第10章 その先につながる未来6
1.
走る。暗闇の中を、どこへともなく。ひたすら、走る。
「蒼也君、どこ?」
なぜ、蒼也の名を呼ぶのだろう。呼ぶのなら、長壁順次郎であるべきなのに。
そう思って口を開こうとするが、声が出ない。
誰もいない、何もない。
それでも走り続けて、どれくらい経ったろうか。ようやく目の前に、蒼也と木乃葉の姿が見えてきた。手をしっかりとつないで、微笑みあっている2人。
その睦まじき姿を見て、沙耶の感情は沸騰した。
ぶち壊してやる。
その激情を足に乗せて、突進する。いつの間にか披露宴の時のウェディングドレス姿になって、満面の笑みを浮かべる木乃葉目がけて。その姿が、まさにぶつかろうとする瞬間、ふっと掻き消えた。
突き抜けた先、そこは、まさに漆黒の穴だった。体に浮遊感など無く、しかし頭からではなく飛び込んだ姿勢のまま落ちてゆく感覚だけが永遠に、永遠に――
跳ね起きて、額に滲んだ脂汗を手の甲で拭った時、沙耶の頬を涙がつたった。
同じ布団で眠る美玖を起こさないように、しかしすすり泣きも交えながらつぶやかずにはいられない。
「どうして……どうして今ごろ……今さら……」
小さな部屋の中では、琴音と鈴香、美玖が寝ていた。大会議室ではキャパシティが足りず、申し訳なさそうな優菜に導かれてここに寝たのだ。
扉の鍵をそっと開けて、のっそりと抜け出す。外し忘れた腕時計は、6時少し過ぎを指していた。さすがに死んだように静かな屋内をゆっくりと歩き、洗面所にたどり着いて、沙耶は顔を洗った。
頭の中は、さっきまで見ていた悪夢のことで占められている。また鈍行を再開して、あてどもなくたどり着いたのは、
「屋上、か……」
早朝の空気を吸う。それもいいかもしれない。
出入口から出てみると、10月の朝陽と空気の清涼さが彼女の目を覚まさせてくれた。だが、あの悪夢が残した悪寒まで澄ましてはくれない。
なんで、あんな夢を。
あの日から、一度も見たことが無かったのに。
ウェディングドレスなんて。
「木乃葉、きれいだったな……」
ただそれだけが、あの狂おしくも寂しい2年間で得た果実だった。
あれを見られたから、覚悟ができたのだ。
これで、現世を滅してもなにも悔いはないと。
……じっと、両手のひらを見つめる。
何の変哲もない、24歳の女の手。この手に、ああやって取りあえる手を与えてくれる男の人は、そんな日は――
「おはよーございまーす」
いつの間にか屋上の中ほどまで来ていた沙耶の背中に投げかけられた、男の人の声。びくっと震えて振り向くと、
「あ! ああ、神谷君おはよう」
隼人が不思議そうな、でもどことなく嬉しそうな顔で近づいてきた。こんな気分でも、素早くかつさりげなく身支度をチェックする自分がいて、沙耶は苦笑した。
「どうかしましたか?」
「なんでもないわ」
そう言って、また朝陽のほうを見やる。隼人も並んできた。そのまま早朝の色に染まるビル群を見ながら、隼人が口を開いた。
「早いっすね」
「あ、ああ、うん。ちょっと、早く目が覚めたら頭が冴えてきちゃって」
嘘をつく。あんなこと、話せるわけがない。沙耶は切り返した。
「神谷君こそ、早起きね」
「ええ、まあ。あのまま控室の床で寝てたら、体が痛くって起きちゃいました」
思わず彼の顔を見上げて、眼を見開いた。
「え?! まさか、ずっとあのまま寝てたの?」
「ええ、まあ」
夜中に一度目を覚ましたのだが、男性用仮眠室が女性に開放されているのを思い出して、動くのが億劫にもなって、そのまままた寝てしまったのだという。
苦笑しかけたが、昨夜の幕切れを思い出して、
