第九節 貪欲禽獣
「ひとまず口封じじゃ! キェェェェェィ!」
はっとした不空は無意識に構えた竹箒の穂先を上向ける。すると、ぼすっ、と音を立てて李白の顔がその穂先に突っ込んだ。
「ぐびぃえぇぇぇぇぇぇぇ! 痛い! めっちゃくちゃ痛いぃぃぃぃっ!」
槍ほどの殺傷力は無いとは言え、箒の先端とは数百本の針を束ねたようなものである。李白は何とか眼球だけは抉られずに済んだが、頬やら鼻やらに穂先が突き刺さり、無数のひっかき傷を作ってしまった。ばたばたと足を踏み鳴らしながら、顔面を押さえて床上を転がり回る。不空はそれを見てしばし自分がやったことに茫然としていたが、気を取り直すと、ふん、と鼻を鳴らした。
「大師様の温情で助けてもらったというのに、目が覚めるなり盗みを企むとは不届き千万! その痛みは仏の天罰と知れ!」
「嫌なこった!」
びゅん、と李白の振り回していた足が不空の足首に引っかかる。あっと声を上げた時にはもう遅い。次いでもう一方の足で膝を蹴りつけられ、不空はどうと蹴倒されてしまった。起きあがった李白は鼻血をこぼしながらその腹の上にのし掛かる。
「かーっ! このわしが女の腹ではなく貴様のようなクソガキの上に跨がろうなどとは、怖気が走るわい! そうじゃそれで思い出したぞ、あの女はどこにおるんじゃ!?」
「な、何を……」
どすん! 李白が一瞬腰を浮かせてまた落としたので、不空は一瞬息が詰まって何も言えなくなった。
「隠し立てすると酷い目に遭うぞ。さっきも言った通り、わしの服も剣もなくなっておる。貴様が盗んだのか、えぇ? まさか己が女もろとも一人占めするためにどこかへ隠したのではあるまいな? さあさあ、あれが今どこにおるか言え! 言わねば、そーれもう一回!」
また李白が腰を持ち上げるのへ、不空はさっと片足を折り曲げて両者の間に滑り込ませた。どすっと膝のあたりに嫌な感触。李白の股間が全体重をかけたままその上に落下したのだ。
「うっ……ぐおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉ……ぇげぇぇぇぇっ」
目を白黒させながら李白は不空の上から転がり落ちた。股ぐらを押さえて嘔吐でもしそうな呻き声を上げている。これにはさすがの不空も、同じ男性として下腹に嫌な共感を得てしまう。やや憐憫の眼差しを送りながらも、箒を構えて立ち上がった。
「盗人め、僕が人の物を奪ったり、ましてや女人のことなど知るものか。せいぜい苦しんで悔い改めろ!」
「お、おのれ、なんと卑劣な……」
「何が卑劣なものか。いきなり襲ってきたのはそっち……」
そこでふと、不空は言葉を切って周囲を見回した。
蔵書閣は寺の隅に位置するが、大明寺そのものがまずそこまで広くはない。であればなぜ、兄弟子たちの読経の声が聞こえてこないのだ? その代わりに何か、騒がしい音がする。一瞬地面をのたうち回る李白に一瞥を向けて、不空は本堂へ向けて走り出した。何か大変なことが起きている。直感でそれはわかる。一体何事だ?
