本編
「クラリス・ヴァレンティア。君との婚約を解消したい。私はポーラ・セルザンに心を寄せている」
王太子レオナール殿下がそう告げたのは、婚約誓約を更新するための聖堂だった。
祭壇の向こうに、典礼官と立会人がいる。壁際には音楽会の運営を手伝う子爵令嬢、ポーラもいた。彼女は殿下の言葉に目を見張っている。少なくとも、人前での宣言を頼んだ顔ではなかった。
「承りました。婚約破棄するなら、私の美点を三つどうぞ」
「……何だって?」
「解消を申し立てる側は、相手の美点を三つ、自分で見て認めた言葉で証言する。古い誓約条項です」
祭壇の脇に、青銅の鐘が吊られている。
殿下は面倒そうに息を吐いた。
「クラリスは美しい」
鐘は鳴らなかった。
「では優秀だ。皆がそう言っている」
二度目も、沈黙だった。
誰かが靴を引く音さえ、聖堂の隅まで届いた。
「何の冗談だ」
「鐘は、殿下ご自身が見聞きした具体的な行いと、その行いを今、美点として認めておられるかを確かめます」
典礼官の声は静かだった。
「何を見て、相手が何を選んだか。そこをお示しください。沈黙はクラリス様に美点がないという意味ではございません」
殿下が私を美しいと思っていることまで、嘘だったとは思わない。それでも、何年も隣にいた人が、私のしたことを一つも挙げられない。
胸が痛んだのは、婚約を解消したいと言われた瞬間より、二度目の音を待ったときだった。
私は王太子室のために、二年も河岸を歩いてきた。雨で滲んだ図面を乾かし、露店主と口論し、火のついた油灯を人の流れから遠ざける位置を考えた。けれど公に出す書面には、私の名前を載せてこなかった。
婚約者が自分の手柄をねだっていると思われるのが怖かった。黙って支えていれば、いつか殿下が自分で気づいてくれる。そう願ったことも、確かにあった。
私は、いったい何を待っていたのだろう。
「本日十八時から七日後の十八時まで、名誉証言の期間となります」
典礼官が告げ、別の帳面を開いた。
「三件に届かなければ未達として申立人の公簿に残ります。ただし婚約は、証言の数によらず期間満了で解消します。クラリス様は途中でも、こちらの婚約簿にご署名いただけば即時解消を確定できます。その場合は、クラリス様が解消を決めたと記されます」
殿下は私の同意なしに申立てを撤回できない。典礼官がそう続けると、殿下はひとまず理解した様子でうなずいた。
「なお、名誉証言簿は三件が受理された時点、または婚約解消が確定した時点で封じられます。封じたあとは、鐘は証言を審査いたしません」
私は二冊の帳面を見た。今ここで署名すれば、終わる。
ただ、婚約者として預けられている王太子室の通行札は、その瞬間に返さねばならない。祭典への協力者として記録庫に直接入れる資格も失う。原案の控えを請求する道は残るとしても、目前の秋灯会までに、内部の原本と変更履歴を自分の目で確かめるのは難しくなる。
何より、名前を消したまま放り出すのは、もう嫌だった。
「七日後の十七時に、この窓口を予約してください」
「今は署名なさらないのですか」
「残した仕事を、私の名で終えます。それから戻ります」
殿下の反応は見なかった。
彼が三つの美点を見つけたかどうかで、戻る日を変えるつもりはなかった。
*
翌朝、通行札を示して王太子室の記録庫に入った。
秋灯会の導線原案は、厚い綴りに収められていた。二年かけて現地を歩き、川の増水時の足場から、楽師の楽器が通れる幅まで調べて描いたものだ。
公示用の表紙には、発行者として「王太子室」とある。原案作成者の欄は空白だった。
「この欄の訂正をお願いします」
担当書記官テオ・リュセルは、私の指先を見て顔を曇らせた。
彼と最初に会ったのも、河岸の調査帰りだった。濡れた地図の置き場がなくて困っていた私に、何も聞かず記録庫の机を空けてくれた。泥のついた靴で戻っても嫌な顔をしない人だった。
だから、この欠落を知りながら黙っていたとわかったとき、私は殿下とは別の仕方で傷ついた。
「室内の改訂台帳には、あなたの名が残っています」
「でも公示版にはありません。規程では実作成者を記すはずです」
