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Intermission

1.


 足取り重く戻った部屋は、それなりの暑苦しさで隼人を出迎えた。

「あ、洗濯物が入れてねぇ……」

 まあいいか。明日も晴れだろ、多分。

 今日は疲れた。高層ビルから高層ビルへ飛び回るというのは、普段の屋根伝いとは違った興奮と緊張と、それに伴う疲労を隼人の身に与えているようだった。

 シャワーだけ浴びて、帰りがけにコンビニで買った弁当を食べかけたところで、玄関のチャイムが鳴った。

 この古アパートは、家賃の安さが取り柄の簡素な造り。当然のことながらエントランスホールの集中ロックなんてものは存在しない。インターホンすらないのだ。おまけにドア上部に嵌め込まれているのぞき窓を外から見ると、中で灯りが点いているかどうか分かってしまう。

 誰だろう。ツレが来るというメールは無かった。この時間に勧誘やセールスはありえない――この古アパートにツレと大家以外の人物は、宗教の勧誘くらいしか来ないのだ。

 仕方なくのぞき窓を見ると、

「どうしたの? 優菜ちゃん」

 戸を開けた向こうには、支部で別れた優菜が立っていた。そのどことなくはかなげで当惑したような印象に見入っていると、形のいい唇からぽつりと言葉が漏れてきた。

「……お願いがあって、来たんだけど」

 玄関先では話せない内容と察して、部屋に上げる。彼女は黙って、リビングのクッションに座り続けた。隼人が湯を沸かし、インスタントコーヒーを淹れて持って来ても、なおしばらく。

 一口こくりと飲んでやっと決心がついたのか、優菜は決意を秘めた顔を隼人に向けた。

「お願いがあるの」

 うなずいて、続きを促す。

「理佐を、名前で呼んであげて」

 正直に言って、意表を突かれた。それが顔に出たのだろう、優菜はさらに続けた。

「みんなそのことで、ギスギスしてるんだ。理佐は挙動不審だし、るいやミキマキちゃんはそのことでからかうし……このままじゃ……」

 優菜の危惧はもっともだ。だが、

「ごめん。それはできない」

 隼人は首を振った。そして思わず口を突いて出た言葉。それは、

「もしどうしてもって言うなら、優菜ちゃん――」

 そして自分の言葉から衝撃を受けて、隼人は忙しくまた首を振って打ち消した。

 自分に湧いた邪念に、心底嫌になる。

「ごめん、朝早いから」

 失意に沈む優菜もそれ以上は食い下がらず、駐輪場から彼女の原付を見送ったあと、隼人は傍らの柱を自らの身代わりに殴りつけた。



2.


 そしてその電話は、真夜中にやってきた。

 寝ぼけたまま出た隼人の耳に、泣きじゃくるなごみの声が響く。

「くるみが……くるみが……」

 跳ね起きて身支度を整えて、原付に飛び乗る。終電はもう無いと判断してそのまま駆けつけた隣野市民病院の夜間診療フロアは、急病者やけが人とその付き添いでごったがえしていた。

 受付の男性に説明しても、さっぱり要領を得ない。妹が救急車で担ぎこまれたから来た。ただそれだけしか言ってないのに。

 治療室が並ぶ一画の奥から、くるみが走り寄ってきた。腕を掴まれて、他の客が不審な目線を送ってくる中を小走りに治療室の一つに向かう。

 くるみはいくつもの点滴につながれて、眠っていた。側で丸イスに腰掛けて、頭を抱えている義父を見ると、10歳は老けたように見える。

 ここが集中治療室ではないことに、隼人はとりあえず安堵した。そして、くるみの姿を見て涙がぶり返し始めたくるみの肩を抱いて、治療室の外に連れ出す。たちまち集まる好奇の視線を無視して落ち着けるところを探し、結局治療室から一番遠いビニール張りのソファに腰を下ろした。

「わたしが……悪いの……」

 くるみが涙混じりに説明するところによると、隼人と3人で旅行に行くため、体力をつけなくちゃということになって、夕方にウォーキングをするようになった。それが予想外にうまくいって、体力がついてきたのだ。