参道を駆けて本堂へ向かう、その途中で見覚えのある姿と遭遇した。鼠色の僧衣を纏った兄弟子の一人、空真だ。
「空真兄上、何かあったのですか?」
空真は同じ世代の修行僧の中でも特に冷静沈着と言われている。普段は何事にも動じないのに、今はあからさまに動揺しているのがわかった。これはただ事ではなさそうだ。
「ああ、不空か! どうしたもこうしたも、「貪欲禽獣」の奴らが乗り込んで来たんだ」
「えっ、あいつらが!?」
その名前だけは不空も知っている。「貪欲禽獣」とはこの近辺で特に噂になっている不良集団のことだ。詳しいことはさすがに知らないが、なんでもその中に有力者の縁者がいるとかで官憲による取り締まりを受けず、むしろ権力を笠に着てやりたい放題。別に金に困っているわけでもないのに強盗や恐喝で人々から容赦なく金を巻き上げるので、影では蔑んでそのように呼ばれるのだ。
「どうしてそんな奴らが寺を襲うのだろう? ここには金目の物なんて何も……」
「俺だって知るものか。とにかく今は兄弟たちが押し留めているが、いつまで持つやら。――不空、お前も正門に行って兄弟たちに加勢してくれ。俺は方丈を呼びに行く」
空真の言葉に頷き、不空はさらに急いで正門へ向かう。近づくにつれ、兄弟子たちのものと思われる喧噪が聞こえてきた。
「やめないかお前たち! 仏の聖域である寺でそのような振る舞いが許されると思っているのか!」
「仏ぇ~? あたいはそんなのどうでも良いんだよっ! 第一、女は寺に入っちゃいけないとかさぁ、お坊さんって女をバカにしてるよねぇー」
「修行の妨げになるのだから、女人禁制は当たり前だ!」
「だから、そーゆーのがムカつくのっ! 要するに出家したところで男は男、機会があればヤりたいってことじゃない。自分勝手な都合をこっちにまで押し付けないでよね!」
(……この声、どこかで?)
ふと内心首を傾げて飛び出せば、眼前の光景に不空は顎が外れんばかりに驚いた。
兄弟子たちが手に手に山行修行のための杖を構え、その前では数人の僧侶が地面に横たわって苦しそうに悶えている。そしてその先、三節棍を手に息巻いているのは、襤褸衣に身を纏った女が一人。
「――お前は!」
「うん? ……あーっ! あんたやっぱりここの坊主だったんだね! えっと、ここで会ったが……何日目?」
「千日目、だな。閔敏、そういった洒落た言い回しは博識な俺に任せておけ」
自信満々で閔敏の言葉を継いだのは、今日も似合わない書生服に身を包んだ馬参史だ。ニヤニヤと状況を楽しんでいる彼の後ろには、山門に背を預けた叙修の姿も見えた。瓢と盃を手に、またも一人傍観しているようだ。
「お前……お前たちが、「貪欲禽獣」だったのか!」
不空のその一言に僧侶たちの間でざわめきが走る。
「不空、お前、あいつらを知っているのか?」
「あいつら、ここの寺の奴に怪我を負わされたから治療費をよこせって、そう言って暴れているんだ」
兄弟子の空虚と空天が視線を向ける。それを聞いて不空は何が起こっているのかを理解した。あの日叙修は言った。――覚えておけ、お前がやったことをじっくり後悔させてやる、と。
「そうか。僕が怪我を負わせたことを理由にして、金を強請ろうって言うんだな!」
「不空! それじゃあ、やっぱりお前が原因なのか!?」
空虚は不空の様子から察したらしい。こちらは空真と違って普段から感情変化に激しいので、突如顔面に怒気を漲らせたかと思うと、構えていた杖先を不空へと向けた。ぎょっとして不空は思わず一歩後退する。
「もしそれが本当ならば、不空。今すぐ謝罪して許しを請うんだ」
「――! そんな! 僕はあいつらが人を困らせていたので、それを止めさせただけです! 何もやましいことはありません」
「だとしても、だ! お前は弟子入りこそしていないが大明寺に関わる身の上、しかしお前のために大明寺が荒らされるわけにはいかないのだぞ」
ぐっと不空は言葉に詰まる。あの日、翡蕾を助けたことに負い目はない。そのために叙修の歯を折ったのはやりすぎだったとも思えるが、それもこれも奴らが悪いのだ。こちらが謝罪するなど不服しかない。
しかしながら、空虚もそれはわかっているのだ。わかった上で、寺全体のために穏便な手を打つよう言っている。そもそも不空はただの寺男であり、大明寺に弟子入りしたわけではない。寺に厄介ごとを持ち込むのは避けるべきだ。……であれば、ここは言われた通りにするか?