「……そのとおりです。室の成果は室のものとして公表する。そういう慣例に従っていました」
「規程より、慣例を優先したのですね」
テオは否定しなかった。
私だって止めようとしなかった。波風を立てたくない私には、彼の沈黙が都合よかったのだ。けれど今は、見て見ぬふりを重ねた年月の長さが、かえって怖い。
私は訂正請求をしたためた。古い記録を消すのではない。原案作成者と、その後に誰が何を変更したかを履歴として残し直すための請求だった。
「原本を保全して、正式に回答してください」
「照合が終わってから殿下に報告します。少し時間をください」
受領欄に『原本照合中』と書かれた。そこで止められれば、殿下はいつまでも知らないままでいられる。
「保留にした日付も記してください。私の請求を、なかったことにはしないで」
テオの筆先が、わずかに止まった。それでも彼は日付を記した。
都邸に戻ると、管理代理人としての委任状を確かめた。二年前から私に与えられている権限は、管理予算内の警備と修繕、四十八時間以内の臨時通行許可、一年以内の条件付き土地使用契約までを含んでいた。新たに父の決裁を得る必要はない。
窓からは、河岸の路地に面した東門が見える。石畳の通り庭を挟んで、西門は市の消防通路へ抜けていた。荷車を片づけ、鍵を用意すれば、河岸からの逃げ道をもう一本作れる。
手帳に東西の門を書き込み、明日の現地調査に市の見張り人を呼ぶ手配をした。
今まで、人の目に触れない場所で決めてきたことばかりだ。その決定を、これからは誰の名で残すのか。確かめるべきなのはそこだった。
*
翌日の午後三時、私は秋灯会の会場となる河岸を歩いた。
祭典総裁として来ていたレオナール殿下も、数歩後ろを同行している。鐘のことがあるから、私の仕事ぶりを見に来たのだろう。
秋の風が旗を引っ張っていた。主な出口は南階段。北側にはもう一つ通路があるが、来賓用観覧台の増設予定地が、その幅を削る位置にあった。
「天蓋が張られたら、あの油灯と近すぎます」
市の見張り人が指した場所には、木組みと灯具の台があった。
「強い風が来れば火が移る。南階段へ人が押し寄せたら、北側も詰まります。何度も伝えたんですが、まだ予報の段階だからと」
「お名前を伺っても?」
「……ニルスです。見張りの名前まで要りますか」
「必要です。危険を教えてくださったのは、あなたですから」
ニルスは気まずそうに帽子を触った。それから図面を広げ、段差のある場所や露店の荷車が塞ぎそうな道を教えてくれた。川を見渡せる突堤からなら、人の流れを一望できるとも教えてくれた。
私は彼の名前と指摘を手帳に残し、都邸へ移った。
東門から入って西門へ抜ける。途中の荷車を退かせ、石畳の欠けた箇所を確認する。門番二人には、それぞれの鍵を持ち場で管理させ、東西同時に開ける合図を練習させた。
「許可書は明後日の開会前に管理台へ運びます。私が記名したものを現場責任者に見せたら、市の誘導員を通してください。二つの門の間に荷車を戻しては駄目ですよ」
二人は、初めて通り庭を避難路として見たように顔を上げた。
「君の家は、よく気が回るのだな」
殿下は門番の作業を眺めていた。
「見張りの話もよく聞いたし、使用人に準備もさせた。二つの美点にできないか?」
「同じ危険を聞き、備えた一続きの行いです。言い換えても二件にはなりません」
「そうか。侯爵家の家政というのも、なかなか手が込んでいる」
彼にとって私は、家の者をよく使う令嬢なのだろう。ニルスの話を聞いたのも、門を確かめたのも、ただの親切にしか見えていない。
殿下にとって三つという数字は、まだ埋めるべき欄でしかなかった。
殿下を見送ってから、私は執務室へ戻り、四十八時間の通行許可書を用意した。使用する土地、東西二門、必要な費用。責任者の署名と発効時刻以外は書き入れておく。開会の日に管理台へ運ぶまでは、執務室の鍵付きの棚に納めた。
私は手帳を閉じた。
聞いた警告を、そのままにするわけにはいかない。明日の準備会では、来賓用観覧台の縮小を求めよう。
*
その翌日の午後四時、王宮の祭典準備会に出席した。