「じゃあ、もうちょっとがんばってみようか、ってことになって――」

 早朝にもウォーキングを追加して、くるみも同伴することにしたのだが、

「昨日、突然雨が降ったでしょ……濡れて帰って来て……学校へ行く時間だからって、着替えと頭を乾かすだけで行っちゃって……」

 身体が冷えたのだろう、学校でみるみるうちに体調が悪化し、早退してきたのだという。そして――

「私のせいで、私のせいで」

「なごみのせいじゃないよ」

 そのまま彼の肩に頭をもたせかけてむせび泣くなごみの肩を、優しく撫でてやる。

 だが、

(明日、じゃなくて今日は朝から大学行って、夕方は塾講師か……)

 などと考えてしまう自分に嫌悪する。

 それから30分ほど過ぎただろうか。看護師に名前を呼ばれて連れて行かれた先には、くるみの主治医がいた。さっそく病状の説明が始まる。専門用語はさっぱり理解できず、ただ緊急の手術が必要なことと、それが健康保険の適用外であること、つまり多額の手術費用が必要であることが分かった。

 義父は迷わなかった。

「分かりました。手術代は、そろえてみせます」

 そして、隼人にも頭を下げる。

「頼む。あいつのところに、一緒に行ってくれ」



3.


「あれ? 隼人君は?」

 朝一の講義室に、美紀はいつもの人の不在を見つけた。

 杉木から答えが帰ってくる。

「今日は休みだってよ。メール来なかった?」

 その言葉に、なぜか胸がちくりと痛んだ。もう過ぎたことなのに。まるで自分が蚊帳の外にいるような寂寥感さえ覚える。

「真紀ちゃんは?」

「ねーやんは昼から来るよ。午前中はバイト」

 と委員長に返す。席に着いて、美紀の思考は今日の突発的事態への憶測に跳んだ。

 なんだろう。昨日は確かに、隼人は疲れた様子で帰っていった。また過労で頭が痛いのだろうか。それにしたって、ウチにメールくれたっていいのに。もうウチはただの同期ってことなんだろうか。また胸が痛む。

「まさか……」

 つぶやきの種は、妄想という名の論理的飛躍。理佐に隼人が拉致されたのではないかという。

 それならば、ウチにメールが来ない理由も分かる。あのサイコちゃん(@圭)ならやりかねない。疲れきった隼人では……

 ゼミの教官が講義室に入ってきた。美紀は姿勢を正す振りをして、真紀に通報のメールを打った。救出作戦は、慣れた相方に限る。



4.


 その頃隼人は、義父と共に実家に来ていた。大学進学以来、久しぶりの帰省である。

 実家はリフォームされて、ピカピカになっていた。さぞかしお金をかけたのだろう、まるで新築の家のように見える。

 しかしその光景は、隼人には寒々しく感じた。生活感が無いのだ。それどころか、隼人や義妹たちの苦難と苦労の跡を壁紙や化粧版で覆い隠しているような気までする。

 2年半ぶりに会った義母は、艶々としていた。同い年のはずなのに、義父とはまるで老け具合が違う。

 その義母のやや甲高い声が、開口一番叩きつけられた。

「で、ご用件は?」

 事前に夫から聞いているはずなのに、あえてこの物言いである。むかつく腹は義父も同じだろうが、ぐっとこらえて説明を始める。

「――というわけで、手術代が必要なんだ。頼む、貸してくれ」

「今ある借金を全部返したら、貸してあげるわ」

 絶句した義父に代わって、隼人が口を開く番だ。

「じゃあ、俺に貸してくれ。バイト代から毎月返すし、就職したら返済額を増やすし」

「幾ら?」

「え? じゃあ――」

 隼人の喜色は、義母の次の言葉で無残に打ち砕かれた。

「バカだね相変わらず。毎月幾ら返せるかって聞いてるんだよ」

 隼人は目を閉じて計算した。授業料の積み立て、生活費、自分の身に何かあった時のための積み立て……

「月に2、3万円なら……」

「話にならないね」と高らかに嗤われる。

「全然減らないじゃないか。大人をバカにするんじゃないよ」

「就職したら増やすって言ってるじゃないか」と義父の援護も甲高い声に遮られた。

「は! こんななんの才能も無い奴、誰が雇うってんだい? お断りだね」

「お前に雇えなんて言ってないだろう。それに、お前の知らない隼人の才能だって――」

「なおさらだね」と言い捨てて、義母は立ち上がった。

「あたしに分からない才能なんかに金を貸せるかよ」

 それを捨て台詞に、義母は部屋を出て行った。なおも義母としての扶養の義務を言い立てる義父が追いすがる。一方的に罵詈雑言を浴びせられて、手を握り締めたままの隼人を残して。



5.


