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剣侠李白  作者: 古月
四苦掌法
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第二節 辛氏大篆掌法

 辛大老の手がバンと卓を打つ。たちまち脚が折れて崩れ落ちた。その一撃にどれほどの威力が込められていたのか一目瞭然だ。

「辛氏大篆掌法は我が身を守り、逆賊に屈さぬために編み出したもの。それを貴様は蔑ろにするか!」

 みるみるうちに顔面に怒気が(みなぎ)る。辛悟は一歩引きそうになるのを、東巌子の差し出した杖に支えられなんとか踏み留まる。ここで怯んではならない。

「怖いか、俺があんたを超えることが」

 声が震えそうになるのを堪え、声量を上げる。気圧されるな、強気になれ。

「今まで見下していた若輩者に、追い抜かれるのがそんなに怖いか。こんな出来損ないに、手前が編み出した絶招を破られるのが恐ろしいか。そのムダにでかい自尊心を傷つけられることが、そんなにも許せないか」

「遂に妄言まで吐くようになったか!」

 掌風が()いだ。辛大老が右腕を振り上げたのだ。その手は筆を保持する形。あれは辛氏大篆掌法の起式(かまえ)だ。

「そこまで言うなら、良かろう! 我が絶招、四苦掌をその身で受けるが良い!」

 辛大老の右掌が打ち下ろされようとし、それと同時に東巌子が椅子を蹴倒して立ち上がった。杖の先端が持ち上がる。それに応じて辛大老の体も東巌子の方を向いた。右掌の狙いが変わる。

「よせ、手を出すな!」

 辛悟が叫んだ時にはすでに、両者の掌打が激突していた。吹き飛ぶ東巌子。

 傍から見れば辛大老の一撃によって東巌子が退いたように見えたが、事実は異なる。それを誰よりも深く悟ったのは辛大老自身だ。掌打を合わせた瞬間、自身の掌力が吸い込まれるように東巌子の掌に消えていったのだ。

 手を出すなと辛悟が言ったのは、東巌子に対してである。始め東巌子はその手の仕込み杖で辛大老を攻めようとした。しかし辛悟の静止を受けて杖は引っ込め、辛大老の掌打を自らも掌打で受けた。東巌子が両儀功で以て身を護ったなら、いかに辛大老ほどの使い手と言えど反動で深い内傷を負いかねない。そこで東巌子はわざと掌力を抑えてその場を飛び退いたのだ。

 東巌子は地面を滑った先でその場に留まりつつ、杖を突いて体を預けた。それ以上動く様子はない。辛悟の言葉にしたがっているのだ。これがまた辛大老を惑わせた。

(殷から老齢の友人が一緒だと聞いていたが、まさかこれほどの使い手だったとは。辛悟一人ならばまだしも、二人がかりでは到底敵わなかっただろう)

 その使い手は戦線を離脱した。辛大老は横目でちらりと東巌子を一瞥したきり、即座に辛悟へ向き直った。こちらもすでに右手を掲げた辛氏大篆掌法の起勢を取っている。

「受けよ!」

 辛大老の掌がびゅうびゅうとうなりを上げ、たちまち「辛」の字を描く。これに対して辛悟も同様に「辛」の型で応じた。辛字は左右対称であるため、互いが同じ型を演じたならば中心で衝突する。立て続けに弾ける掌打の衝撃が床の粉塵を巻き上げ梁の埃を舞い散らせた。

 続いて繰り出したのは両者とも「破」の型だ。これは左右非対称である。最初の一画で互いが互いの右肩を狙うところ、同時に左足を一歩踏み出しながら体を捻ることでその軌道から逃れる。続く二画目三画目も同様にぐるぐると円を描くように立ち位置を変え、一打も届かない。

 次に辛大老は「軍」の型を繰り出した。これは先の一字と併せて「破軍」となる。北斗七星の一つ、揺光(ようこう)星を示す別名だ。占卜においては「破軍に向かえば必ず負け、背にして戦えば必ず勝つ」とされている。辛氏大篆掌法でもこの二字は大きな威力を秘めており、先の「破」字にて敵の防御を打ち崩し、続く「軍」字で大軍が攻め入る如く相手の懐に攻め手を浴びせる連携技である。しかしながら「破」字は一撃も与えられぬままであり、「軍」字はその威力を発揮できないでいた。