「ねえ、いつもあんな暴力振るわれてるの?」と訊いてみた。
「いやそうでも……あ、でも、別れてからひどくなったような……」
「そ、そう、お付き合いしてたんだ……」
唐突に、思い出す。昨夜の暴力で途切れてしまった話の、その続きを。沙耶はそっと切り出してみた。
「じゃあ、今はフリーなの?」
「ええ、まあ」
隼人は少し驚いたようだが、すぐ微笑んでくれた。俄然勢い込んで、二の矢を放つ。
「じゃあ、琴音ちゃんとか鈴香ちゃん、どうかな? かわいいでしょ?」
沙耶の(この手の会話が不得手な彼女なりの精一杯の)笑顔を、隼人は小首を傾げて見返してきた。
「いや、沙耶さんが一番可愛いと思いますけど」
彼女の脳が奇襲に必死で対応することたっぷり5秒。それが沸騰するのには、1ナノ秒も必要なかった。
「んもぅ、上手ね」
恥ずかしくて、でも嬉しくて。その結果の赤面を隠すための無難な返しで、彼の上腕を軽くはたいた――はずだった。
しかし、彼女は忘れていた。まだ力の制御に関するブランクから回復していないことを。
彼の身体が真横に弾け跳ぶ! 等加速度運動でもしているかのように勢いが落ちず、哀れにも屋上出入り口の鉄製扉に叩き付けられた。
轟音に続いてくぐもった叫びを上げる羽目になった隼人を見て、
「ご、ごめんなさい!!」
慌てて駈け寄ろうとした沙耶は、3歩ほど走ったところでがくんとつんのめった。何かの配管に足を取られたのだ。
だが大丈夫、なんとか立て直せる――
「危ない!」
隼人の声がした次の瞬間、彼女の顔はゴムのような弾力の壁にぶつかった。いや違う、ゴムはこんなに温かくないし、汗の匂いもしない。それに、彼女の背中に腕を回してその身体を抱きしめているのは、
「ふぅ、転ぶところでしたね沙耶さん」
隼人だった。心底から安堵している笑顔に、無理に微笑を返そうとして、すぐにまた脳が機能停止する。男の人に抱きとめられている、という想定外の出来事だけではない。
見下ろしてくる彼の顔が、近いのだ。その真っ直ぐな瞳が、いつまでも彼女を見つめてきて――
ゴンゴン
「おはようございまーす」
「いやあ、朝からオアツイこって」
「小森さん、オッサンくさいですそれ」
「屋上出入口を抜けると、そこはラブフィールドやった」
「朝の底が桃色になったわけやね」
「朝っぱらからニューカマーにさっそく粉をかけてるとは……」
出入口の扉をノック代わりに叩いて、てんでに冷やかし始める女の子たち。それを見て、隼人が切り返した。
「なに言ってんだ、沙耶さんがそこでけつまずいて転びそうだったから、助けただけだっつうの」
言いながら、ぎゅっ、と抱く腕に力を込められて、沙耶は遂に言語障害を発症する羽目に陥った。
「かかかかかかかかみやくん!?」
その素っ頓狂さに、ようやく彼は事態を認識したようだ。と思ったのに。
「あ、苦しかったですか?」
腕の力こそ緩めてくれたものの、なぜかそれが一抹の寂しさを生む。だから、まだ顔の火照りが鎮まらない沙耶は彼の顔を見上げてただ首を振るだけだった。
そしてまた、さえずりが聞こえ始める。
「あれ、素でやってんだぜ」
「マジっすか……」
「さすが人類の半分の敵ナンバーワン、だね!」
「ハーレム体質って、ただ寄ってくるだけじゃなくて、自分で捕獲もするんだ……」
そこへ、琴音が上がってきた。
「おはようございます。さっきのすごい音、なんですか?」
その目が沙耶を捉え、たちまち三日月型に曲がった。
「ち、違うの! これは、そこでつまずいて、そしたら……」
「え?! つまずいたんですか?」
琴音は近づいてくると、心配げな表情に変わった。