 実家からの帰り道、隼人と義父は何度目かの溜め息を一緒についた。

「カネ、欲しいなぁ……」

「金が無いのは首が無いのと同じ、って真理だよな……」

 義父が、隼人の手を気遣う仕草をした。

「お前ぇ、その手、大丈夫か?」

「ああ、鍛えてるからな」

 赤信号で止まって、行く先を見つめる。

「お前ぇ、授業料は?」

「先週もう払っちまったよ、家賃もな。親父こそ、店の支払いはいいのかよ?」

「待ってもらってる。それも月末までに払わねぇと、追い込みがかかっちまう。水道代も払わねぇと」

「そっちもかよ」

 滞納が嵩んで、月々の分割納付を怠ると水道を止められるらしい。

「じゃあお前ぇはあとは――「頼らねぇよ」

 あの子たちは、頼らない。ついこのあいだあんなこと・・・・・があったばかりなのに、どのツラ下げて頼めるというのか。あの子だけを除いて頼む? そんな酷な真似、できるものか。

 それにこれは、俺の家族の問題だ。あの子たちを煩わせる必要は無い。

「なんとかする。なんとか……」

 信号が青に変わって駅に向かう道すがら、隼人は方策を考え続けた。



6.


 くるみが時折苦しげに呻くその傍らで、なごみはずっと付き添っていた。

 わたしがそばにいなくちゃ。

 父にはお店がある。義兄の隼人には学業とバイトに励んでもらわねばならない。彼女は受験浪人。時間だけはあるのだから。あれ・・もお兄ちゃんに渡したし。

 高校を卒業して、それまでの友達とはすっかり疎遠になってしまった。受験勉強のほかに、彼女にはやることがいっぱいあったのだ。

 入院中だったくるみの世話に加えて、父の生活の世話もある。父が経営するのはいわゆる夜のお店で、当然のことながら生活は荒れていた。体を壊さないように、炊事洗濯は彼女の日常生活である。

 隼人も、ある意味生活破綻者だ。ご飯を炊く以外の炊事をしない。部屋の片づけなどめったにしない。よって、このあいだ片付けに行った時のように、部屋の隅にツナの空き缶がピラミッド状に積まれているということになる。彼も、放っておけない。

 わたしが頑張らなくちゃ。そう思いを新たにしながらも、手は知らず電源を切った携帯をまさぐっている。

 現在の状況を誰かに連絡することを、隼人に禁じられていた。これは家族の問題だからと。

 千早にも圭にも。そして、ボランティアの女の子たちにも。

 いつの間にやら登録して、そして兄の周りをまた素敵な女の子たちが取り巻いていた。その子たちはくるみのお見舞いにも再々来てくれて、親交を結ぶことができた。メールをやり取りしたり、たまにお昼に誘ってくれたり、勉強を教えてくれたり。

 だが、その子たちにも隼人にも、どうしても訊けないことが一つあった。

 時々、夜間に連絡がつかないことがあるのだ。いつもはすぐに返事を返してくれたり折り返し電話をくれるのに。9時くらいから11時くらいまで、時々つながらない。

 千早にも、圭にも。

 共通項は、ボランティア。

 何かある。

 また、携帯を握り締めていた。話がしたいのだ。

 誰かに、この現下の苦境を話したい。助けてと叫びたい。

 でも――

 泣き濡れた顔を上げると、11時30分を過ぎていた。くるみは落ち着いて、寝ているようだ。その顔に無言で断って、病室を出る。近くのコンビニに向かうために。

 お昼前の入院病棟は、どことなく暗く、静かだった。その雰囲気から逃れたくて、足を速めようとした時。

「なごみちゃん!!」

 振り向けば、千早と圭がいた。

 逃げなきゃ。逃げなきゃ。お兄ちゃんに怒られる。大好きなお兄ちゃんに、嫌な顔をされる。逃げなきゃ。

 しかしくるみの足は、いや心は、生まれて初めて彼女の意志を裏切った。

 走ってその胸に飛び込み、くるみは全てを吐き出した。くるみの病状も、手術のことも、金策で父と隼人が四苦八苦していることも。

「あの馬鹿野郎……!」

 圭の抑えた怒声が耳を打ち、くるみはまた泣き始めた。



7.