私が席を得たのは、婚約者だからではない。会場に隣接する都邸の管理代理人だからだ。
テオが書記席にいて、ポーラも楽師の動線について説明を聞いていた。私はニルスの記録と図面を添え、自署した警告意見書を提出した。
「来賓用観覧台を縮小してください。強風時、布天蓋に火が移るおそれがあります。南階段へ人が集中したときの逃げ道も、増設で狭くなります」
レオナール殿下は意見書に目を通した。
「市は中止を求めていない」
「まだ警報は出ていません。ただ、中止を命じられないことと、危険がないことは別です」
「この導線は王太子室の官吏が作ったものだ。隣地の管理者の心配だけで、来賓席を削るわけにはいかない」
私が書いたのです。
そのひと言が喉まで出た。
誰もが殿下の返答を待っている。ここで原案を自分の仕事だと告げれば、今さら手柄を奪い返そうとしているように見られるかもしれない。婚約破棄を言い渡された女の負け惜しみだと思われるかもしれない。
違う。責任ある書面の作成者を示すだけだ。頭ではわかっているのに、私はまた黙った。
「原案では北側の幅を確保しています。増設によって、その前提が変わります」
そこまでしか言えなかった。自分の指が、膝の上で握り合わされている。
「当日の誘導で対処する。配置はこのまま承認する」
殿下が決裁の印を押した。
その時刻をテオが記す。私は彼を見たが、彼も口を開かなかった。
「殿下、楽師の列は観覧台の脇を通ります」
ポーラが控えめに言った。
「せめて混雑時の退路は、別に設けられませんか」
「市の誘導員がついている。心配は要らない」
殿下は彼女に優しく答えた。決裁は変わらなかった。
私は意見書の受領と決裁時刻の保全を確認し、テオに訂正請求への回答を改めて求めた。
私がその場で名乗っていれば、殿下の判断が変わったとは限らない。それでも、言いかけた言葉を自分でのみ込んだ感触が、喉に残っていた。
廊下に出ると、窓の向こうで観覧台の木組みが組み上がっていた。
警告が取り越し苦労で終わってほしい。そう願いながら、私は明日の夜に立つ場所を決めた。
来賓席ではない。都邸の東門脇、管理台のそばだ。
*
秋灯会の夜、河岸には油灯の光が連なった。
川面に映る灯りは美しい。けれど私は晴れ着を着ず、東門に近い管理台で門番の合図を確かめていた。執務室から運んだ許可書には、発効時刻と責任者名の空欄が残っている。
午後六時五十五分ごろ、会場から悲鳴が上がった。
増設した来賓用観覧台の油灯から、布天蓋へ火が走っていた。風が炎を横へ引き延ばす。
「火事だ!」
観客が南階段へ殺到する。下り口で人が滞り、押し戻された列が北へ流れた。だが、北側通路は増設された観覧台で狭められている。
人が転んだ。後ろの列はすぐに止まれず、肩と肩が重なる。
「北が詰まっています!」
ニルスの声が伝令とともに届いた。
「東門の前を空けて。西門へ合図を! 市の誘導員を呼んでください!」
門番の一人が西門へ走る。もう一人が東門の留め金を確かめる。市の誘導員が集まり、私は東門から西門へ抜けた先の消防通路に列を留めないよう伝えた。
許可書は、責任者名と発効時刻以外の欄をすべて埋めてあった。今、必要なのは私が責任を引き受けることだった。
来賓席の人々も係員に誘導されてきた。その中にレオナール殿下がいた。袖に煤がつき、顔は青ざめている。北側通路からの混雑を抜けてきたのだろう。
今だけは、どちらが誰を捨てたかなど関係なかった。
「侯爵家の通り庭を正式な誘導路にしてよろしいでしょうか」
誘導員の責任者が息を切らして訊く。
「東門から入れて、西門から消防通路へ抜けさせてください。西門の先を塞がないように」
準備の間にも、誘導員は危険な場所から人を離していた。私は管理台の時計に一瞬目をやった。針は午後七時を指している。
許可書に発効時刻を記し、責任者欄に自分の名前を書いた。
クラリス・ヴァレンティア。
この許可で生じる清掃費や警備費は、侯爵家の管理予算から私の判断で支出する。翌朝には報告書も必要になる。だが、私の権限はそのためにある。
「開けてください!」
門番が東西二門を押し開いた。
