間もなく、アルマーレが一声吼えた。
「そろそろお遊びは飽きたぞ」
と言うなり、彼女が総身に力を籠め始める。
「ヤバイ! 鳥人化されちゃう!」
アクアの叫びで、ブラックがラディウス光線を急いで放った。だが、オーガの身を挺した防御に防がれてしまう。
やはり、オーガを削っていくしかない。そう決意を新たにして目の前の奴に殴りかかる。だが、彼女と仲間たちの奮戦は到底報われるものではなかった。
鳥人化を果たしたアルマーレの胸の前に、まばゆい光が集まり始める。オーガたちが左右に退避し始めたのを見て、
「みんな! 力とタイミングを合わせて一斉攻撃だ!」
ブラックが叫ぶ。そしてルージュと、投射系スキルを持たない質量操作系以外のエンデュミオールが一斉に白水晶を輝かせる!
「みんな……」
せめて、せめてアルマーレの邪魔をしようと炎蛇を生成するルージュ。その溜めの時間をプロテスがカバーしてくれる。向こうのサイドではゼフテロスが単身オーガを殴り飛ばしている……単身?
(グリーンは? どこ?)
不審を覚えながらも探して首を回す余裕などなく、ルージュは炎蛇を放った。オーガたちのあいだを高速ですり抜けて、長身のその半分ほどまで光弾を育てきったアルマーレに絡みつく!――はずだったのだが。
アルマーレが剣を抜いていた。その太刀筋は迷いなく炎蛇を両断する。
だがこれで、少しだけ時間が稼げた。
「ブラック! みんな!」
「いっけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
エンデュミオールたちから、それぞれの最大火力でのスキルが放たれる! もはやオーガの壁など間に合わない。届け、届け、届いて!
だがルージュの願いも虚しく、アルマーレの気合一閃、光弾が放たれた。もはや赤い炎を絡みつかせた光の槍のごとき長く太い尾を引いて。
ルージュの心臓を鷲掴みにするような爆音を轟かせてそれは突き進み、そして――黄金色の光の束を、一抱えはある氷球を、まるで丸太のような火柱を、絡み合い直進する水槍を、負けじと轟音を鳴らす雷の矢3本を、全て飲み込んで消滅させてしまった。さすがに勢いと直径は減じられたものの、それは大技を撃ち終って動きの止まったエンデュミオールたちを蹂躙するにまだ十分な威力を持っていた……!
「あ、あ、ああ……」
ルージュはもはや言葉を失った。果敢にも一斉攻撃を敢行した仲間たちは倒れて、皆全身を淡い光が包んでいるのだ。いや、独りイエローだけが崩折れずに残っていたが、今にも倒れそうなほど全身をわななかせている。
あたしのせいで。
ルージュの心は、ここに至ってついに張り裂けた。
あたしのせいで。あたしが隼人にあれを使わないでって頼んだせいで。みんなが、みんなが……
ルージュは自分でも理解できない叫びを発しながら、オーガとその向こう目がけて吶喊した。
7.
西東京支部長の可奈は、眼下遥かの敗軍が潰走するさまを、ただこの廃ビルから見つめていることしかできなかった。
それがどうにもやるせなく、目の前の壁を殴りつけようとして、聞き慣れぬ異音に気づく。
傍らの会長が、泣いていた。22年前には、涙など絶対に見せなかった彼女が。
彼女の瞬きすらしない、濡れた瞳に映るもの。それは、絶望の戦場から懸命の脱出を図っている人々であった。
致命傷を負って失神している仲間たちを双肩に担いで、一目散に走るプロテスとゼフテロス。
重傷を負ったイエローとルージュにそれぞれ肩を貸し、歯を食いしばって引きずるように出口に向かうサポートスタッフの女性たち。追いかけてきたオーガに、自らも傷を負いながらタックルをかます伊藤と横田。レーヌ対策に効果があったため備品に混ぜてあった爆竹に箱ごと火を点け、アルマーレのほうに向かって投げつけている者までいる。
それ以外に形容しようがない惨敗は、機材を全て放棄して人員を満載した車両が支部に向かって走り去ることで閉じた。
そのテールランプがぼやけて、消えていく。見送って、初めて会長は嗚咽を漏らした。深くうなだれて、拭われることのない涙がかつてはオフィスだったろう荒れ果てた床を濡らしていく。
やがて、
「可奈さん……」
会長は支部長を見すえ、決意と哀願をこめた口調で語りかけた。
「鷹取家に、アポイントメントを取って。今すぐ、お話したいことがあるって」
「もう取ってあります」
可奈は、驚愕に見開かれる会長のまなざしを正面から受け止めた。
「会長が言い出されなければ、私が独断で鷹取家に行くつもりでしたから」
そう、そのために横田に指揮を一任したのだ。
怒り出すと思っていたが、会長はまた涙を一しずくこぼすと、深くうなずいたのみだった。