 お昼を過ぎても食欲が湧かず、隼人はとぼとぼと大学への道をたどっていた。

 バイト先である東堂塾へ、バイト代を前借りできないかお願いに行っていたのだが、

『すまない。規則で禁止しているんだ。私には、これしかしてあげられない』

 塾長が差し出してくれた3万円を含めて、5万4783円。テレビにコミックの単行本その他諸々。学業とバイトと、来たる就活に必要な物を除いてリサイクルショップに売却した代金との総計であった。

「あとは、学生ローンか……」

 義父が返済に四苦八苦しているのを見ているだけに、借金はできるだけしたくなかった。だが、もう打つ手がない……

ターリホー(敵機発見)!」

 ごめんなるいちゃん、今はそういう気分じゃないんだ。そう言おうと振り向いた隼人の眼は、彼女の伸び上がった右腕を捉えた。

 ああこれ、マンガで読んで知ってるぜ。なんていうパンチだっけ?

 打ち下ろされた右拳があごにダイレクトヒットして脳を揺さぶられ、隼人はその場に崩れ落ちた。

――「んふ」

 るいは満足げに獲物を見下ろした。事の成り行きに騒然となる周囲など全くお構いなしに、仲間たちにメールを送る。

「確保、と」

 再び見下ろしてふと、形の良いあごに手を当てて考え込み始めた。

「これ、どうやって運ぼう……」



 所変わって、ここは西東京支部の会議室。隼人を確保した現場近くのファミレスに彼を搬入しなかったのは、真紀たちなりの考えがあったのだ。

 やはりお金の話と集計を、赤の他人がいる所でしたくなかったこと。そしてもう一つ――

「お 前 は 本 当 に 水 臭 い や つ だ な あ !!」

「ぎゃああああああああああああああああああああああああああ!!」

 パイプ椅子に座らされた隼人の両のこめかみに、優菜がその双拳を抉り込ませている。

「ゆうなー、るいたちの分もやっといて」

「うぉら4名様分追加だ!」

「ぎゃああああああああああああああああああああああああああ!!」

 それを眺めながら、真紀は缶コーヒーをすすっていた。

(優菜ちゃんもよっぽど溜まってたんやな。だから言うたのに、隼人君を慰めてあげなはれって)

 自分もスッキリできて一石二鳥やのに、本当にもったいない。

 ようやくお仕置きが終了して気息奄々の隼人に、美紀がすっと茶封筒を差し出した。

「これ、ウチとねーやんと、ゼミのみんなから。あと、二階堂先生からも」

 眼を見張ってすぐ渋い顔。隼人は、言葉を喉から搾り出した。

「……どうして、知ってるの?」

「千早ちゃんから通報がありました。千早ちゃんは、くるみちゃんから聞き出したって」

 さらに渋面が深まる隼人に我慢できなくなって、真紀は口を出した。

「隼人君の、ウチらを巻き込みたくないっていうのは分からんでもないで? でも、じゃあどうするつもりやったん?」

 隼人はぽつぽつと金策の成果を話してくれたが、当然それは必要額に届くわけもなく。

「ウチらにとっても到底自力で用立てできる金額やなかったさかい、みんなに協力を仰ぎました。ていうか、頼ってほしかったわ」

 ガラにも無く恥らって、ぼそりとつぶやく。

「ウチら、仲間なんやし」

「……ごめん」

 うなだれた隼人に、今度は理佐が白い封筒を差し出した。

「これ、わたしと優菜とるいから。あと、北東京支部のみんなからも」

 隼人のお礼に、美紀のスマホのコール音がかぶさった。

「あ、高槻のオバハンからや。もしもーし――」

 話しながら会議室を出て行く美紀の後ろ姿を見送って、とりあえず集計をとるいがゼミのカンパをのぞく。

「うわ! 結構入ってんじゃん」

「どうしたの、こんなに」

 真紀はしれっと答えた。

「杉木が美紀を怒らせたさかい、その詫び代込みやで」

「……なにをやらかしたんだ、あいつ」

 真紀は美紀が去った戸をちらりと見やると、顛末を話し始めた。



『くるみちゃん、やっと退院できて……お兄ちゃんたちと一緒に旅行に行くってがんばって……でも、無理して病気がぶり返しちゃって……このままじゃ、手術しないと……でも……』

