第十話 葛藤
婚約さえしていた同盟を破った割には、隣国との戦争はあっさりと終わった。戦争とさえ言えないような、小競り合いの規模だった。聞けば、国境を守る強硬派貴族の暴走で、隣国の宮廷は二つに割れているそうだった。
当然ながら、テレシアと隣国の第四王子との婚約は白紙に戻された。両国に大した被害は出なかったものの、実際に戦争が起こってしまったのだ、王国としてもこのままテレシアを嫁がせるわけにはいかない。貴族の暴走を抑えられない王家に嫁いでも、戦争の抑止力とはなり得ない――むしろ、嫁いだ後にテレシアが殺されでもすれば、本格的な開戦が決定的になるという国の判断だった。そんな理由で戦争が始まれば、王国は引くわけにはいかない。被害は小競り合いとは比較にならないほど甚大なものとなる。もしそうなったのであれば、レヴィエントも死力を尽くして隣国を滅ぼしにかかっただろう。
テレシアと隣国の第四王子との婚約が解消された――レヴィエントがその報せを聞いたのは、騎士団の寮の自室で読書をしていた時のことだった。
「なあ、聞けよレヴィエント!」
扉を開けるなり、同室の男――エドガーが声を張り上げた。興奮した様子でいささか乱暴に扉を閉めるエドガーを見上げ、レヴィエントは小さくため息をついた。彼はレヴィエントと同期入団の男で、つまりはレヴィエントの二歳上に当たる。男爵家の四男であるエドガーは、下位貴族ながらに騎士学校を上位卒業する実力者だった。
「なんだ」
「隣国の件だよ!婚約、白紙だってさ。テレシア様の」
エドガーは、どこか嬉しそうに勢い込んでいる。彼の実家は男爵家ながらそれなりに裕福な家だったので、騎士団に入る前、社交界でも何度か見かけたことがある。社交界では堅い印象だったが、話してみれば随分気安い男だった。
レヴィエントが本のページをめくる手が、一瞬だけ止まった。だが、それだけだ。次の瞬間には本に視線を落とし、静かに読書を再開する。
「……そうか」
「なんだその反応。もっと驚くかと思ったのに」
エドガーは肩をすくめる。食堂で話を聞いてまっさきに報告しに来たというのに、随分つれない反応だった。当然ながら、エドガーはレヴィエントがテレシアに恋していたことを知っている。社交界では、レヴィエントの初恋は実に有名だった。
「いやさ、今のお前ならいけるんじゃないか?レヴィエント・ターズウェルっていやあ、今じゃ誰もが知る第一騎士団の有望株、エルハンダラの厄災を退けた英雄だ。お前はもともと名門伯爵家の出だし、礼儀作法は完璧で教養も十分。社交界じゃ独身貴族の優良物件筆頭扱いだぞ。しかも大騎士褒章さえ持ってるときた。あのフルリエ公爵家とだって、十分釣り合うだろ」
エドガーは少し声を落として、にやりと笑う。彼は、レヴィエントの恋を応援していた側だった。
エドガー自身、騎士学校の上位卒業を条件に、格上の伯爵家の令嬢だった恋人との婚約を勝ち取っている。だからこそ、身分差の恋を叶えようと足掻いていたレヴィエントに好意的なのは、ある意味当然なのかもしれない。
「正直、俺はずっと思ってた。いずれこうなるんじゃないかってな」
エドガーはどこか期待したような眼差しを向けるが、レヴィエントの表情は変わらない。
「……行かないのかよ?今なら、何のしがらみもないだろ」
不思議そうに、あるいは少しだけ不満そうに、エドガーが尋ねる。レヴィエントはただ本に目線を落としたまま、何も答えなかった。
しばしの沈黙が落ちる。部屋の中に、ページをめくる乾いた音だけが響いた。エドガーは何か言いかけて、結局言葉を飲み込む。からかうでもなく、励ますでもなく、ただ気まずそうに頭を掻いた。
「……お前さ」
続きは出てこない。
やがて、はっとしたように目を見開く。
「やべ、今日洗濯番だったわ。また後でな」
エドガーは勢いよく踵を返し、扉を開ける。廊下へ出る直前、ほんの一瞬だけ振り返ったが、結局何も言わずに慌ただしく部屋を出ていった。扉の閉まる音が、やけに大きく響く。
レヴィエントは静かに本を閉じた。文字を追っても脳を上滑りしていくばかりで、さっぱり内容が入ってこない。レヴィエントは読書を諦めて本を置くと、ゆっくりとベッドに横たわった。仰向けになり、ただ天井を見つめる。
――婚約、白紙。
その言葉が、胸の中で形にならないまま揺れる。最初に胸に湧いた感情を、レヴィエントは即座に否定した。
――喜ぶな。
それは彼女が選び、受け入れた未来だったはずだ。会ったこともない相手であれ、政略であれ、テレシアは覚悟をもってその婚約を受け入れた。そういう人間だと、レヴィエントは知っている。彼女がどれほど誠実に、自分に与えられた役割を背負おうとする女性かも。
それが、戦争によって白紙に戻された。テレシアは、どんな思いでその報せを聞いたのだろうか。
彼女の覚悟は、何ひとつ間違っていなかったはずなのに。
(……踏みにじられた、という言葉は、強すぎるだろうか)
彼女がどれほどの覚悟で、あの婚約を受け入れたのか。国のため、公爵家のため、自らを差し出す決意をしたはずだ。