「沙耶様、どこかお加減が悪いんじゃ……」
「なんで?」と首をかしげる隼人に、
「普通、沙耶様がぶつかったものは壊れるんです。それなのに……」と眉をひそめる琴音。
「……ダンプみたいな人だね」
沙耶の体からようやく腕を解いて、呆れるみんなのほうへ隼人は向かうと、腹減ったと言い出した。
「あ! 外出禁止令が出てるじゃんそういえば。食堂のおばちゃん、来られないんじゃないの?」
圭の指摘に愕然とする隼人を見て、琴音がくすりとした。
「大丈夫、鷹取傘下の仕出し業者に指示して、お弁当を配達してもらってます」
今朝配達予定だったお弁当が、外出禁止令でキャンセルとなったため、こちらに融通してもらったとのこと。
ものすごく安堵した表情の隼人を見て笑いかけ、
「さすが琴音ちゃん、速いわね」
沙耶の褒め言葉にみんなが乗っかって、照れる琴音。いつもお澄まし顔が多い彼女には珍しい事態に笑うと、可愛く拗ねられた。
「それで、さっきのすごい音はなんだったんです?」
「それがさ――」と解説を始める隼人。慌てて止めようとしたが、遅かった。
「沙耶さんは可愛いですって言ったら、バーンってぶっ飛ばされて」
「ち、ち、違うの!!」
琴音の面白げな眼も、『あおぞら』メンバーの隼人に向けた『こいつは……』という眼も、彼女の心を炙る。
「私はちゃんと訊いたんだから! 琴音ちゃんも鈴香ちゃんもかわいいでしょって――」
大失敗。沙耶の脳裏にその三文字が浮かぶ。
「良かったですね沙耶様、かわいいって言ってもらえて。わたしよりも」
ニヤニヤが止まらない琴音にしどろもどろで言い訳を繰り返す。でも、
(なんか、昨日の夜とだいぶ違うような……)
(別人? なわけないよね)
「そんなわけないじゃない! に、苦手なのよ、こういう――琴音ちゃん」
サラサラ
「はい?」
「メモるな!」
黄色い革の手帳をさっとしまって階段を降りていく琴音を追う。みんなもつられて一団となって降りて行ったところへ、
「おはよう、ございます……」
理佐がいた。ものすごく眠たげだ。
「珍しいね理佐、めっちゃ早起きじゃん」
るいが声を上げ、理佐がやっぱり眠たげに答えた。
「さっきのすごい音で起きちゃったのよ……なにあれ?」
「「隼人君が沙耶さんにちょっかいかけてぶっ飛ばされた音やで」」
双子の言動にギクリとする。完全に声が揃っているというのもそうだが、話題がまた屋上での出来事をぶり返されているわけで。
ぼけっとユニゾンを眺めていた理佐の眼に、急に光が宿った。そして、ツカツカと歩み寄ってくると、いきなり隼人の胸倉を掴んだのだ!
「あなたって人は……っ」
沙耶は目の前の緊迫よりも、周囲の反応に驚いていた。自分のことでもないのにアワアワしだした琴音を除けば、みな『またやってるよ』程度の反応しかしてないのだ。
そして隼人の反応も、彼女の意表を突いた。にっこり笑いながら理佐の手を器用に外して、
「今日は朝からプンプンだね、島崎さん」
「な、名前で呼ぶって約束したじゃない……」
涙目になった理佐に言いわけをしなければいけない気になって、沙耶は上ずった声を出した。
「別に何もなかったんだってば。ほんとよ?」
「とかなんとか言いながら――」
沙耶たちだけでなくサポートの人たちもやって来て、混み合う食堂。対面に座った理佐の厳しい眼が、沙耶を見すえる。
「ちゃっかり隼人君の隣に座ってるのはどうしてなんですか?」
「お弁当を取って順番に座っただけじゃない。他意はないってば」
理佐がカリカリしている理由は、琴音と千早のヒソヒソ話で解答が得られた。
(あの人はなんでイチイチ突っかかってくるんですか?)