 そこまでが限界で顔を両手に埋めて嗚咽を漏らし始めた美紀に変わって、真紀が頭を下げた。

『そういうわけで、手術代が必要なんよ。でも隼人君のおうちには到底用意できる額やないの。もしよければ、ウチらのカンパに足したってください』

 真紀のお願いに呼応して、ゼミ仲間たちは動き始めた。いくばくかのお金を財布から取り出して真紀に手渡す者、この場にいない同期に連絡を取っている者、『あ、持ち合わせが無ぇ。悪ぃ、5000円立て替えて』とやっている者、様々である。

 そんな中、杉木は動かず、腕組みをしてニヤニヤしていた。

『なあ、隼人ってなんでそんなにカネ無いの?』

『は? 学費と生活費を自分で稼いでるて言うてたやんか。知ってるやろ?』

 控室の空気が、白くかつ黒くなっていく。そんなこと気付きもせず、杉木は鼻をぴくぴくさせて調子に乗り始めた。

『前々から思ってたんだよ。もっとバイトして、節約もしろよって。いっつもピイピイ言ってんじゃん?』

 まだ顔を両手に埋めたままの美紀が、ピクリと震える。真紀が慌てて止めようとしたが、図に乗った杉木はついに一線を越えた。

『だいたい、かつがれてんじゃないの? ミキマキちゃん。そういうことならふつー本人が来るべきでしょ? それを君らに集金させるなんて――』

『なんやとこ゛ら゛』

 ゼミ仲間の顔が凍りつくほど冷たく低い声を吐いて、美紀がゆらりと立ち上がった。頬に滂沱の涙を流したまま、瞳孔が狭まる。

『もういっぺん言うてみぃや。あ゛あ゛? それだけさえずるんや、覚悟はできてんのやろうな? もういっぺん言うてみぃや!!』

 さすがの委員長が即応した。

『男子! やっておしまい!』

 指令に了解と応えて、男子たちが緊迫の場に介入した。

『まあまあ美紀ちゃん落ち着いて』

『ちょ、なんで俺を押さえるんだよ?!』

 羽交い絞めにされた杉木がわめくが、男子はさらに痴れ者を取り巻いて開放する気は無い。女子たちはもちろん止める気は無く、むしろ美紀の周りに集まって口々に慰め始めた。

『はーいスギキクンのお財布ハイケーン』

『おい勝手に抜くなよ!』

『うわさすが、持ってるねキミィ!』

『つかどんだけユキチさん連れ歩いてんのよお前』

『きゃーすぎきくんすてきー』

 と女子の棒読みが決まったところで、ゼミの教官である二階堂先生が控室に入ってきた。騒ぎに苦言を呈しに来たのだが、真紀が経緯を説明すると、

『そうか、持ち直したって聞いてたんだが……ちょっと待ってろ』

 教官室からお金を持って戻ってきた。それを真紀に手渡すと、杉木を横目で見すえる。

『お前、今度のゼミの発表やれ。神谷の代わりだ』

 なんで俺がと口を尖らせて、美紀が放つ殺意の波動に震える杉木に、二階堂先生はあっさりとしたものだった。

『そうか。で、君は誰かね?』

『へ??』

『兄が妹の手術に立ち会う。だから発表の準備ができない兄と代わってやる。そういう人情が理解できない奴は、俺のゼミにはいない。そんな学生はいないんだ』

 二階堂先生は優しく、呆然とする杉木の肩を叩いた。

『で、君は誰かね?』

 美紀がここでようやく涙をぬぐって、教官に相対した。

『発表の代理は、ウチがします。で、杉木?』

『は、はひ?』

『海行こ』

 美紀はようやく落ち着いたようだ。冗談が出るようになった。瞳孔は相変わらず狭まったままだが。

『う、海って?』

『そ、好きやろ? 海』

『そりゃ、マリンスポーツ全般イケるけど、別に美紀ちゃんとは――』

『どこがええ?

 1. 東京湾

 2. 相模湾

 3. 駿河湾

 なんやったら、本場・大阪湾でもええんやで?』

 杉木は震え始めた。

『それゼッタイ遊びじゃないよね?!』

『遊びやがな。お魚や甲殻類に戯れてもらうっていう』

 その後、同期たちに散々脅された杉木は、カンパに全面協力することで赦してもらえたのであった。



「マジギレした美紀ちゃん……」

 真紀の回想を聞き終えた理佐が眼をきつく閉じ、ふるふると首を振った。

「見てみたかったなーそれ」とるいが屈託なく笑い、

「あたしはいいや。なんでそんな馬鹿に付き合って、寿命を縮めなきゃいけないんだよ」

 と優菜が呆れている。隼人も全面的に賛同のご様子。

 そこで、会議室の戸が激しく開かれた!