誘導員が許可書を確認し、河岸の人の流れを東へ曲げる。荷車のない石畳を通り、西門から消防通路へ抜ける列が生まれた。
「押さないで! 足元を見て。西門の外では立ち止まらないで!」
私は喉が痛くなるまで叫んだ。消防通路側の誘導員は列を先へ進め、門番は両側の流れを見ながら扉を押さえている。
目の前で、倒れていた人が引き起こされた。その人の後ろの列が、ようやく動き始めた。
楽器を抱えた人々が東門に来た。先頭のポーラが、年若い楽師を支えながら歩いている。
「この列は楽師たちです。誘導員の指示に従います」
「ありがとうございます。西門の外まで、どうか一緒に」
ポーラは深くうなずき、列に戻った。
管理台の向こうから、殿下が私を見ていた。
「この通り庭を開けたのは……君なのか」
「門を開けたのは門番です。私は使用を許可しました」
殿下の視線が、署名の残る許可書と、石畳を抜けていく人々の間を往復した。
私は彼の答えを待たなかった。西門の外で人が滞りかけたのが見え、すぐに誘導員へ知らせた。
少し離れた場所に、テオが事故記録を取っているのが見えた。何を書いているのかまではわからない。
やがて市の消火係が火を抑えた。転倒によるけが人は出たが、死者はなかった。灯会の後続の催しは中止となり、河岸には水の匂いと焦げた布の切れ端が残った。
東西の門は、撤収と安全確認のため、しばらく開けておく必要がある。
最後の列が通り庭を抜けたころ、私は管理台に両手をついた。
まだ片づけることは山ほどある。けれど、あの書類の名前を見て、胸の奥が少しだけ軽くなった。
今夜、私が責任を引き受けたことを、私自身は知っている。
*
翌朝、私は市の記録窓口にいた。
昨夜の臨時通行許可の写しを渡すと、担当者が発効時刻と費用の区分を確認し、正式に受理した。
「こちらもご確認ください。王太子室から届いた事故記録です」
別の紙が机に置かれた。
現場対応者の欄を読んで、私は息を止めた。
クラリス・ヴァレンティア。午後七時、臨時通行許可発効。
従来の事故記録なら、そこに書かれるのは『王太子室』という組織名だけだった。個人の名を残さないのが、長年の慣例だった。
筆跡には覚えがある。テオの文字だ。
彼は私が見ていないところで、今度はその慣例に従わなかった。
「もう一つ、確認が必要です」
安全審理官が導線図を広げた。
「北側通路を狭めたのは、いつ、誰の承認による変更でしょうか。公示版には履歴がありません。室内の原案と改訂台帳を正式に認証した資料が必要です」
私は王太子室へ向かった。
テオの机には、原案と改訂台帳、それに私の訂正請求書が並んでいる。請求書には、まだ『原本照合中』の文字があった。
「殿下には、いつ報告なさったのですか」
彼は答えるまで、しばらくかかった。
「……まだです。確認を理由に、先延ばしにしました。準備会の席でも、あなたが原案を書いたことを伝えませんでした」
「なぜ?」
「公示版の欠落が明るみに出れば、それを黙認した私にも責任が及びます。怖かったんです」
私の脳裏に、準備会でのみ込んだ言葉がよみがえった。
私が書いたのです。あのとき、声にすればよかった言葉だ。
「私も、言えませんでした。でも、もう黙らないでください。誰が書いて、誰が変えて、誰が承認したのか。そこを残してほしいんです」
テオは原案と台帳を一枚ずつ照合した。私が作った導線。来賓用観覧台の増設で変更された北側通路の幅。準備会で提出した警告と、殿下が承認した時刻。誤っていた作成者欄を履歴つきで訂正し、遅れた請求への回答も正式に記した。
最後に、自分の名で別の報告書を作り始めた。
「これも提出します。作成者の匿名化を見逃したことと、あなたの請求を保留したことです」
横には、離任願があった。
「私に見せて、許してほしいのですか」
「いいえ。これを出さなかったら、また同じことになります」
テオは書類を揃え、私ではなく提出先へ渡した。処分がどうなるか、彼にはわからないはずだ。
私は彼が立ち上がるのを見てから、声をかけた。
「二年前、河岸の調査の帰りに、濡れた図面を乾かす机を貸してくださったでしょう」
「覚えています」
「あなたは、あのときから私の仕事を知っていたのですね」