(モトカノなんだよ。このあいだ喧嘩別れしたんだけど、未練タラタラでさ)
「モトじゃない!」
「あーはいはいモトじゃないねマエだね、島崎さん」
……理佐はなぜ、名字で呼ばれるのを嫌がるのだろう。そしてなぜみんな、明らかに面白がって名字で呼ぶのだろう。珍名・奇名の類でもないのに。
こういう場面に慣れていないのだろうか、祐希が少し青い顔で話題を振ってきた。
「そういえば、ほかの2人はどうされたんですか?」
「体調不良で寝てるわ」
「ああ、あそこの部屋、空調のセンサーが壊れてますもんね。暑かったんじゃないですか?」
永田が心配そうに問いかけてくるが、手を振って否定した。
「昨日、力を使ったからその影響で体調がすぐれないだけよ」
「貴血限界ってやつですか」と横から隼人に言われてうなずく。
「沙耶さんや琴音ちゃんは大丈夫なの?」
「わたしはちょっぴり頭の隅が重いかな、くらいです」と琴音が笑い、
「私は大したことしてないから、特にないわ」と沙耶も言い添えた。
「あれは大したことじゃないんですか……」
「ほんと、ボクたちいらないよね……」
などと会話をしながらお弁当をいただくこと5分ほど、食堂の扉がゆっくり開いて、顔色の悪い鈴香と美玖がのっそりと入ってきた。いかにも体調が悪そうに溜め息をつきつき、ペタ、ペタ、と歩く2人を、いや鈴香を見て、琴音が椅子を蹴立てんばかりに立ち上がった。
「ちょ、ちょっと鈴香!」
「ん~なぁに~」
「ズボン! ズボン!」
親友の必死の指摘は、結果的に裏目に出た。食堂にいた全員の視線が、鈴香の下半身に集中したのだ。ズボンを履き忘れてかわいい下着が丸見えの、鈴香のむっちりしたそれが。
気づいた鈴香の絶叫が、食堂のガラスを盛大に震わせた。
5分後。
「ううう――うわああああああもうお嫁に行けない!!」
貴血限界すら凌駕した俊足で部屋に戻って身支度を整え直した鈴香が、よせばいいのに舞い戻ってきて早々琴音の隣で机に突っ伏した。
絶叫を受けて、琴音はにっこり。
「というわけで隼人さん。責任、取ってくださいね?」
「なぜ俺」
「そうよ! 隼人君関係ないじゃない!」
隼人の唖然と理佐のフォローを受けて立って、琴音はいたって真顔で反論した。
「えーだって隼人さん、8月20日に『ヴィオレット』で鈴香の胸チラ見て、鼻の下伸ばしてましたよね?」
「あの手帳はそーやって使うんだ……」「タチ悪いなぁおい……」
まったく同感だ。
「ああ、亜子が言ってた、隼人君が仲良くしてるお客さんって、琴音ちゃんたちのことだったんだ」
「仲良くっつーか、前話したよね? チンピラに俺の原付投げつけて追っ払ったお嬢様の話」
「……そんなことしてたの?」
るいと隼人の会話を聞きとがめて、琴音に振る。
「投げつけたのは、道路にですよ」
「投げたことは否定しないんだ……」
掛け合いをしながら、ちらりと横目。隼人は屈託なく理佐や優菜としゃべっている。さっきの胸チラがどうとかなど、まったく気にしていない様子。
(意外と慣れてるのね……)
そう思いながら弁当の残りを食べ終わると、沙耶は青白い顔の姪に優しく語りかけた。
「人参は残さず食べなさいね」
炊き込みご飯の具を丁寧により分けているのを見咎めたのだ。うなる美玖をどう諭そうか考えていると、横から優しげな声が飛んできた。
「美玖ちゃん、人参をちゃんと食べると、このおねーさんみたいにキレイになれるぞ」
「そうよ」と理佐も調子を合わせる。
「ビタミンAをいっぱい取れるんだもの。それに火が通ってるから、カロテンの吸収率が段違いにいいわ」
