シーン1:闇夜の凶刃と、孤軍奮闘の薬師
カチリ、と。
外から鍵が外される硬質な音が、静まり返った部屋の空気を恐ろしいほど鮮明に切り裂いた。
私は分厚いビロードのカーテンの裏から滑り出るようにして、部屋の隅にある巨大な黒大理石の暖炉の陰へと身を潜める。両手には、アルフォンス様の机に置かれていた純銀製の重厚な燭台を、指の関節が白くなるほど強く握りしめている。
ドレスの隠しポケットの中で、チクチクが怯えたように小さく丸まるのを感じる。
「……静かに。私は絶対に、あなたを守るから」
極小の囁き声でチクチクに語りかけながら、私は大きく深呼吸をした。
肺を満たすのは、恐怖で冷え切った空気と、扉の向こう側から這い寄ってくる濃密な『死』の気配。
ギィィ……と、蝶番が油切れの悲鳴を上げ、黒檀の重い扉がゆっくりと内側へと押し開かれる。
廊下の薄明かりを背にして、部屋の中に滑り込んできたのは、三つの黒い影だった。
足音は全くない。まるで幽霊のように、床を滑るようにして侵入してくる。彼らは全身を黒い布で覆い、手には月光を不気味に反射する短剣を逆手に握っていた。
刃の表面が、ぬらりと奇妙な紫色の光沢を帯びている。
――黒蛇草の神経毒。
かすり傷一つで全身の筋肉を麻痺させ、数分で呼吸を停止させる極めて悪辣な毒だ。相手を確実に、そして一切の音を立てずに『処理』するための、暗殺ギルドの常套手段。
彼らはアルフォンス様を狙っているのではない。この部屋に幽閉された、私という『厄災の火種』を確実に消し去るために送り込まれたのだ。
三つの影は、無言のまま手信号で合図を交わすと、音もなく部屋の中へと散開した。
一人は入り口の扉を内側から施錠し、退路を断つ。
残る二人が、ベッドの天蓋のカーテンを一気に引き剥がした。
ザッ! と布が裂ける音が鳴るが、当然そこはもぬけの殻だ。
暗殺者たちが舌打ちをする気配が伝わってくる。彼らはすぐに視線を巡らせ、クローゼット、長椅子の裏、そして……私の隠れている暖炉の方へと、ゆっくりと歩みを進めてきた。
ドクン、ドクン、ドクン。
心臓の音が、自分の鼓膜を破らんばかりにうるさい。
隠れきれるわけがない。このまま見つかって殺されるのを待つなど、五年前の炎の中で母を見殺しにされたあの夜と同じだ。
私は、生きる。
あの時とは違う。泥水を啜ってでも生き延びると決めたのだ。
暗殺者の一人が、暖炉の前に到達した。
黒いブーツが私の視界の端に入る。
その瞬間、私は溜め込んでいた息を爆発させるように吐き出し、暖炉の陰から一気に飛び出した。
「はぁっ!」
気合いと共に、両手で握りしめた銀の燭台を、男の膝の関節に向かって全力で振り抜く。
ゴッ! という鈍い骨の砕ける音が響き、男が声にならない激痛の呻きを上げてガクンと体勢を崩した。
だが、さすがはプロの暗殺者だ。倒れ込みながらも、即座に毒の塗られた短剣を私の首筋に向かって薙ぎ払ってくる。
「……っ!」
私は咄嗟に上体を反らし、ギリギリのところで凶刃を躱す。刃から放たれる甘ったるい毒の匂いが、鼻先を掠めていった。
その反動を利用して、私は手にした燭台を男の顎をめがけて下からカチ上げる。
ガキンッ! と男の歯が強く噛み合わさる音がして、一人は完全に意識を刈り取られて床に崩れ落ちた。
「なっ……! この小娘!」
仲間が素人の一撃で沈められたことに驚愕し、残る二人が即座に私に向かって殺到してくる。
私は倒れた男の体を踏み台にして後ろへ飛び退き、暖炉の上のマントルピースに置かれていた、高価な魔石ランプを両手で掴み取った。
アルフォンス様には悪いが、今は領地の財産よりも私の命が優先だ。
私はその重たいガラスと魔石の塊を、迫り来る二人に向かって力任せに投げつけた。
パァンッ!!