「あ ん た は 本 当 に 水 臭 い 奴 だ よ !!」

「小 学 生 の 時 か ら ず っ と な あ !!」

「ぎゃああああああああああああああああああああああああああ!!」

 横浜支部からのカンパを持って、千早と圭がやってきたのだ。またこめかみを抉られる隼人の惨状を見て、今さらながら可哀想になったのか、優菜がそっと口を出した。

「あの、それもうあたしらがやったから……」

「腐れ縁からの追加だ!」

「痛い痛い痛い割れる割れる割れるって!」

 涙目になった優奈を不憫に思ったのか、千早と圭はようやく折檻を止めてくれた。魂が抜けかけた隼人を見下ろして、千早がちょっと怒ったような口調で尋ねた。

「まったく……行ったの? 鬼婆の所」

「ああ、親父と一緒に行ったよ」

 圭から以前聞いていた、隼人兄妹の義母のことだろう。びた一文出す気は無いというある意味の清々しさに、乾いた笑いしか出ない。

 隼人に問われて、千早はここにいたる経緯を説明した。

 なごみとお昼ご飯を一緒に食べようと朝から電話しても、電源が切られたまま変わらないことに不審を覚えた千早が自宅を訪問したところ、向かいの住人からくるみが前夜に救急搬送されたことを教えてもらったそうだ。

 そこまで説明して千早は素早く隼人に指を突きつけた。

「なごみちゃんを責めちゃだめ。いい?」

 不服げな隼人の胸ぐらを、千早を押しのけた圭が掴む。

「いい加減にしろ。なごみちゃんがお前のせいでどんだけ苦しんでたと思ってんだ。お前のポリシーに他人を巻き込むな。お前一人で抱いて死ね」

「隼人君、その右手どしたん?」

 千早と圭に遅れて再入室してきた美紀が目ざとく見つけて、彼の右手を取った。自然に圭は押しのけられる形となる。彼女は意図を汲んだのだろう、にやりと笑って少し離れたイスに座り、缶コーヒーのプルタブを開けた。

「ああこれ? 真吾を教育してやったんだ」

 誰かと問えば、義母の実子と千早が教えてくれた。その眉間に雷が走ったように見えたのは、真紀の気のせいではなかった。

「実家から帰るときに部屋から出てきてな、『20万払うから、退院したらなごみとくるみを寄越せ』ってぬかしやがったから、俺と親父で教育してやったんだ」

「よし、よくやった。それだけは褒めてあげる」

 千早が真顔で隼人の肩に手を置いてねぎらった。どうやら難有りの人物と推定する間もなく、

 メキャメキャメキャ!