そう言って上品な手つきで食べる理佐を見て、美玖はじっと目の前の人参を見つめた。箸で恐る恐るつまんだあと、ぎゅっと眼をつぶって口に放り込む。
(険悪なのかと思ったら、意外と普通に会話してるじゃない)
隼人をちらりとだけ見つめて、美玖のことは偉い偉いと褒めていると、食堂の戸が開いて、
「失礼します」
とキビキビした声のあと、庭師頭を先頭に庭師が6名入ってきた。一斉に敬礼をするさまに、『あおぞら』の面々は驚いている。
「ああ、来たわね」
立ち上がって答礼し、歩み寄った。振り向いて、初対面の人々に紹介する。
「うちの庭師に来てもらいました。で、庭師頭の岩政さんよ」
「岩政です。よろしくお願いします」
「にわしがしら……?」
琴音がいぶかるスタッフたちに説明した。鷹取や海原の屋敷と家人を警護する職種を『庭師』と呼称していること。そして岩政はその頭なのだと。
「今からみんなに、一時帰宅してもらうわ」
「外出禁止令が出てるのにですか?」
「だからよ」と返して、説明する。
今日一日で決着がつかない場合を想定して、各自の着替えその他生活用品を取りにいってもらうのだと。
「4班に分かれて行ってもらうから、大体同じ地域の人で固まってもらえないかしら」
沙耶の言葉に合わせて、女性の庭師が4名、頭を下げると少し前へ進み出た。
「あの、僕たちも混ざればいいですか?」
「いえ、男性は2人だけだし、岩政さんが送っていけばいいわね?」
庭師頭の首肯に微笑んで、そこへ異議が申し立てられた。鈴香だ。
「沙耶様、男性は3人ですよ?」
サポートに2人しか……あれ?
「もういやだ……」
「「まあまあ、そういう日もあるって」」
「そんな日ばっかりなんだが……」
両手に顔を埋めて、泣いているようにしか見えない隼人。双子がいつの間にやら彼の肩に取り付いて慰めている。
「おかしいわね……」
横に並んで座っていた時には、確かに"男子"として認識していたのに。
だが、そんなことには頓着していられない。今日は忙しいのだ。
沙耶は一時帰宅の指揮を岩政に任せると、彼から参謀部がまとめた現況のレポートを受け取った。
2.
圭が細かい牽制を繰り返す。るいがその隙を突いて、相手の利き腕でないほうへ回り込もうとステップする。
だが、相手は動じない。『んじゃ、ちょっとやってみようか、学生さん?』と言ってきた時の薄笑いのままだ。その体が、不意に縮んだ。
いや、身を前傾して突進したのだ! 標的は、ステップをついたばかりのるい。慌てて左フックを放つが、腕で耳の辺りをがっちりガードされていて通じない。と、
「うわっ!」
相手の上半身が急に跳ね上がった! 圭が相手の顔目がけて、サッカーキックを思い切り放ったのだ。
「くそ、ガードされた!」「サンキュー圭ちゃん!」
「いい蹴りだね。まだビリビリしてるよ腕」
感嘆の口笛まで吹いて褒められても、ちっとも嬉しくない。ここに至るまでに、圭もるいも痛打を幾つも食らっているのだ。スパーリング用グローブ越しとはいえ、それは腕に自信のある2人にとってはいろいろな意味で痛撃である。
ここで、観戦していた庭師の腕時計からアラームが鳴った。3分が、まさにあっという間に流れたという実感しか湧かない。
「ふう、お疲れ様」「ありがとうございました」「っした!」
ヘッドギアを取って、女性庭師の大久保がにっこりとする。
「やっぱ実戦慣れしてる子は違うね。うちの新人だったら、初っ端のコンビネーションで吹っ飛んでるな」
「……つまり、大久保さんは実戦慣れしてると?」
「ま、ね」
るいのちょっと不機嫌そうな問いも、大久保は意に介さない様子。