空中で暗殺者が短剣でランプを弾き割る。
だが、それこそが私の狙いだった。
砕け散ったガラスの破片と共に、内部の魔石の粉末と、私が咄嗟に暖炉の灰を掴んで混ぜ合わせた目潰しが、彼らの顔面にまともに降り注ぐ。
「ぐあっ! 目が……っ!」
一人が顔を覆って怯む。
私はその隙を突き、部屋の中央にある巨大な執務机の方へと全力で走る。重い真紅のベルベットのドレスが足に絡みつき、何度も転びそうになるが、必死にスカートの裾を掴んで引きちぎるようにして走る。
ビリビリッ! と高級な布地が裂ける音がするが、構っていられない。
「小賢しい真似を……っ! 大人しく死ね、アルヴェルトの残党!」
灰を浴びなかったもう一人の暗殺者が、猛烈な速度で私の背後に迫る。
早い。
さっきの二人とは動きのキレが違う。間違いなくリーダー格だ。
私が机の裏に回り込むよりも早く、男の蹴りが私の脇腹にクリーンヒットした。
「がはっ……!」
肺から空気が根こそぎ絞り出され、私は無様に床を転がる。
机の脚に背中を強打し、目の前が真っ白にチカチカと明滅する。握りしめていた銀の燭台が手から滑り落ち、カランカランと虚しい音を立てて遠くへ転がっていってしまった。
「ゲホッ……かはっ……」
呼吸ができない。肋骨が何本か折れたかもしれないほどの激痛に、私は床を掻き毟る。
ポケットの中でチクチクが必死に鳴いているが、もうそれに応える声も出ない。
「侯爵令嬢とはいえ、所詮は雌豚か。少しは楽しませてくれるかと思ったが、呆気ないものだ」
男が、血走った目で私を見下ろしながら、紫色の毒刃をチラつかせてゆっくりと近づいてくる。
背中を机に押し付けられ、完全に退路を断たれた。
丸腰。無防備。
男の靴底が、私の裂けたドレスの裾を無慈悲に踏みつける。
「依頼主からの伝言だ。『地獄の底で、お前の母親と共に焼かれろ』……だそうだ」
男が短剣を高く振り上げる。
刃の切っ先が、月の光を受けて残酷に瞬いた。
死ぬ。
本当に、ここで終わるのか。
私は、なんのために五年間も息を潜めて生きてきたのか。
スラムで命を救った領民たちの笑顔が、脳裏を過る。
そして。
最後に私の視界を覆い尽くしたのは、あの氷のような瞳の奥で、私を逃がすまいと異常なまでの熱を放っていた、アルフォンス様の顔だった。
『――他の男に、お前を渡す気はない』
ああ。
私は、彼のあの理不尽なまでの独占欲の奥にある『真意』を、まだ聞いていないじゃないか。
ただの所有物としての執着なのか。それとも、あの不器用な庇護の裏側に、ほんの少しでも別の感情が混ざっていたのか。
確かめないまま、こんな暗闇の中で死ぬなんて、絶対に嫌だ。
私は強く奥歯を噛み締め、振り下ろされる毒刃から目を逸らさず、彼を呼ぶために残された全ての力を声帯に込めた。
「アルフォンス様っ……!!」
私の魂を振り絞るような絶叫が、豪奢な鳥籠の中に虚しく響き渡る。
男の冷酷な嗤い声と共に、紫の刃が私の心臓めがけて真っ直ぐに落ちてきた。
その、刹那。
――ドゴォォォォンッ!!!!
雷鳴のような、耳を劈く凄まじい轟音が部屋全体を揺るがした。
暗殺者が「なっ!?」と声を上げて動きを止める。
施錠されていたはずの重厚な黒檀の扉が、まるで薄い紙切れのように木っ端微塵に吹き飛び、その破片が散弾となって部屋中に降り注いだのだ。
巻き起こった爆風と土煙の向こう側。
廊下の明かりを背にして、そこに立っていたのは。
身の毛もよだつほどの、純粋で絶対的な『殺意』を全身から立ち昇らせる、漆黒の死神だった。




