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平民の薬師と契約結婚した冷徹公爵様ですが、実は私は5年前に失踪した侯爵家の正当令嬢でした~偽りの夫婦が本気の溺愛に変わるまで~  作者: はりねずみの肉球
命を狙われる夜

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シーン4:血まみれの抱擁と、ゼロになった距離

ドクン、ドクン、ドクン。

 私の耳のすぐ裏で、力強い命の律動が響き続けている。

 最初は微かで頼りなかったその心音が、星火せいかの粉と強い酒の熱によって劇的に蘇り、アルフォンス様の分厚い胸板を内側から確実に打ち鳴らしているのだ。

 私は彼の上半身にすがりついたまま、ただポロポロと涙を流し続ける。

 視界は完全にぼやけ、しゃくり上げる自分の無様な呼吸音だけが、血の匂いが充満する凄惨な部屋の中に響いている。


「あ……う……っ」


どれほどの時間が経っただろうか。

 私の下敷きになっている彼の体が、微かに、けれど確かな意志を持ってピクリと動いた。

 硬い筋肉が収縮し、彼がゆっくりと息を吸い込む気配が伝わってくる。

 私は弾かれたように顔を上げる。


「アルフォンス様……!」


声が裏返る。

 私の目の前で、氷の彫像のように閉ざされていた彼の長いまつ毛が、微かに震え、そして。

 ゆっくりと、その重いまぶたが持ち上げられた。

 現れたのは、焦点の定まらない、薄く濁ったアイスブルーの瞳。

 だが、その瞳は数秒の瞬きの後、焦点を結び、涙と血と灰にまみれてひどい顔をしているであろう私の顔を、真っ直ぐに捉えた。


「……随分と、騒々しい女だ」


ひどく掠れ、ひび割れた声。

 それでも、それは紛れもなく、私を狂おしいほどに縛り付けてきた、あの低く傲慢な氷の公爵の声だった。


「あ……ああ……っ!」


私はもう、言葉にならなかった。

 彼が生きている。私を置いて、死の淵へ旅立ってはいかなかった。

 その事実だけで、胸が張り裂けそうになる。


「動かないで! 毒は抜けましたけど、傷が深くて、血がいっぱい出て……っ。今すぐ人を呼んで、手当てをしないと!」


私が慌てて立ち上がろうとすると、彼の無事な右手がスッと持ち上がり、私の手首をガシッと掴んだ。

 いつもよりずっと力は弱いが、絶対に私を逃がさないという執念だけは、恐ろしいほどに伝わってくる。


「……どこへ行く気だ」

「人を呼ぶんです! あなたが死んじゃったら、私……!」

「俺は死なん。……お前を置いて、死ぬわけがないだろう」


アルフォンス様は痛むはずの体を微かに起こし、私を自分の胸元へと強引に引き寄せる。

 その顔には、いつもの完璧な冷徹さは微塵もない。

 乱れた漆黒の前髪。脂汗が滲む蒼白な肌。そして、私の顔を至近距離で見つめる、熱を帯びた瞳。

 彼の手が、私の手首からゆっくりと滑り上がり、私の頬へと触れる。

 血と泥で汚れた私の肌を、彼の手のひらが、まるでこの世で最も壊れやすく尊いものを扱うかのように、そっと、ひどく慎重に撫でた。


「……泣く、な」


吐息のような、甘く低い声。


「俺の所有物が、こんなところで無様に顔を濡らすな。……お前には、あの生意気な強がりがお似合いだ」


憎まれ口を叩きながら、彼の親指が、私の目尻から溢れ続ける涙を不器用に拭い取る。

 その指先は血で汚れているのに、私にはどんな極上の絹よりも優しく、そして温かく感じられた。


「……っ、馬鹿です、本当に……っ! 私があなたの所有物だっていうなら、どうして盾になんてなったんですか! 毒刃を素手で受けるなんて、狂ってます!」

「言ったはずだ。……お前は、俺の命よりも重いと」


一切の迷いがない、断言。

 彼の瞳の奥で、私への異常なまでの執着と、それを超えた何かが、静かに燃え上がっているのがわかる。


「お前が俺を打算で利用していたとしても、そんなものはどうでもいい。……俺がお前を求めた。俺が、お前を誰にも渡さないと決めたんだ。そのためなら、この程度の傷、安い代償だ」


