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剣侠李白  作者: 古月
零丁弧苦
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第四節 理想の子

 気がつけば部屋にいた。目が醒めてからもまだ頭がぼんやりとして、しばらく天蓋を見つめていた。体はもう痛くない。それなのに、まだこの胸は痛んでいる。

 範琳のあの豹変ぶりはいったい何だったのだろうか。羅珠にはいくら考えても見当がつかない。ほんの少し前まではとても可愛がってくれたのに……。

 ハッとして羅珠は頭を振った。なにを惜しんでいるのだろう、私は。元よりあいつは父母の(かたき)、憎むべき相手なのだ。どうして奴の機嫌を伺い、その豹変ぶりを気にかけてやらねばならないのか。あいつが自分を嫌うならばそれで構わないではないか。邪険に扱ってくれればこちらも心置きなく憎んでやれるというものではないか。

(羅珠よ、羅珠。勘違いしてはダメ。あいつの近くにいるのは復讐の機会を探るため、決して育ての恩だなんて考えてはいけないのよ。あいつが贖罪のつもりであったとしても、この恨みは骨の髄にまで達しているのだから)

 自らに言い聞かせ、羅珠は寝台の上で身を起こした。瞬間、ぎょっと肩を強張らせる。布団を捲ってみて仰天した。ほとんど素っ裸ではないか。誰がやったのかなど考える間もなく明白だ。範琳が自らこの部屋までやって来ることはない。風児がやったのだ。あの恥知らずは乙女の居室に遠慮もなく出入りし、男女の別など理解しようともしない。

 本来ならば憤懣やるかたない羅珠だったが、この時ばかりはまた事情が違った。自身の身体を見下ろして視線の止まった先、寝具に染み付いたそれに意識を奪われたのだ。そこにあるソレが一体何を意味するのか理解できずに硬直していると、部屋の外に足音が近づいてきた。慌てて布団をかぶり直した瞬間、扉を荒々しく開いて範琳が現れた。

 範琳が自らこの部屋へ足を運ぶなどそれだけでも珍しいのに、その表情はこれまでに見たことがないほど憤怒に燃えていた。その背後には風児もいたが、範琳の剣幕に圧されてそちらには視線が向かない。

「なんだこれは!」

 範琳は手にしていたそれを羅珠に向かって投げつけた。羅珠は避けられずに胸に喰らったが、それは布の塊、痛くもなんともない。だがそれが何であるか認識した瞬間にかっと顔に血を上らせた。これは羅珠の下着だ。今朝身に着け、そしていつの間にか剥ぎ取られたものだ。

 その中心に、やや白っぽい何かが付いている。水滴のようであるが実際にはそうでないことを羅珠は知っている。だが失禁にしては量が少ないし色もない。羅珠本人でもその正体は判っていなかったのだが、どうやら範琳はそれが何か知っているようだった。

「いつからなんだい! いつから、お前は勝手に!」

「な、なにを言っているの? お母様、これは一体何なの?」

「とぼけるんじゃないよっ!」

 範琳はいきなり飛びついたかと思うと、あっと叫ぶ間もなく羅珠の掛け布団を剥ぎ取り投げ捨てた。羅珠の真っ白な裸体が顕わになる。羅珠は咄嗟に胸を抱き、体を縮めた。が、範琳の視線は羅珠を見ていない。その視線は敷布団の一点に集中していた。先ほど羅珠も視線を止めた腰のあたり、股座(またぐら)の位置に染み付いた茶色いそれに。

 範琳の表情が変わった。驚愕、茫然、悲哀、そして憎しみへ。歯茎に血が滲むほどに顎を噛み締め、両目からは炎を噴く勢いで涙を流す。羅珠はさらに体を縮める。恐ろしいことが起こっている。羅珠の体に起こった何か、それを範琳は激しく嫌悪しているのだ。

