推理小説を書こう!
インターネットが使えないというのは現代社会では大きな弊害である。ゴミの散乱しているこの狭い部屋にも一人、そんな若者がいる。小説家志望の彼は部屋にこもってはこうしてパソコンに向かって文字を打ち込んでいる。息抜きさえもインターネットを使っていた彼はどうしてもこの退屈な時間に耐えられないらしく、一人の友達を呼んできては話をしはじめた。
「なぁ倉田、全然いいネタ浮かばないんだけど。ネットも使えないし。なんか面白い話とか無い?」
「無い」
自分に背を向けて漫画を読みながら返答する倉田。本気で答えているのかどうかも怪しい。
「てかお前俺の本棚あさりすぎ。ちゃんと順番とかあるんだから直しとけよ」
「はいはい」
また気の抜けた返事。たまに殺したくなるほど人の話を聞かない。つまらなそうに漫画を本棚に雑に置くと、バイトだからと部屋を出て行った。
また静かになった部屋の中で、気だるそうに本棚を整理する彼。だから順番があるんだって……、とぶつくさ言いつつも、こうして本棚の中を整理するのは嫌いではなかった。昔から本の虫だった彼。あふれるほどの本に囲まれていた彼の誕生日に本棚をプレゼントしたのは倉田だった。それはそれは立派な木製の大きな本棚。だが中古だったのか一番下の段がもろくなっており、そこを無理やりまた本で支えている状態だ。だがそうやって物を大切にする所が彼の良いところだった。
「てめぇおるの分かっとるんぞ! さっさ出てこいやこらぁ! なめとんかおんどれは!」
ノックの振動で本棚が倒れそうになるのを抑えながら彼はじっと息を潜めた。いつもこの時間にやってくる借金取りだ。彼は数年前から工場のアルバイトで生計を立てている。賃金は安いもので、食べていくにも精一杯。仕方がないからと競馬やパチンコに行くも毎回大負け。遂には競馬場で親切な人がお金を貸してくれるも、その人が実は闇金融。いわゆるヤクザであった。
気の弱い彼はとにかく留守を装うしかなかった。小説さえヒットすれば賞金ももらえるし、デビューもできるかもしれない。今の彼にはそれしか方法がなかった。一時間ほど粘られた後、怒号とともに借金取りが去っていったのを確認すると、彼はまたパソコンの前に座った。
彼は小説を書こうと色々考えた。だが借金取りのことが頭に残っていて上手く集中することが出来ない。あの借金取りさえいなければ。そう思えば思うほど憎しみが生まれてくる。そこで彼は思いついた。そうだ、この気持ちを小説に書き起こしてみよう、と。だが一瞬で諦めた。彼の得意分野は恋愛物。推理小説は書いたことは愚か読んだことさえない。さすがにこれでは書けたものではない。彼は保存もせずにパソコンを閉じた。
少しの間仮眠をとったが、夢は見なかった。時々夢からとんでもなく面白いネタが思い浮かんでくることがあるそうなのだが、彼は一度もそれになったことはなかった。今日もまた何も浮かばないのだろう。そう思った時、不意にさっきの推理小説の四文字が彼の脳裏に焼き付いた。何もネタが浮かんでこない以上、これを書くしか方法はない。男の一大決心だと。彼の頭は睡眠状態から一気に目が覚めた。
まずは一番大事なのは物語の骨組みとなるプロットを作る作業だ。事件の場所、犯人と被害者の関係、事件の動機、そしてトリックを決めていく。恋愛小説で言うと、事件の場所は告白の場所。犯人と被害者は告白する人とされる人。事件のトリックは告白方法。だが、どうしても動機が思い浮かびづらい。なんせ恋愛小説は好きだという気持ち、すなわち愛が動機となる。
殺したくなるほどの相手というのは一体どういう人なのだろう。どうなったら人は人を殺そうと思うのだろう。彼は考えた。自分が殺したくなっている人といえば……答えは簡単。借金取りだ。彼はプロットに被害者として借金取りをあげ、詳細に借金取りについてのデータをまとめた。こういうのはプロットから詳細に書いていくことでリアリティが増す。彼はどんどん特徴を挙げていった。
次に事件の場所。借金取りを殺そうとするならば、やはり家だろう。家に来る借金取りを待ち伏せして、そこで一発。さすがに借金取りの事務所まで突撃するのはありえない。場所も決まった。
犯人と被害者の関係は、彼と借金取りの関係ということで良いだろう。彼はなんだか自分が殺人を犯してしまうような気がしたのか、心臓の鼓動が徐々に早くなっていくのを感じていた。
最後にトリック。これが一番の難関だ。銃もなければスタンガンも持っていない。凶器になりそうなものといえば、やはり包丁か。借金取りが家に来た時に包丁でひと刺し。悪くない。だが、返り血を浴びてしまうかもしれない。もしも借金取りがそれをかわしたら。そもそももしも計画した日に来なかったら。彼の頭のなかにはどんどんもしもの状況が思い浮かんできてしまう。