「だてに32年生きてないから」
「……干支が一回り上の人に負けた」「やめろるいちゃん、よけい惨めになるから」
昼下がり。スタッフはみんな夜の作戦行動に備えてお昼寝したり、寝るまではいかなくとものんびりしている。そんな中、圭はるいから聞いた話に、大いに興味をそそられたのだ。
『庭師の仕事の一つに、妖魔との戦闘がある』
そこでお昼ご飯がこなれてから、庭師の溜まり場に行って声を掛けたのだ。ちょっと、お手合わせいただけませんかと。
「それにしても――」と圭は外したばかりのグローブを見つめる。
「まさか、スパーリング用具一式を持ち歩いているなんて」
大久保ではなく別の女性庭師が笑って、答えてくれた。
「戦う女の子がいっぱいいるって聞いてきたからね。もしかしてこういうこともあるかな、と思ってさ」
「ちぇ、読まれっぱなしじゃん」
そこでふくれるのが、彼女が仲間から天邪鬼呼ばわりされる由縁だな。圭は礼を言ってポタリスウェットを受け取ると、開栓した。
大久保が自分のをごくりと飲むと、少し勢い込んで前に身を乗り出してくる。
「で、どう? うちの試験、受けてみる気無い?」
「あ、やっぱ負けたから、試験からですよね」
そう、スパーリング開始前に、大久保に言われたのだ。『あたしに勝ったら、うちに就職斡旋してあげる』って。来年に就活を控えている身である2人としては、聞き逃せないひとことであったのだ。
「まあ、試験ってもなあ」
とこれまた別の男性庭師。スパーリングの音を聞いて駆けつけてきた人だ。
「一般常識の筆記のほかは、体力測定だけだからな。それも自衛隊さんのより低い基準だし」
「ちょっと、面接もあるじゃないですか」と大久保が反論するが、
「この子たちは、そこは大丈夫だろ? そう聞いてるぜ?」
「え? 誰からですか?」
誰がそんな話をもうしているのだろう。
「琴音様だよ。『昨夜、うちのお仕事の話をしました。誰一人拒否反応が出ません』ってわざわざ言いに来られたぜ」
「……つまり、狙われてる?」「なんでそうなるんだよ」
「ま、あながち間違いじゃないね」
腕時計のアラームをいじりながら、女性庭師が笑った。
「鷹取の話を聞いて拒否反応が無いって、貴重な人材さ」
そんなにひどいのかと聞くと、筆記と体力テストをパスした2次試験受験者が、その理由だけで3分の2以上脱落するそうだ。疫病神の工作というやつか、と昨夜の説明を思い出した。
「なんかなぁ……」
「分かるよ、るいちゃん」
と圭はあえて口を挟む。そして、事情を知らない庭師たちに説明した。
「先回りされてるのが気に入らないってことですよ。そういう人なんで」
「先回りっつーかさ、るいの知らないあいだにレールが引かれてるのが嫌な感じなだけだよ」
「まあいいんじゃない」と大久保は笑う。
「就職大変でしょ? 選択肢の一つとしてどう?ってだけだから」
「もう財閥系には就職できないしな」
ふーん……え?
「それはどういう意味ですか?」
説明を聞いて、呆然となる。鷹取一族のポリシーで『一族の知人友人を企業に採用しない、登用しない』というものがあるのだと。そして唯一の例外が、庭師の採用なのだと。
「じゃ、じゃあ、ボクたちだけじゃなくて……みんな……」
親族寄合の席で審査のうえ認められれば特例はあると言われても、
「それはよっぽど才能が無いとね。何かに特化した」
「主任参謀さん姉妹とかな」
例えがさっぱり分からないが、この就職難に倍率ドンされる事態に、るいと圭は別れの挨拶もそこそこに、仲間たちのところへすっ飛んで行った。
3.
