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剣侠李白  作者: 古月
戴天道士
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第四十一節 私は嫦娥

 ぽっかりと真円の月を眺め上げ、李白はぼんやりと独り言ちる。

「いやぁ、綺麗な月じゃぁ。実に風流じゃぁ~。こんな光景はめったに見られんわい。こんな時に酒を飲みながら美女の肩を抱くことが出来れば最高じゃなぁ~。しかしこんな状況ではそれは無理じゃなぁ~。――それがわかったら、誰か何とか助けんかい!」

 拳を振り上げ立ち上がろうとして、ぐらりと傾く枝にびっくりしてまた身を縮こまらせる。彼が今腰かけている松の木は断崖から真横に伸びている。その下を見下ろせば断崖、上を見上げれば絶壁である。

 溟封子と共に封月峰の崖下へと消えた李白だったが、運良く自身だけはこの松木に全身を打ちつけ骨を粉々にしつつも助かる事ができた。しかし登るも降りるも如何とし難く、とりあえず夜空でも仰いで助けを待とうとしたのである。だが当然ながらここは戴天山。そもそも人が訪れる事も稀であろうに、こんな孤立無援の状態にある李白を見つけてくれようはずもない。そして第一に、李白自身がそのような悠長な心構えなどできるはずもなかったのである。

 声を張り上げても虚しく闇に消えて行く。さてどうしたものか、仰々しく顎に手を当て頭を真横に向ける。――捻るのではなく。

「それは物を考える時の姿勢ではないと思うわ」

「凡人と同じものの考え方をしたならば、思いつくこともまた凡人のものじゃ。そんなのはわしの性分ではない!」

 きりっと胸を張る。そしてようやく、む、とその事に気づく。ばっと下を覗き込めば、闇の中、輝くような白い人影がこちらに向かって手を振っているのが見えた。

「三年ぶりかしらね。元気そうで何よりだわ」

「お主は、あの時の嫦娥(じょうが)か!」

 濡れ羽色の髪、白磁のような玉の肌。身間違えようがない。その女は一年前に李白が土壁の中から助け出し、その後李白の衣服と剣を持ち逃げしたあの美女に間違いなかった。

「嫦娥? それ、私の事を言ったの?」

「あったり前じゃ! 貴様、わしに一晩の享楽を約束しておきながら恥ずかしげもなくそれを反故にしおって! おまけにあろうことかわしの服と剣まで奪って逃げおったではないか! それが封月峰に封じられた悪人と言うのならば、貴様は嫦娥と呼ぶ以外にあるまい!」

 あーなるほど。女はぽんと手を打った。

「じゃあ、それで良いわ。私の事は嫦娥と呼んで頂戴な。でも一つ言わせてもらうと、私は別にあなたを剥いだわけじゃないわ。ただちょっと借りただけなのよ。その証拠に、ほら。今日はこれを返しに来たのよ」

 そう言って女は手にした包みを解いてみせる。中から現れたのは、鮮紅の袍であった。縁取りには龍が縫い込まれ、それ以外にも緻密な意匠が施してある。熟練の手によって成された物である事は明らかだった。――遠すぎて李白には見えなかったが。

「ばーか、今更遅すぎるとは思わんかのかっ?! 何故に三年もかかったのじゃ。すぐに戻って来ればわしも仏寺にずっと居座る必要はなかったものを」

「あら、私を待っていてくれたの?」

「すっとぼけめ! それ以外に何の理由がある!? いやまあ武芸の修練とか気になる書物とか色々あったのは認めるが……つべこべ言わずに、さあ、今宵こそその身を以てわしを楽しませよ、ぐひょへへへ」

 言うなり上着の結びを解いて胸から腹までを露わにする李白。女は困ったように肩を竦めた。

「無茶言わないでよ。こんなに離れているんじゃ手も届かないわ。せめてここまで降りて来てくれなきゃ」

「ど阿呆! それができたら苦労せん! であれば次はお主がわしを救えば良かろう」

「ああ、なるほど。それで貸し借り無しって事にできるわね。良いわ、それじゃあちょっと目を瞑っていてくれるかしら?」

「お安いご用! ……いや待て、貸し借り無しになったらお主との享楽は」

 それ以降は言えなかった。目蓋を閉じた直後、全身が硬直して喉も動かなくなってしまったからである。――点穴だ。しかし、穴道を突かれた感覚などなかったのに、一体何をどうしたのだろうか? 次いでふわりと体が浮いたかと思うと、また何の前触れもなく硬直が解けた。

「――はっ! わしは何を?」

 目を開ければ目の前に女がいる。二言目以降は放り投げて、李白はその曲線豊かな体に飛びかかろうとした。が、思いっきり前につんのめり、大地と接吻を交わす。

「むぐうっ!?」

「ごめんなさいね。あなた、約束なんて簡単に投げ捨ててしまいそうなんだもの。脚の経絡だけ塞がせて貰ったわ。数刻もすれば自然に解けるから安心してね」

 女の言葉など聞かず、李白は腕を振って女の細い足首を掴もうとする。しかしそれもついと華麗な足捌きで避けられてしまった。

「服と剣は、ここに置いておくわ。それと、三年も待たせてごめんなさい。本当はあの人に会ってすぐに戻るつもりだったのだけど、まさか二十年も経っていたなんて思わなくって。そんなだから道にも迷っちゃうし、他にも色々あって、ね……。ともあれ、これでまたしばらくのお別れよ。またいつか会いましょうね、小賢人さん?」

 口元に笑みを浮かべて小さく首を傾げる。実に可愛らしい仕草と思えたが、李白はとにかくその身体にむしゃぶりつきたくて仕方がない。とにかく行かせるものかと声を張り上げる。

「えぇい、待たんか! いつかどこかで、じゃと? そんな曖昧な約束なんぞアテにできるか! お主はどこへ行く? 二十年も経っていたとは、お主一体何歳じゃ? 本当の名は何じゃ!?」

 李白の問いに女はくすりと笑い、しゃがみ込んで顔を寄せた。

「引き留めようとしたって駄目よ。私は「天問牌」を探しに行くの。あなたもきっと、それを探しているのよね」

「天問牌ぃ~? 知るかそんなもん! それよりお主の名を――」

 女の人差し指が、そっと李白の唇に触れた。それ以上は言うなと制している。

「……知りたいのね? 私の、本当の名前?」

 こくり、頷いた。

 女が顔を寄せる。地面に伏せた状態の李白を抱き上げ、その耳に口づけて。

「――教えて、ぁ~げない」

 悪戯っぽく、囁いた。

 風が吹いて、地表の砂が撒き上がる。李白が次に目を開けた時、女の姿は既に跡形もなく消え失せていた。

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