第十一話 釣書
テレシアは、ただぼんやりと窓の外を見ていた。こうして無為に時を過ごすのは、果たしていつ振りのことだろうか。テレシアの私室から望めるタウンハウスの庭は、どの季節でも見事に咲き乱れた花が鑑賞者の目を楽しませてくれる。何度もその美しさに癒されたものだが、今のテレシアを慰めるには足りなかった。
――隣国との縁談は白紙になった。
数日前に父から告げられた言葉を思い出す。開戦の知らせが届いた時から覚悟はしていたが、いざ正式に決まると妙な虚脱感があった。足場を失ったような、頼りない感覚とでも言おうか。空中に放り出されたような気分だった。
フルリエ公爵家の娘として、いつかは家のために嫁ぐのだと、その時のために努力してきた。隣国の第四王子との婚約が決まってからは、未来の隣国王子妃として、我が国と隣国との懸け橋となるべく、これまで以上に研鑽を積んだ。隣国にとって、テレシアは王国を代表して送られて来る存在だ。一分の隙もないよう、これまで以上に必死に学び、振る舞いを磨いてきた。与えられた役目に相応しい人間となるべく、寸暇を惜しんで努力してきたつもりだ。それがテレシアの使命だと信じていた。
それも、すべて無に帰した。分かっている。身に付けたものは、決して無駄ではない。だが、目的を失った虚しさは消えない。取り残されたような心持ちだった。
この約一年婚約者であったはずの隣国の第四王子とは、ついぞ顔を合わせることはなかった。文通は交わしていたものの、互いに検閲がある中で本心など分かりはしない。それは向こうも同じだったのだろう、開戦以降、定期的に手紙の返事はぱったりと途絶えていた。小競り合いが一端の落ち着きを見せてからも、彼個人から手紙が届くことはなかった。個人的な手紙を届ける術など、いくらでもあるはずなのに。とはいえ、テレシアも手紙を出そうとは思わなかったことを考えれば、お互い様と言えよう。果たされることのなかった政略結婚の相手など、そんなものだろう。
テレシアはすでに十八歳を迎えている。今年の秋には、王国貴族の成人の儀となる秋の祝年会にも出席する予定だった。高位貴族ほど婚約が遅くなりがちとは言え、この年齢で婚約が決まっていないというのは、貴族令嬢としてはいささか微妙な状況だった。一般的な令嬢であれば、行き遅れと言われたかもしれない。しかし、フルリエ公爵家の子女ともなれば問題にはならない。
テレシアは、机の上に積まれた紙束に目を向けた。父が運び入れた釣書の山だ。テレシアの婚約が白紙撤回されて以来、フルリエ公爵家にはテレシアとの婚約を望む釣書が続々と届いていた。
つい先程の、執務室での父とのやり取りを思い出す。父は、婚約の白紙撤回についてはまったく気にしていないようだった。
「今回の件、結果としてフルリエ公爵家は王家の都合で振り回される形になったからな。陛下も相応の配慮はされるだろう。我が家としては悪くない。お前を手放さずに王家に借りを作れたんだ、むしろ良いとも言えるか」
積み上げられた書類の山を捌きながら、父は当たり前のようにそう言った。婚約の解消は初めから織り込み済みだったのかと疑いたくなるような口調だったが、仮にそうであってもテレシアは驚かない。父の政治能力に関しては、理解を諦めて久しい。実の娘であるテレシアですら、彼が何をどこまで見通しているのかは検討がつかない。
「お前の婚姻については再考せねばならんが……今のところ喫緊で縁付きたい家もない。相手は、ある程度お前の意思を尊重しよう。ただし、国内貴族の方が望ましいな。アウレリウスがすでに友好国から妻を迎えている以上、お前まで外国と縁を結ぶと妙な憶測を呼ぶことになりかねない。……まあ、お前がどうにかできるというのであれば外国を選ぶのもやぶさかではないが」
父は一瞬、からかうようにテレシアを見上げた。楽しそうな表情だった。机の上に積まれた書類は、魔法のようなスピードで処理されていく。惚れ惚れするような手さばきだった。