「そんなことがあったんですか……」
昼下がりのスタッフ控え室。琴音と鈴香は、隼人と理佐とのあいだに何があったのか、千早と優菜から聞き込みをしていた。正確には、しゃべりたくてウズウズしている千早が優菜の制止を振り切って、鈴香が興味を示したのを幸いとしゃべり倒したのだ。
さらさらと手帳にメモを取りながら、琴音は心中密かに舌を巻く。『ヴィオレット』での隼人とのやりとりは、朗らかで楽しいものだった。そんな彼の深奥に、そんな激しい掟と自律があったなんて。
(店員さんとお客だから当たり前、といえばそうだけど)
仮面を外した素顔をのぞき見しているような感覚に、琴音は心が踊る。人は、複雑じゃないとつまらない。
「ま、そういうわけで、あいつは今フリーってわけさ。どう? 鈴香ちゃん」
「素敵……」
メモをようやくまとめ終わって顔を上げると、親友の驚愕した顔を拝むことができた。同じくまばたきすらしない先輩2人も。
「? どうしたんですか?」
「琴音ちゃん、よしなよ」
千早の手が、肩に置かれた。その表情はこちらが息を飲むほど真剣そのものである。
「あんな裏切り者、手ェ出しても傷つくだけだぜ」
「え? え?! ななななんでわたしがそんな――」
「琴音、あんた今『素敵』って言ったじゃん」
鈴香の眼は、驚愕から変色して愉快そう。
「違いますそうじゃなくて、その……といいますか、『裏切り者』ってどういうことですか?」
問われて、千早の顔が『ケッ』と言わんばかりになった。
「ライバーファンの風上にも置けない奴ってことさ。エストレに魂売ってピカピカ光線出して喜んでんだぜ?」
「極論なような、分からないでもないような……」
鈴香と2人して顔を見合わせていると、視界の端で何かが振られたのに気づいた。優菜の血色の良いきれいな手だ。違う違うというジェスチャーに見える。
「チハヤっちはね、鏡に向かって吼えてんだよ」
鏡?
「自分が隼人を裏切って捨てたことに負い目を感じてるから、エストレのことにかこつけてあいつにヘイト投げつけてるだけなんだよ。な?」
「そんなんじゃないもん!」
とむくれてそっぽを向いてしまった千早の表情など、もはや見ている余裕は琴音たちには存在しない。
「あ、あの、それはいったい……」
「チハヤっちはね、ずぶずぶの腐れ縁なんだよ。中・高の時3回、くっついて離れてを繰り返してんの」
人は、予想外のことに出くわした時の言動で地が出るものである。琴音は「うわあ……」、鈴香は「げ」のひとことであった。
言葉を失った鈴香に構わず、琴音は踏み込んだ。暴露話をして憮然とした表情の優菜ではなく、それを横目でチラチラ見やる当人に。
「そんなに何回もお付き合いできるって、何がポイントだったんですか?」
「そりゃあ、まあ……」と少し言いよどんだ千早が、顔を近づけてくる。
「琴音ちゃん?」
「はい?」
「すごく失礼なこと聞くけど、男と付き合ったことある?」
「いえ、ないですけど」
そっかぁ、と直って、今度は優菜に肩を軽くぶつけるモトカノ。その表情はニヤけている。
「優菜ちゃんなら分かるよね? あいつと一夜を共に過ごしてるわけだし」
「ヤッ て な い ってんだろ! つか、もう止めろ!」
語気が荒くなった優菜――パッと見おしとやかなお嬢様風の外見なのに、男口調で最初は驚いたのだが――は、千早の肩をつかんだ。が、千早も負けてない。
「なにさ、他人の暴露話しといて――「だ か ら」
優菜があごをしゃくった先には、
「美玖ちゃん?! いつからそこに?」
小学2年生が眼をキラキラさせて、両手を胸の前に組んで立っていた。キラキラのまま、その小さな口が開かれる。
「あ、お邪魔ですね。消えます消えます」
そそくさと美玖は出口へと向かった。そして出口脇に設置されている冷蔵庫の陰に腰を下ろすと、
「さ、消えました」
「バッチリ聞こえてるよね会話?!」
琴音は笑って、千早たちにとりなすことにした。
「昨日の夜からずっとあんな感じなんですよ。『大人の女の人がいっぱい!!』って」
「……おませにもホドがあるな、おい」と優菜が苦笑して、
「つかさ、家に大人がいないの?」