こういう時にインターネットが使えれば。カフェにでも行こうか。いや、今日は家の中にいると決めたんだ。絶対に家を離れない。彼は一度決めたらそれを破るのが大嫌いだった。
いっそ殺す方法を変えてみるか、とふと思いついたのが彼にとってはいい分岐点となった。まずは返り血を浴びない方法。それはつまり遠くから殺されていくのを眺めるということ。密室殺人である。直接手を掛けずに、出来れば事故に見せかける。殺人する側からしてみれば、犯人だと思われないことが大事だ。この家で密室殺人。彼は寒気がしたのか細かく震えている。
まず借金取りが来る。珍しく中に招き入れる。めずらしかったら来ないかもしれないか。いや、でも金をきっちり返すと言ったら必ず中に入ってくるだろう。そこで何かの拍子で鈍器か何かが借金取りの頭を直撃し、即死。死体はどうしよう。さすがに自宅で人が死んで放置というのはありえない。真っ先に疑われてしまう。どこかに捨てる方法はないか。彼の頭の中でどんどん想像が膨らんでいく。アイディアがどんどん湧き出てくる。久々の感覚に、彼はすっかりその気になっていた。
捨てられないならばいっその事放置しようか。借金取りが借金取りだと思われない服装をすれば、招いた客人が何かの拍子で事故死した、ということにすることができる。うちに来る客人……ということは出版社? あとはさっきの友達しかいない。だが出版社の人だと言っても本物ではないから確認すれば偽物だとすぐに警察に気付かれる。ならば、いっその事このまま借金取りとして死んでもらおうか。借金取りが無理やり部屋の中に入ってきて、ふとした拍子に事故死。不自然ではない理由は……何だろう。
この”不自然”というのが彼の中では大きなネックだった。不自然でも良いのならばいくらでもアイディアは浮かんでくる。でもどれもリアリティが出ない。恋愛物を書き慣れている彼にとって、不自然なファンタジックな世界になるのは絶対に避けたいポイントなのだ。
何か参考になるものはないかと本棚を漁る彼。だが恋愛小説は多くても推理小説は読まないので一冊もなかった。自分のジャンルの乏しさを実感した彼は大きなため息をひとつ。本棚にもたれかかった。わずか六〇キロほどの体重に、本棚がぐらつく。早く新しいのを買わなくては、そう思ったその時、これまた神がかり的に思いついた。この大きな本棚が倒れてきたとしたら。重たい本も何冊かある。下は不安定だが上はしっかりしている。これは、いける。この小さい部屋で一番スペースをとっているといっても過言ではないほどの本棚。逃げ道はこの部屋の中にいる限り、無い。
これで最後の関門であったトリックも完成。この短時間でここまで思いつくなんて、もしかしたら才能が有るのかもしれない。彼は驕りに驕っていた。彼にとっての初めての推理小説は、どうやら順調に進んでいきそうだった。
プロットも書き終わり、一応倉田にも確認してもらおうとバイトが終わるのを彼はひたすら待った。テレビもない、インターネットもつながらないこんなつまらない部屋で起こる最高の密室殺人。誰しもそうだろうが、この時の彼は本気でそう思っていた。倉田のバイトが終わるのを待ちきれずに電話を掛けたりもした。もちろん出ることはなかったが、うずうずしてたまらなかったようだ。
そうして待っていると、倉田から電話がかかってきた。
「どした。何度も電話もらっても困るんだけど」
「悪いんだけどさ、相談乗ってくれよー。いい作品書けそうなんだ! 頼む!」
「いつもそれじゃん。いい加減諦めろや。お前のそういう所、大っ嫌いなんだけど」
「うるせ! いいから早く家来いよ! なんかおごるから!」
彼が最後まで言い終わる前に切られてしまった。だがいつもこんな感じだからと彼は特に気にしなかった。
それから一時間ほどした後、倉田が彼の家を訪れた。彼の部屋は見違えるほど片付いていた。というより、ほとんどのものが無くなっていた。
「えっ……お前、どしたの? 引越し? ああ、あれか、借金取り来てるもんな。そろそろだよな」
「違う違う。トリックを見て欲しいんだ」
「トリック?」
「うん。今度の作品、推理物だからさ。トリックって、大事だろ? んで、今から実際にやってみようと思って」
「へぇ。じゃあ見せてみろよ」
彼はあまりの暇さに部屋を片付けていた。最初はただ部屋を片付けるのがメインだったのだが、徐々にエスカレートしていって、ついでにこの部屋でトリックを試してみようと考えたのだった。彼はいわゆるどや顔で倉田をトイレの中に誘い込み、押し入れから布団を出して玄関先に置いた。そして怪しげなひもを本棚の下の本に括りつけ、怪しげに微笑んだ。