 一方、ここで辛悟が繰り出したのは「天」字であった。「軍」字に比べて画数は少ないものの、左右への払いが縦横で構成される「軍」字を受け流し、たちまちその勢いを削ぎ落す。そこへ辛悟が続けたのは「(こう)」字だ。併せて「天罡」、すなわち永遠不動の北極星を示す。

 千軍万馬を投入したところで星を動かすことはできない。辛大老の「破軍」は辛悟の「天罡」によって封じられたのである。

 辛大老はさらに「恩」「徳」「義」の字で以て攻めかかる。これを辛悟は「孝」「慈」そして「侠」にて迎え撃つ。この攻防によって辛大老は三手を辛悟に浴びせたが、辛悟はまったく怯む様子を見せない。辛大老の表情にわずかながら動揺の色が浮かぶ。これだけ手を交えておきながら、当てたのがたったの三手、それも直撃ではなく勢いを削がれた状態だ。未だかつてなかった事態だ。

「どうした、俺に四苦掌を打ち込むのではなかったか!」

 辛大老の技を受けつつ、辛悟はなおも挑発する。戦闘の最中に口を開けば内息が乱れる。それを承知で辛悟は口を開いた。呼吸をやや乱しつつもその防御に隙はない。

「不肖の孫が、後悔するなよ!」

 絞り出すように吐き捨てて、辛大老は一度後退して距離を取る。そこから一転、激しい掌打を斜めに繰り出した。それは無から有が生じたような、一瞬の事だった。強烈な一撃だ。辛悟はこれを半身になって躱し、空いた胴へ立て続けに襲い掛かった横薙ぎの掌打三連続を受け流す。初撃の強烈さに反して隙が多い。辛悟はまた一歩後退しようとする辛大老へ間合いを詰めようと接近する。

 突如、辛大老の掌が五指を開いた。掌法ではない。あれは擒拿(きんな)の手形である。辛悟へ掌打を浴びせつつ、接触の瞬間に関節を押さえている。勢いを削がれ、辛悟の全身に漲っていた内力がたちまち雲散霧消する。

 直後、縦横無尽の掌打が辛悟を包んだ。一つ一つは受けきれぬものではなく、威力も抑えられているが、その反面とにかく素早く密集している。勢いを削がれていた辛悟はさらに守勢へと追い詰められるばかりか、みるみるうちに体勢が崩れていく。

「――来るぞ!」

 東巌子が叫ぶ。しかしその時すでに、四苦掌の絶招は成っていた。

 四苦とは仏典に曰く、「生」「老」「病」「死」の四字である。人間が生きる上で決して避けて通ることのできない四つの苦しみを意味する。生まれることがすでに苦しみの始まりである。誰しもいつかは老いるものである。体が衰えれば病を得て健康な肉体を損ない、そして必ず人は死ぬものである。

 四苦掌とはこの四苦になぞらえた技だ。第一字の「生」によって一連の技は生じる。その勢いは鮮烈ながら、一方で隙を生じて敵をも勢い盛んにする。そこを第二字「老」によって力を削ぐ。敵が隙ありと攻めれば攻めるほど、この「老」は効いてくる。そして第三字「病」によって敵を追い詰め、第四字によって文字通りの「死」を与えるのである。

 辛大老の四苦掌はすでに第三字までを書き終えている。残るはただ一字、そしてこの技は四字を一気呵成に記すことでこそ最大の威力を発揮する。ゆえに第一字を刻んだ瞬間から中断は許されない。もしも無理に中断することがあれば、それは内力を急にせき止めることとなり非常に危険だ。ゆえに辛大老とてこの技を途中で引っ込めることはできなかった。

 辛大老の掌が凶風を纏って襲い掛かる。受けられなければ死あるのみ。辛悟は今しも打ち込まれんとするその掌を見た。その軌道を見据え、いかに我が身を打ち、その命を絶つかをはっきりと悟った。それでもなお、辛悟は両眼を見開いてその一撃が迫るを凝視し、そして。

「――そうか」

 呟き、さっとその手を掲げた。

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