テオは目を伏せた。
「知っているだけで、十分だと思っていました」
「私も、そうでした」
その場で、二年間の失望が消えたわけではない。ただ、私は彼の顔を正面から見られた。
夕方、典礼官から書状が届いた。レオナール殿下が婚約解消の申立てを撤回したい意向を示し、私に同意を求めるための面会を願っているという。送付の日付は今日だった。
私は書状を机の端に置いた。婚約簿への予約は変えなかった。
*
その翌日、午後二時から公開安全審理が始まった。
原案、改訂履歴、警告意見書、事故記録、通行許可。審理官が一つずつ照合し、誰の仕事で、誰の決裁だったのかを読み上げる。
原案を描いたのは私。北側通路を狭める観覧台の配置を承認したのはレオナール殿下。臨時通行を許可したのは私。火を消したのは市の消火係で、群衆を誘導したのは市の職員たちだった。
「警告意見書を受理したうえで、配置を承認なさったのですね」
審理官の問いに、殿下は立ち上がった。
「そのとおりです。警報が出ていないことを、危険がないことと取り違えました」
彼は言葉を切った。
「来季の祭典総裁も辞退します。承認の責任を負うべきです」
審理室にざわめきが起きた。
私はその場で、もう一つ言うことがあった。
「私が作成者だと、準備会でも言うべきでした。私は名義を正す請求を出していましたが、みなさんの前では、言葉をのみ込みました」
審理官が私を見た。
「それでも、あなたは意見書に自署し、危険を明記して提出しています。承認の判断は総裁が下したものです」
「はい。それは記録どおりにお願いします」
私はうなずき、別の資料を差し出した。
「それから、危険を最初に指摘したのは見張りのニルスです。門番二人の開門記録と、市の誘導員の勤務記録もあります。担当者の名前と働きを、それぞれ残してください」
審理官は資料を受け取り、記録係に回した。殿下は、そのやり取りを正面の席から見ていた。
審理を終えた午後三時半、市と一年間の条件付き契約を結んだ。侯爵家の通り庭を、避難時だけ使える道として確保するためだ。二日前の許可が切れる前に、今後の取り決めを整えておく。
控えを鞄にしまい、廊下へ出ると、テオの離任願が受理されたと知らされた。今は王太子付きの記録担当ではない。規程違反の処分は、まだ決まっていなかった。
角を曲がる手前で、ポーラの声がした。
「正式なお付き合いは、見合わせてください」
立ち止まるつもりはなかった。けれど次の言葉が耳に入った。
「クラリス様に撤回を願う書状を送ったことは、今朝、殿下ご自身から伺いました。隠さず話してくださったのはありがたく思います。でも、あの日も、私の気持ちを確かめる前に、皆の前で名を挙げられました」
ポーラは少し間を置いた。
「クラリス様のお答えがどうであれ、私にも決める権利があります。私は、今はお約束できません」
殿下の返答は聞こえなかった。私はそのまま廊下を進んだ。
彼女が殿下に惹かれたことも、今は距離を置こうとすることも、彼女自身の選択だった。
鞄の中には、今日の契約書と、明日の聖堂の予約票があった。
*
約束の午後五時、私は聖堂へ戻った。
典礼官の前には、名誉証言簿と婚約簿が並んでいた。青銅の鐘は、最初の日と同じ場所に吊られている。
レオナール殿下は私を見て、姿勢を正した。
「先日の書状は、読んでくれただろうか。私は君の仕事も、君の意思も、見ようとしてこなかった。あの申立てを撤回したい。撤回に同意してもらえないだろうか」
今度は私の顔を見て話している。その違いを、なかったことにはしない。けれど、答えは変わらなかった。
「同意しません」
私は婚約簿を見た。解消を確定させる者の欄は、まだ空白だった。
「婚約解消を告げられたあの日、私は今日の十七時を予約しました。残した仕事があったからです。ここで自分の答えを記すことも、あの日に決めました」
殿下はしばらく黙っていた。もう一度同意を求めることはしなかった。
「……わかった。では、最後に名誉証言をさせてほしい。君が戻ってこないとしても、私が見たものを、見なかったことにはしたくない」