それの想いが踏みにじられた。その痛みを思えば、喜べるはずがない。
そう思いながらも、レヴィエントは湧き上がる感情を否定しきることができなかった。胸の奥の、どうしようもなく卑しい部分が、確かに囁いている。
――これで、彼女はもう誰のものでもない。
思わず、奥歯を噛み締める。
そんなふうに思ってしまう自分が、ひどく嫌だった。彼女が背負おうとしたものが壊されたことを、どこかで機会だと受け取ってしまった自分が、どうしようもなく浅ましく思えた。
「……最低だな」
もう、諦めたはずだったのだ。
彼女には婚約者がいて、自分はそれを祝福すべき立場で、だから距離を守ってきた。そのはずだった。なのに――。
わずかでも。ほんの、指先ほどでも。「もしかしたら」という考えが、胸に灯ってしまった。
(……駄目だ)
レヴィエントは拳を強く握りしめる。そんな考えがほんの一瞬でも頭をよぎった自分を、レヴィエントは許せなかった。
自分が動くべきではない。彼女が傷付いたのなら、なおさらだ。
エドガーが何を言いたいのか、レヴィエントにはよく分かっていた。この浅ましい願いに身を任せ、彼女を手に入れろと言うのだろう。エドガーが言うように、今のレヴィエントにはそれが叶えられるだけの地位と名声があった。レヴィエントがそうしたくないと言ったら、それは嘘になる。
だが、今のレヴィエントがフルリエ公爵家に婚約を申し込んだとして――そこに、彼女の意思が介入する余地はほとんどないだろう。レヴィエントは、今の社交界で最も条件のいい男の一人だ。だからこそ、婚約の申し込みは通ってしまう可能性が高い。今のレヴィエントのプロポーズは、政治的な力を持つのだ。今までの、ただテレシアへの想いを告げる行為とは大きく異なる。
ずっと、テレシアの隣に立つために努力を続けてきた。それが叶わないと分かった後は、ただ彼女に認められる男となるために。
レヴィエントにとって、テレシアはひたすらに焦がれ続けた高嶺の花だったのだ。手に入らないことは分かっていた。だからこそ、彼女にまっすぐ自分の想いを伝えることができた。相応しい立場を持たないレヴィエントのプロポーズは、ただレヴィエントの気持ちでしかなかったから。彼女を困らせることのない、安全な無謀だった。
だが、今は違う。今のフルリエ公爵家にとって、テレシアとレヴィエントの婚約は現実的な選択肢になってしまった。今レヴィエントが彼女にプロポーズすれば、公爵の判断一つで、彼女の未来が決まってしまう可能性がある。レヴィエントにはフルリエ公爵に気に入られているという自覚があった。公爵がレヴィエントのことを高く評価している限り、レヴィエントを繋ぐためにテレシアを利用する可能性は捨てきれない。レヴィエントの恋心はとっくに見透かされているのだ。
そうなったとき――自分と結ばれることは、彼女の幸福に繋がるのか。今のレヴィエントは多くを知っている。今の自分の政治的な価値、自分がテレシアに与えられるものがどれだけあって、そして自分には与えられないものがどれだけあるのか。現実とは、想いだけでどうにかなるほど甘いものではないことも。
あるいは。それこそハルミオン侯爵令息のような男の方が、彼女を幸せに出来るのではないか。
レヴィエントは、昨年のフルリエ公爵邸でのパーティーで見かけた青年の姿を思い浮かべていた。柔和な顔立ちで、テレシアの隣に立っても見劣りしない美青年だった。名門侯爵家の跡取り息子で、領地は国有数の豊かさを誇り、本人はテレシアの好きな器楽にも造詣が深い。優秀で人柄がよいと社交界でも評判の、穏やかな人物だ。
彼のような……毎日、無事に帰る保証のある男の方がよいのではないか。
レヴィエントは、騎士の仕事に誇りを持っている。レヴィエントは剣とともに生きてきた。これ以外の生き方など選べない。騎士の仕事は、レヴィエントの天職だった。
だが、騎士はいつ死ぬか分からない。
自分は強い。しかし強さは、死なない保証ではない。明日、剣を折られ、命を落とす可能性は常にある。それでも、レヴィエントには剣を置くことなどできなかった。
そんな男と結ばれることが、テレシアの幸せなのか。騎士としての覚悟と彼女を天秤にかけて、彼女を選べないような男が。
考えれば考えるほど、レヴィエントには自分がテレシアに相応しいとは思えなかった。
「……俺は」
低く、呟きが落ちる。
――愛している。初めて出会ったあの日から、ずっと。
少しずつ彼女を知るたびに、想いは深く重くなった。もう手放すことなどできないほどに。
それだけ愛しているから――。
天井を見つめたまま、静かに息を吐く。
諦めたはずだった。彼女が隣国へ嫁ぐと知ったとき、覚悟したのだ。これから先は、騎士として遠くから彼女の安寧を守るのだと。
なのに。わずかな光が差し込んだだけで、心が揺れる。
(――愚かだ)
消えきらないその小さな光に、レヴィエントはしばらく、目を伏せたまま動けずにいた。




