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剣侠李白  作者: 古月
月影玉兎
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第四節 女神の思し召し

 壁面に始まった足跡の印は、そのまま天井へと延びている。蘭香はふっと息を吐き、それらの印を辿(たど)るように一歩一歩踏み進む。一年前の彼女なら三歩も続かなかったが、半年続けて半分を踏み抜き、今ではぐるりと廟内一周を駆け抜けられるようになっていた。

「……本当、何なのよ、あいつ」

 次に剣を抜いて型を演じつつ、吐き捨てるように呟いた。昼間あの話があってから、どうにも体調が優れない。胸元に何かが(つか)えたような、そんな感覚がある。座して内息を整えようとしても上手く行かず、やがてイライラと怒りが募り始めていた。そもそも、どんなに集中しようとしても昼間の出来事が思い出されて仕方ないのだ。鬱陶しいことこの上ない。

 ヒュン、ヒュン。剣筋も一年前とは比較にならないほど洗練されてきた。彼女自身にはその動きが見えないため元からできていたものと思い込んで疑わないが、何度も繰り返したそれらの動きはまさに原石が磨き抜かれて輝き出したようだった。

「明日が出発? 本当はあたしに黙って行くつもりだったんだわ。そんなの、人を莫迦にしてる! あたし一人だけ残していくなんて酷いじゃないの。謝ってよ! 絶対に許さないんだから!」

 怒りが剣を加速させる。しかし同時に、その動きに粗が出始めた。内力も制御しきれずに強風に煽られた水面のように荒れた。

(今日はダメだわ。もうやめよう)

 蘭香は剣を収め、ふうと息を吐いた。次いで持って来た荷物から紙と筆を取り出そうとして、ふと気づいた。

「そっか、もう要らないか……」

 写したところでもはや見せる相手はいない。最近は蘭香も壁の文を直に読み取って十分理解できるし、半月の間同じ物を眺めていればそのまま覚えることもできた。今後他人の意見を求めることがないなら、わざわざ書き取る必要もない。

 破れた壁の向こうで、雲が晴れ月が顔を出した。その形を見て、はっとした。今日は満月の日だったのだ。気が急いて何も考えずに早く来てしまったが、本来ならば壁画が描き変わるはずの日だったのだ。そうとは知らず、いつも通りに修練を始めてしまっていた。もう大分夜も更けてしまっている。もうしばらくしたら家に帰らなければいけない頃合いだ。

「まあ、明日になったら変わってるわよね」

 やってしまったことは仕方がない。荷物をまとめて帰ろうとした時、月光差し込む壁穴の向こうからガサゴソと物音が聞こえてきた。何事かと思った直後、人の声がした。

「早くしろ、こっちだ。この辺りにボロ寺があったはずだ」

「――!」

 蘭香は身を翻すなり、一足で祭壇の裏へと飛び込んだ。女神像は裏側が壊れてその空洞部分に身を潜められるようになっているのだ。それに遅れて数秒後、バンと荒々しく廟の戸が開かれた。

「ははっ、一年前と変わらねぇな。相変わらずぼろっちいぜ」

「ボロ寺が突然新築になっていたら驚くがな。祭壇の裏も調べて見ろよ。またガキが隠れていないとも限らん」

「まさか、二度も同じことがあるもんかよ」

 男たちの声を聞いて、蘭香は一年前の出来事を思い出した。まさかと思い神像の後ろからこっそりと覗き見れば、そこにいたのは確かに見知った顔だった。

 一方は背が高く肩幅も広い巨躯の男、右の頬には切り傷がある。対するもう一人は中肉中背で顔はびっしりと髭に覆われ、その中から切れ長の目が覗いていた。間違いない、一年前にもここで出会った悪党どもだ。まさかまたしてもこの場で出会うことになろうとは思いもしなかったことである。

 だが、蘭香を更に驚かせたのは彼らとの再会ではなく、巨漢がその肩に担いでいたそれだった。それは両手両足を縛られた人間であり、猿轡を噛まされたその顔も蘭香は良く知っていたのだ。

(――あいつ、なんで!?)

 少年は乱暴に床に落とされうめき声を上げる。既にそれは弱々しく、顔面には殴られた跡が見えた。邪魔な荷物を退けるように足蹴にされ壁際へと転がされる。男たちは向かい合って床に座った。ガシャン、中肉中背の方が肩に担いでいた麻袋を床に置く。

「しかし思わぬ収穫だったな。まさかこんな夜中にこんな大金と巡り会うとは。これだけのものをなんだってこいつは埋めようとしていたんだ?」

「知るかよ、そんなこと。だが良い拾いものだったことは確かだ。こいつも舌を抜いて、ついでに耳も潰してしまえば、あとは奴卑(ぬひ)として人買いに高く売れるだろうよ」

「おお、それなら当分は遊んで暮らせるな」

 二人は揃って笑い声を上げる。背筋の凍るような内容に、蘭香は恐怖と怒りを覚えた。彼らは悪だ。この世から消し去るべき邪悪だ。それが今、己の目の前で己の知る人物を傷つけようとしている!

(なんて奴らなの! でもこれはきっと、女神様があたしにお与えになられた試練なのだわ。あいつらをまず討ち取って、然る後に江湖へ出て正義を行えとの天啓に違いないわ)

 うんうんと一人勝手に納得しながら、しかし蘭香はその場から動こうとしない。実のところ、息をするだけでも精一杯、今の蘭香には指先すらまともに動かせなかった。それどころか嫌な寒気が全身を包み込んでいるようだ。なぜと問いながらも、その理由は痛いほどにわかっている。――とてつもなく恐ろしいのだ。あの男たちは討つべき悪だとわかっていても、だからこそその前に出て行くのが怖い。どれだけ自分が強いのだと思い込んでも、どれだけ才能があると信じても、所詮ただの凡人であることは彼女自身が一番良く知っていた。己がどれだけ弱く小さいのか知っているからこそ、強く大きくあろうと虚勢を張るのだ。

(わかってるわ。あいつらはためらいもなく人を殺せるような悪人だもの。下手に手向かいなんかすれば確実に殺される。それがわかってるから、一年前も見失ったのだと自分に言い聞かせて碌に後も追わなかった。でも、今度ばかりは見逃せないわ。だって、だって……)

 息が更に詰まる。内息が乱れる。気脈が逆流して今にも失神しそうなほどだ。むしろすんなり気を失えたらどれほど楽だろう。しかしそれに抗って、少女は己を叱咤した。

(あいつが……違う、あいつは関係ない。女神様があたしに行けと仰っているのだもの。従わないわけには行かないの。やらなきゃならないのよ。ここで行かずして何が武芸か。何が侠客か! あたしは強いんだ。英雄の素質があるんだ。この世を変える力を持っているんだ! 行け、蘭香――行け!)

 決断した、その瞬間。一転して全ての経穴が通い合い深淵から力が湧き上がる。息の乱れもなければ悪寒もなく、ましてや胸元の閊えなど微塵も残らない。神像の後ろから飛び出し祭壇の正面に降り立った。

「覚悟なさい悪党ども! 今日という今日は逃がさないわ!」

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