「この薄情者! お前はずっとあたしの子でいれば良かったんだ! 雪華(せつか)の代わりでいれば良かったんだ! それなのに……ッ!」

 範琳の手が伸びる。羅珠は逃げきれずに髪を掴まれ、乱暴に床へと投げ出された。

「やめて、お母様! やめて!」

 許しを乞う羅珠。だがそれが余計に範琳の逆鱗に触れた。

「あたしを二度とお母様だなんて呼ぶんじゃない! お前はもうあたしの子なんかじゃないんだ! 勝手に大人になったお前なんか、あたしの子じゃないよっ! 雪華はずっとあたしの雪華であるべきなんだ!」

 バシッ! 範琳の手が翻り、羅珠の頬を手酷く()った。みるみるうちに打たれた頬が赤く腫れる。羅珠は何が何だかわからない。この身に何が起こったのか、どうしてそれを範琳が嫌悪するのか、これほどまでに痛罵するのか、一切が理解できない。しかし範琳はそれをわざわざ教えるようなことはしなかった。嗚咽を漏らして泣き出した羅珠には目もくれず、それこそ一切の興味を失ったかのように立ち去った。

 羅珠には涙を流す余裕さえも与えられなかった。風児に無理やり立たされ服を着せられた。それから乱暴に腕を取って部屋を出る。風児はこれまでに通ったことのない道を通った。羅珠はどこへ連れて行くのかと聞きたかったが、怖くて何も言えなかった。やがて風児は岩壁に開いた洞窟の中へと入っていった。紙蝋に火を灯して薄暗がりの中を進む。迷路のような曲がり路をいくつも通過し、やがて開けた場所へ出た。

 羅珠は唖然とした。そこには数多くの少年少女たちがいた。いずれも羅珠と近しい年代かそれ以上のようだ。皆が襤褸布のような服を身にまとい、泥だらけになって穴を掘っている。誰しもが疲れ果てた様子で作業し、それを鞭を手にした大人たちがギラギラした目で見張っていた。

「何よこれ……皆は何をしているの?」

 問うても風児は答えない。また腕を引っ張って連れて行く。監視役が二人に気づくと風児に対してか会釈を送る。彼らの方が年上であろうに、範琳の息子だからか(おそ)れを抱いているようだ。一方の風児はそんな挨拶など気にも留めずに先へ進む。羅珠はその道すがらで泥だらけの少年少女たちに視線を向けた。足首を鎖で繋がれ逃げようにも逃げられないようになっている。彼らもまた羅珠にちらりと視線を向けたが、何の感情もない表情のままじっと見つめられ、羅珠はそのうち足元だけを見て歩くようになった。

 やがてたどり着いたのは巨大な石牢だった。広間ほどの大きな石造りの牢屋がいくつも並んでいる。風児が一瞥すると監視役がカギを差し込みそのうちの一つの扉を開けた。中には十数人の少年少女たちがいたが、彼らは恐れるように揃って奥へと身を寄せる。風児に背中を押されて羅珠はその中へと放り込まれた。振り返ったときにはもう扉は施錠されている。

「ちょっと、これはどういうことなの? 一体何なのよ!」

 立ち去ろうとした風児はその問いかけにふと足を止め、ちらりと横目の視線を送る。

「……お前は母さんに気に入られなかった。理想の子ではなかった。それだけだ」

 羅珠には理解できない。理想の子だと? 誰にとっての理想だ? 従順であることが理想なのか? 永遠に子のままであることが理想なのか? 老いも成長もせずに親の玩具であり続けることが理想だとでも?

「私は私、()錦威(きんい)の娘、羅珠よ! 他の誰のものでもない! お前なんか母親じゃないと、あの女に伝えればいい!」

 風児は何も聞こえていないかのように背を向けて去った。なおも罵声を浴びせる羅珠に監視役が棒を突き入れて黙らせる。

 突かれたのと下腹の痛みとで羅珠はひとしきり呻いていたが、誰一人として手を貸そうとする者はいなかった。

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