「随分釣書が届いたからな、こちらである程度は選別した。あとで部屋に届けさせるから、確認しなさい。まあ、釣書にこだわる必要もない。我が家に利する家であれば、お前からプロポーズしても構わんよ。それくらいの判断は出来るだろう?」
フルリエ公爵が言っているのはつまり、結婚相手の選定を娘自身に任せるということだ。他家であれば考えられないことだろう。子女の結婚はなかなか切れるカードではない分、貴族家の外交施策としての重要度は最高レベルに近い。普通は当主が決めるか、あるいは主要な親族間での話し合いが持たれる場合もある。少なくとも、十八かそこらの娘に判断を委ねるような決定ではない。冗談のような話だが、父は本気でそう言っている。十八年もこの人の娘をやっているテレシアにはよく分かった。
父は、子どもたちの政治能力を信頼している。そして実際に、少なくともフルリエ公爵家に利する結婚相手を選べる程度には、テレシアの政治能力は高かった。兄のアウレリウスも似たような経緯を経て妻を迎えたが、結果としてその縁はフルリエ公爵家に相当な利益をもたらしている。おまけに兄夫婦の中は社交界有数の円満さだった。父がどこまで計算していたのかは分からない。
「期限は、そうだな……秋の祝年会の後にでも聞こうか。釣書から選ぶのであれば、お前の方で進めておきなさい」
父は相変わらず楽しそうな表情をしている。何を考えているのかはさっぱり分からない。だが、ひとまずは、数年前の兄と同じような裁量を預けられる程度には、父はテレシアの能力を認めているということだ。テレシアにはそれが嬉しかった。
テレシアが執務室を辞す頃には、父の机の上にあった書類の山はすっかり片付いてしまっていた。
テレシアは、机の上の紙束に手を伸ばす。婚約の釣書の、上等な紙の手触りが心地よい。机に向かい、順番に目を通す。国内外の高位貴族や、有望な令息たちからの申し込みが並んでいる。国内の名門侯爵家や辺境伯爵家、友好国の宰相家に新興国の王の末弟――条件としては申し分ないものばかりだ。父の選別を超えただけあって、どの令息を選んでも十分な利益が見込めるだろう。
最後の一人は遠国の大公家の次男だった。ページをめくる手が止まり、思わず息を吐く。
(……いない)
そう思った自分に、テレシアは愕然とした。手放したはずの想いが――いや、手放すことを諦めて、代わりに心の奥底にしまい込んで蓋をしたはずの想いが、それさえ出来ていなかったのだ。
ため息が零れる。机に伏せ、指先で釣書を押さえながら、小さく自嘲した。
「なんて、愚かなのかしら……」
自分の心の浅ましさに、思わず苦い笑みがこぼれる。それは確かに痛みだった。
私は、何を期待していたと言うのだろう。諦めたような顔をして、冷静に判断するようなフリをして、心のどこかで思っていたのだ。もし、あの人がいたら――と。
婚約が白紙になったと聞けば、もしかしたら。
わずかでも、期待してしまった。そんな自分が滑稽だった。
テレシアはゆっくりと立ち上がり、窓辺へと歩み寄る。庭では、手入れの行き届いた薔薇が風に揺れていた。
美しい。けれど、どこか遠い。
(――まるで、あの人みたい)
思い出すのは、社交界で「黒曜の騎士様」ともてはやされていた姿でも、公の場での凛々しい騎士姿でも、大騎士褒章を受けた式典での煌びやかな姿でもない、ただまっすぐに剣を振る彼の姿だった。
もう、五年も前の出来事だ。
まっすぐな……まっすぐな目をしていた。あの瞳を、あの姿勢を、綺麗だと思ったのだ。
――臆病なのは、どちらなのだろう。
テレシアは胸元に手を当てる。
釣書の束を振り返り、小さく息を吐いた。開かれたままの釣書の一つに目を落とす。文字は目に入るのに、心はまだ宙に浮いたまま。自分がどうすべきなのか、どうしたいのか、何一つとして分からない。ただ、自分の心が酷く動揺していることだけは確かだった。