「見てろよ、いくぞ」
「おう」
玄関先に置いた布団を持って彼は説明を始めた。
「こいつ、借金取りな。こう、中まで入ってくるだろ? んで、ここに座らせる。借金を返済できるからと中に誘って、トイレに行きたくなったからと少し待ってもらう。ついてきたら困るから、小走りぐらいでトイレに駆け込む。で、このひも。このひもが超大事なわけ。あの本棚の一番下のひも括りつけてあるだろ? あれが引っ張られたら、バランスを崩した本棚が倒れるわな。ただでさえ借金取りのノックで揺れている本棚だ。倒れないわけがない。そしてこのひもをこのトイレのドアに結んでおく。このトイレのドアは内開きだ。どうなるか、わかるな?」
「おお! やるじゃんか! さっそく試してみようぜ。はいトイレに駆け込んできました、内開きのドアを、押ーしーまーしーたっ!」
一気に紐を引っ張る彼。すぽっと本が抜けることはなかったが、良い感じにずれてそれが連鎖反応を生み、支えとなっていた本は雪崩のように床に散らばった。かと思うと次の瞬間には本棚はバランスを崩し、雷が落ちたような大きな音と共にホコリを舞い踊らせた。それはまるで邪悪な何かが生まれるときの画面効果のようで、人の心を一瞬で悪に染めることも出来そうな光景だった。
「うっわすごいホコリ。買ってきた肉まんもホコリだらけじゃん。最悪だわ」
「わりわり。で、この後この内開のドアから出て、救急車を呼ぶ。このひもさえ回収すれば、どこからどう見たって事故死だよ。ほら、布団もあんなに潰れちゃってるし」
二人共ゲホゲホ言いながら、本当に人を殺してしまいそうな笑みを浮かべていた。この後二人で本棚の整理をした。その後、何人ものご近所さんから注意を受けた。さすがにあんなに大きな本棚で大きな音がしたとなると、嫌われるのも仕方がない。ホコリまみれになった肉まんを二人で食べ、苦情の対応をし、疲れたと横になって、細部のプロットを二人で練っていく。
「てかさ、探偵役がいないじゃん。それどうすんの」
「あー、じゃあ、お前モデルにするわ。面倒臭がりだけど、絶対現場に来て、だるそうに解決する。どうよ」
「まぁ、いいけど」
細部のプロットは本当に穴埋め。パズルのように必要な部分をひとつずつはめ込んでいく。二人で相談しながら考えているとけっこういいアイディアが浮かんできて、いつまでも尽きることはなかった。それにもひと区切りつき、執筆は明日からと決め、二人は布団をかぶった。
「なぁ、お前本当に借金取り殺さない?」
「何いってんだよ。そんなことできるかって」
「……だよな、おやすみ」
「おやすみ。遅くても今月中には完成させることが出来そうだな」
彼は満足そうに眠りについた。
だが倉田は眠らなかった。眠れなかった。やっときたチャンスだった。
彼と倉田は大学生の時に知り合い、共に小説サークルだった。彼は部員の中で一番面白い小説を書いて部長に推薦され、コンクールに応募し見事受賞。あとは本格的にデビューするだけ。順風満帆だった。一方倉田は、特にいい作品も描き上げられず、普通に就職した。 学生時代、彼と倉田ははじめて会った時から親友のようなものだった。彼は倉田を何より頼りにしていた。というよりも、ほとんどもたれていたようなものだった。それは小説を書くときも同じだった。いつもアイディアを最初に出すのは倉田、行き詰まったらアドバイスしてあげるのも倉田、悩み、相談、彼のすべてを受け入れてあげていた。決して自分から望んで話を聞いていたわけではない。彼の勢いをかわすことが出来なかっただけだった。学生時代毎日のように頼られっぱなしで、本当に精神的に疲れていた。卒業とともに違う道を歩むと決めていた二人。その通り違う道に進んだが、彼は学生のうちにデビューすることが出来ずそのままニート同然に。愚痴の矛先はやはり、倉田だった。
やっと解放されると思っていた倉田は、心がすでに折れていた。これから先何十年とこんなふうに彼の相手をしなければならない。そう考えただけで圧迫されるのは時間だけではない。頭の先から足の指先まで細かい震えが止まらないほどの恐怖だ。内側からくる恐怖は心を引き裂き、精神的に参ってしまうだろう。殺意が湧いたのは最近ではなかった。
そして今、それを”解放”するチャンスなのだ。嫌な鼓動と顔の緊張が止まない。彼の寝返りにいちいちビクつきながら、そっと本棚の支えになっている本をずらし、ひもを括りつけた。紐の先を震える手で持ったまま、トイレの明かりをつけた。ドアノブにひもを括りつけ、右手をかける。
「悪いな。俺やっぱり探偵じゃなくて犯人の方だわ」
目をつぶって歯を食いしばり、思い切りドアを押した――。
第一発見者は、借金取りだった。