その言葉は、私の内側に残っていた『契約』という名の最後の壁を、完全に、そして粉々に打ち砕いた。

 ああ、もう無理だ。

 この男の重すぎる感情から、逃げられるわけがない。

 そして何より、私自身がもう、彼の手から逃げ出すことなど微塵も望んでいないのだ。


「……本当に、我儘で、傲慢で……最低な人」


私は泣き笑いのような顔で悪態をつきながら、彼から逃げるのをやめる。

 ゆっくりと両腕を伸ばし、彼の無事な右肩から背中へと腕を回す。

 裂けたドレスの向こう側、彼の熱い体温が、私の冷え切った体を溶かすように伝わってくる。

 私は彼の広い胸に、自分から顔を埋めた。


「んっ……」

「……リア」


アルフォンス様の低い声が、私の耳元を震わせる。

 彼の右腕が、私の背中を強く、そして決して逃がさないという明確な意志を持って抱きしめ返してくる。

 物理的な距離は、完全にゼロ。

 そして、私たちの間にあった、嘘や偽り、打算や恐怖といったあらゆる精神的な壁も、今この瞬間、完全に消滅した。

 残ったのは、血の匂いと、強い酒の香りと、お互いの狂おしいほどの熱だけ。


「私……ずっと、怖かったんです」


私は彼の胸に顔を擦り付けながら、五年分の大切な本音を、ぽつりぽつりと零し始める。


「五年前に全てを失ってから、誰かを信じるのが怖かった。大切な人ができても、私のせいでまた理不尽に奪われてしまうんじゃないかって……。だから、あなたとの愛のない契約が、私にとって一番安全な逃げ場所だったんです」

「……」

「でも、あなたが私を庇って血を流した時……私、思い知らされました。あなたを失うくらいなら、世界中を敵に回して魔女って呼ばれた方がマシだって」


私は彼を抱きしめる腕の力を、さらに強める。

 彼が微かに痛みに顔をしかめる気配がしたが、もう腕を緩める気にはなれなかった。


「……もう、逃げません」


私は顔を上げ、彼の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。

 涙で濡れた視界の先、彼のアイスブルーの瞳が、わずかに見開かれている。


「あなたが私を鳥籠に閉じ込めるっていうなら、喜んで閉じ込められてあげます。その代わり……あなたも、絶対に私から逃がしませんからね。二度と私の目の前で、こんな無茶をして死にそうになるなんて、絶対に許さない」


それは、ただの平民の薬師でもなく、大逆罪人の残党でもない。

 一人の女としての、強烈な独占欲の宣戦布告。

 私のその言葉を聞いたアルフォンス様は、数秒の空白の後。

 フッ、と。

 彼の整った唇の端が上がり、喉の奥を鳴らすような、低く甘い笑い声が部屋に響いた。


「……いいだろう」


彼の手が私の後頭部を優しく掴み、再び自分の方へと引き寄せる。


「お前のその生意気な誓い、確かに受け取った。……もう二度と、契約などという安い言葉で俺から逃げられると思うなよ、リア」


甘く、そして恐ろしいほどの熱を持った宣告。

 私の唇に、彼の唇が重なる直前。


「キュイッ!」


足元から、空気を読まない元気な鳴き声が上がった。

 ハッとして視線を落とすと、チクチクが私のドレスの裾をよじ登り、私たちの間に強引に割って入ろうと短い手足をバタバタさせていた。


「あ……チクチク」

「……チッ。この毛玉、こんな時まで邪魔に入るか」


アルフォンス様が舌打ちをして不機嫌そうに目を細めるが、その顔には先ほどまでの殺気はなく、どこか呆れたような、ひどく穏やかな色が浮かんでいた。

 私はチクチクを手のひらで掬い上げ、そっと胸元に抱く。

 血みどろの暗殺劇が繰り広げられた死線の部屋。

 だが、今の私の内側を満たしているのは、かつてないほどの絶対的な安心感と、心が溶けてしまいそうなほどの甘い痺れだけだった。


窓の外から、けたたましい足音と、怒号が近づいてくるのが聞こえる。

 西棟の異変に気付いたガルドや騎士団が、ようやく駆けつけてきたのだ。

 これから、私たちはどうなるのだろう。

 アルヴェルトの残党としての私の処遇。襲撃してきた暗殺ギルドや、その後ろにいる貴族連合との全面戦争。

 乗り越えなければならない壁は、まだ山のようにある。

 だが、不思議と恐怖はなかった。

 彼が私の隣にいてくれるなら。この熱い腕で私を抱きしめ、二度と離さないと誓ってくれたのだから。


私はアルフォンス様の胸に寄り添い、静かに目を閉じる。

 偽りから始まった契約結婚は、今夜、本物の執着と、決して逃れられない溺愛の始まりへと、完全にその姿を変えたのだ。

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