いま私が署名すれば、証言簿も閉じる。三件に届けば、彼の公簿に未達の記録は残らない。
それも承知のうえで、私はうなずいた。
「どうぞ」
殿下は典礼官へ向き直った。
「河岸でニルスの警告を聞いたとき、クラリスはその声を後回しにせず、実際に備えを始めた。私は侯爵家の使用人をよく使っているだけだと思った。だが、身分ではなく、危険を知らせた人の言葉で動く。その態度が、美しかった」
澄んだ鐘の音が、一つ響いた。
初めて彼は、私の顔立ちではなく、私の選んだ行いを語った。
「火が出た夜、彼女は責任者として自分の名を記し、都邸の門を開くことを決めた。私はあの場にいて、それを見た。あの判断を、私は尊敬する」
二度目の音が鳴った。
「昨日の審理では、彼女は自分のためだけに記録を直そうとはしなかった。警告した見張りや門番、誘導員の仕事を、それぞれの名で残すよう求めた。私は、その公正さを認める」
三度目の音が、聖堂に広がった。
典礼官は名誉証言簿の留め金を閉じ、封をした。
私は、三つの余韻が消えるまで待った。
あの頃、ひと言でも私の仕事について尋ねてほしかった。図面を持ち帰った夜に、どこを歩いてきたのかと聞いてほしかった。
今、彼が知ったことを、嬉しくないわけではない。けれど、それで二年前の私が戻ってくるわけではなかった。
私は婚約簿を引き寄せた。申立人の欄にはレオナール殿下の名が残っている。その隣の、解消を確定させた者の欄へ、自分の名を記した。
クラリス・ヴァレンティア。
典礼官が受理印を押した。期間満了による解消ではなく、私自身の署名で婚約が終わった。
背後で、殿下が息を吸った。
「最後に、もう一つだけ言わせてほしい」
私は振り返らなかった。
「君は今、自分が何を望むかを自分で決めた。誰かの賛辞に頼らずに。それも、私が見落としてきた君の強さだった」
鐘は鳴らなかった。
典礼官の手は、封じられた証言簿へ伸びなかった。
私も、もう鐘のほうを見なかった。
聖堂を出ると、前庭の石段に秋の光が落ちていた。
少しだけ冷たい風が頬を撫でた。私は一人で段を下り、庭の真ん中で立ち止まった。
婚約解消を申し立てられた日には、ここをこんな気持ちで歩くとは思っていなかった。
回廊の方から、書類鞄を提げたテオが来た。引き継ぎのため王宮に寄った帰りだという。
「手続きは終わりましたか」
「ええ。あなたのほうは?」
「引き継ぎだけは。処分はまだ決まっていません」
彼は言いにくそうにしたが、視線を逸らさなかった。
仕事の間違いを帳消しにしてまで、一緒にいたいとは思わない。その間違いを自分の名で引き受ける人だから、もう少し話してみたいと思う。
「処分が決まって、ひと息つけたら」
私が言うと、テオが顔を上げた。
「今度は仕事抜きで、河岸を歩きませんか。ニルスが教えてくれた、川を見渡せる突堤があるんです」
「……私で、よろしいのですか」
「私からお誘いしているのですよ」
彼は小さく笑い、それから真剣な顔で答えた。
「はい。ぜひ。何が決まっても、私からもお誘いしたかった」
約束をしたからといって、明日すぐ何かが変わるわけではない。それでも、今は彼と話しながら帰りたかった。
私が一歩踏み出すと、テオが隣へ並んだ。
前庭から続く石畳は、二人で並んで歩ける幅があった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
クラリスの七日間の物語、いかがだったでしょうか。
今回は短編として完結させましたが、クラリスとテオのその後や、二人の関係が少しずつ変わっていく様子など、長編として描いてみたい気持ちもあります。
そこで、ひとつお聞きしたいです。
この物語の長編版があったら、読んでみたいと思いますか?
「長編でも読みたい!」「短編のままで十分」など、率直なご意見を感想欄でいただけると嬉しいです。今後の参考にさせていただきます。
また、作品を楽しんでいただけましたら、評価などで応援していただけると大変励みになります。
改めまして、最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!