両親と祖母、叔母である沙耶のほかに執事や召使、庭師もいるが、
「家族以外は使用人ですから、あんまり交流が無いというか、プライベートな話はやっぱり……」
「小学2年生ですからね」と鈴香も口を揃えてくれた。
「その小2を戦場に連れてくるって、いったい……」
千早の問いに、あらかじめ用意した答えを返す。
「実戦経験を得る、またとない機会だからです。美玖ちゃんは沙耶様の次の総領様。一番後ろで座ってるだけのお飾りではいられないんです」
大変なんだな美玖ちゃんも、と納得した態の千早と優菜を見ながら、先日の打ち合わせの情景を思い出す。美玖をここへ連れて来た、もう一つの理由を。それは、かの美貌の主任参謀から切り出されたのだ。
『この機会に、あおぞらを当家の下部組織として吸収したく思います』と。
そうすれば、夜間の妖魔討伐を補助する組織としてあおぞらを使え、巫女たちの負担が減る。彼女たちの幾人かが持つ治癒スキルも魅力的である。
『そのために、美玖様を先遣隊に加えていただきたいのです』
驚く総領や沙耶を前に、主任参謀は説明を続けた。
先遣隊のメンバーは、事実上の次期総領である沙耶、海原本家次期当主の琴音、蔵之浦家当主たる鈴香である。これに加えて、美玖は次の次に総領になる身なのだから、『あおぞら』に顔見せをしておくのは10年後、20年後を見すえた処置なのだと説いたのだ。
気が付けば、千早たちがこちらを見つめている。ごまかすための切り返し、開始だ。
「それで、優菜さん?」
「なに?」
「ヤッてないって、どういう――」
琴音の追及は、廊下から聞こえてきた足音で遮られた。ほどなく扉が開けられて、真紀と美紀が飛び込んでくる。
「一大事やで!」「いたな、鈴香ちゃん!」
「ミキマキちゃん、一大事のほうか鈴香ちゃんの用か、どっちか先に話してよ」
千早がたしなめた時、扉がまた開いて、人が大勢入ってきた。少し眠たげな隼人に、理佐、沙耶、北東京支部の面々、サポートの人たちがどやどやと雪崩れ込んでくる。
「「一緒や、一緒」」
言うなり、双子は涙目を怒らせた。
「「一大事やで!! 鈴香ちゃんにうちらのユニゾンが通用せえへんのよ!!」」
「……お前らはなにを言ってるんだ」
優菜の男口調がこれほど的確にこの場にフィットするとは。琴音は感嘆を禁じえない。それにもめげず、双子は言う。3回試して全滅なのだと。
「でね、ユニゾンの精度を上げたから再度挑戦だって叫んで廊下を走ってたのよ」
と理佐が苦笑い。隼人曰く、その大声で昼寝を起こされてしまったらしい。
「「いくで!」」
眼と眼を見合わせて大きくうなずくと、真紀と美紀はトーントーンと細かい跳躍を始めた。と見るやすぐに前後左右に動きの止まらぬかく乱が始まる。
鈴香以外は唖然とする中、たっぷり1分は動き続けただろうか。真紀と美紀は少し息を弾ませながら停止すると、
「「さあ、どや?」」
「……神谷君は見分けられるって聞いたけど?」と沙耶が見上げて訊いたが、
「いえ、俺とかゼミの人間は、日常会話とか仕草の微妙な違いで見分けてるんで、こうやってわざとやられると……」
「琴音ちゃんは? 眼で追えたでしょ?」
「あの、追えましたけど、そもそも真紀さんと美紀さんの区別がつかないです」
「「もちろん、色っぽいほうが真紀で、カワイイほうが美紀です」」
……どうしよう、さっぱり分からない。だが、
「だから、右が真紀さんで、左が美紀さんですってば」
様々な困惑の囁き声を圧して、鈴香の声が控室に響き渡った。
(あ、ちょっと怒ってる)
鈴香は、くどい人が嫌いである。体調不良がまだ治っていないのを差し引いても、その仏頂面は見間違えようがない。その彼女にしっかりと指差しまでされて、双子は敗北した。
床にへたり込んで両手に顔を埋め、シクシク泣き始める双子。それをフォローする隼人に、またてんでにしゃべり始めるスタッフたち。そこへ、るいと圭が飛び込んできた。
「みんな! 一大事だよ!」
「またかよ」
「また?」
るいたちのもたらした情報は、確かに彼女たちにとっては一大事。控室はしばらくのあいだ恐慌状態となったのであった。