 みんなで一斉に振り向くと、激怒の相も顕わに、圭が飲み干したコーヒーの空き缶をイワしていた。

「あ の ク ソ ガ キ……今度見つけたら素ッ首捻じ切ってくれるぞ!!」

 とりあえずの身代わりとして、真っ二つに捻じ切られていくスチール缶が哀れを誘う。

「さすが強力ごうりきゼフちゃんだな……」

「ああ、あいつにはたかれると、1週間は手形が消えないんだ」

 優菜と隼人のやり取りを見ながら、千早がなにげなく机上から拾い上げた1通の封筒。それを見たとたん、彼女はいきなりのけぞってしまった。

「どうした? チハヤっち」

「こ、これ……」

 震える封筒の表書き。それは意外と達筆な、

『受験料』

「うわああああああああああ!」

「ちょ、ちょっと! なんでそんなものもらってくるのよ!」

「いや、使ってってなごみに押し付けられて……」

「だめじゃん!」

「ああもう戻して戻して!」

「あかん……思ってた以上にカツカツやった……」

 もちろん、このお金があったからといって目標額には遠く及ばないのだが。

 美紀がスマホを取り出した。

「よし、売ろう」「せやな」

「? 何を売るんだ?」

「杉木」

「ちょっと待て」

 優菜が『こいつらは……』という顔をした。

「こんな時に冗談言ってる場合じゃないだろ」

「「マジバナやで?」」

 ユニゾンのあと、美紀が説明を試みた。

「高槻にウチらの伯母がおってな、手広く商ってんのよ。雑貨とか食料品とか奴隷とか」

 さっき美紀にかかってきた電話。あれは『連れて来てもらえれば、即金も可』と言う内容だったと説明したのだが、

「でもやっぱり、冗談、だよね?」と千早にヒクつかれ、

「しれっとダークネスな商品を混ぜないでよ」と理佐に眉をひそめられ、

「なんでお前らのご親戚は揃いも揃って暗黒仕様なんだよ……」

 と優菜に呆れられてしまった。

「残りは学生ローンか……」

「いやいや、そんなに素早く振り込まれないよ? あれ」

「あ、そうか……」

 などと残された手段を話し合っているうち、真打登場である。

「御苦労様。みんな集まってるわね」

 支部長が、西東京支部の残りのスタッフたちからのカンパを立て替えて、持ってきてくれたのだ。

 改めて立ち上がって、みんなにお礼を言う隼人だったが、まだまだ足りない。真紀たちは頭を抱えたが、支部長にはまだ奥の手があった。

「もしもし、例の件ですけど――」

 おもむろに電話をかけた先は、会長だった。

「――はい、分かりました。立て替えておきますね。――え? ああはいはい、ちゃんと伝えますから」

 通話を終えて、

「残額プラスアルファ、貸してくれるそうよ」

「ありがとうございます!」

 勢いよく立ち上がって、携帯を握り締めて隼人が会議室を出て行く。病院、義父、くるみ。連絡を取るべき箇所に速報を入れるために。

 それを見送って、るいがハスキーな声を上げた。

「つか、貸しですか。キビシィー」

 みんなで笑って、会長からの伝言はなんだったのかと訊くと、悪戯っぽい顔をされた。

「カラダで返してね、だって」

 なんともいえない顔を仲間としていると、早くも連絡を追えた隼人が戻ってきた。イスにどっかと腰を下ろして、長い息を吐く。会長の伝言を聞いても、

「ボランティアがんばれってことだろ?」と意に介さない。

「ほらここで、優菜ちゃんの倍々プッシュのお時間やで?」

 そうからかってすぐ、真紀は美紀を凝視した。ユニゾンに乗ってこないのだ。少し遠くから一同を眺めて、微笑んでいるだけ。これはもしや……

「なんであたしなんだよ!」

「そりゃ、ねぇ」とるいが乗ってきた。

「会長を上回る額を払えば、隼人君にカラダで返してもらえゲフッ――」

 真っ赤になった優菜にボディーブローを決められ、吹き出するい。でもやめない。

「ゲフゲフ、隼人君を自由にできるんだもん」

 聞いて理佐が唇をわななかせたが、言葉にならずじっとりとうなだれてしまった。

(わたしがするって言おうとしたんやな。で、隼人君に切り捨てられるのが怖くて止めた、と)

 ここで美紀が乗り出してきた。笑顔でこう切り出す。

「まあまあ、会長の事はおいといて、一人一つはさすがに無理だろうけど、みんなで一つくらいなら、お願いを聞いてくれてもええんちゃう?」

 美紀が何を言いたいのか、真紀には分かる。そのための双子である。

(ほんまにお人よしやな。ま、それでこそ美紀やけど)

「あたしは別にそんなつもりで……」と言いよどむ優菜。

「るいはいいよ」と笑って身構える天邪鬼。混ぜっ返す気満々に見える。

 じっとりジトジト、目を伏せてしまった理佐。

 支部長、千早、圭は黙って微笑んでいる。

 美紀は一同をくるりと見回すと、腰を曲げて隼人に顔を近づけた。

「理佐ちゃんを名前で呼んであげて」

 虚を突かれたのだろう、驚きで眼を見張る隼人に、美紀は続けた。

「隼人君の過去とか考え方に干渉する気はないの。でも、それでみんなギスギスしてんのよ。ウチそういうの、ヤなの。もう止めて」

 言われた隼人は目を閉じて考えていた、が、それは彼自身が納得するために必要な儀式だったのだろう。程なく眼を開けると、うなずいた。

「分かった」

「さ、ご意見は?」

 誰も、微笑むだけで何も言わない。るいですら、うんうんとうなずいている。

「ほな、そういうことで」

 美紀の笑顔で、場は締めくくられた。

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