遅かりし庇護の腕
目当ての住所を見つけるまでにそれほどの時間はかからなかった。王都でも外縁部にある裏通り、それほど悪くもない背割り長屋の一室。ここがそうだ。
コンラッドはドアを軽く二回ノックした。応えの声はなかったが、床板の軋むかすかな音が奥から近づいてきた。
――はい。どちら様で?
分厚い樫板に取り付けられた、小窓の蓋がわずかに持ち上がる。コンラッドは努めて冷静に、部屋の主の名前を口にした。
「……あなたが、レイモンド・トーカーさん?」
――あぁ? そうだが……
「よかった。じゃあ、ジュリア・サーグッドさんはもちろんご存知ですね?」
明るく物柔らかな声音を心がける。だがドアの向こうの人物は、むしろ明らかに動揺した様子だった。
「じ、ジュリアだと? ……あの女なら三年前に死んだ、あんた一体――」
相手の言葉が終るよりも先に、コンラッドは覗き穴に腕を突っ込んだ。
歪んだ材木が軋む音と、それがついに耐えかねて割れ弾ける甲高い音が、ほとんど同時に重なって響く。コンラッドはそのまま一歩を進め、ドアの向こうで身をすくませた男の顔面を指で掴んだ。
「ひィッ!?」
魂消る悲鳴はしかし、コンラッドの掌に遮られてほとんど周囲へ響かない。彼はトーカーの頭蓋を覆う薄い肉に、さらに強く指先を食いこませた。ぬるりと湿った感触が加わる。たぶん出血だろう――
「ジュリアが死んだのは、もちろん知ってる」
「痛い、痛い! 何なんだ、アンタ!?」
返事の代わりに、コンラッドは男の頭蓋から手を放し、戸板と入れ替わるようにドア枠から室内へと踏み込んだ。トーカーの左腕を掴んで背中側へ捩じり上げ、その上半身を床に押し付ける。もう片方の腕はどこへ落ち着かせようもなくなって、いささかおかしな角度で器物のように体側に投げ出された。
「ジュリアの……まあ知り合いってとこだ」
「な、なあッ。アンタなにか誤解してる。ジュリアは病気で死んだんだ……俺は何も」
そういう男の顔はしかし、焦燥と不安でどす黒く彩られていた。
コンラッドは表情に出さず内心で嗤った。実のところここに来るまでにおおよその事は分かっている。こいつはジュリアに――ランディを亡くした彼女に近づき、親切ごかして彼女をまんまと手中に収めたあげく、バカげた苦労を強いて病死させたのだ。
ジュリアとランディはコンラッドの幼馴染だった。彼が王命をうけて遠征に出ている間に二人は結婚したが、コンラッドは二人のために何もしてやることができないままだった。
「……別にいいんだよ、彼女の事はもう、な。だが確か、娘がいたはずだ」
足の下で、トーカーの体がぎくりとこわばった。
「どこへやった? 教えてくれると助かるが」
「し、知らん! 俺は何も――」
トーカーの右腕の小指を、コンラッドは無言で踏みにじった。靴裏にわずかな抵抗と、それが潰える感触。
「――!!!」
声にならない悲鳴があがる。
この男が何も知らない筈はないのだ――トーカーが王都へ出てきてこの長屋に移るまでの短い期間、彼が高レートの賭博場に入り浸って大金をスり続けたのは、事前の調査で裏が取れていた。
「指はあと十九本ある。喋る気になったか?」
「ひぃ……分かった、に、二年前だ。こっちに来る前に回りの奴隷商人に」
ゴリッ――
「あえええええ!?」
「下らん嘘で俺をごまかそうとしたな。これはその罰だ」
旅回りの奴隷商人。そんなものはこの国には近づかない。認可のある取引所以外での売買は違法だし、取引所での価格は、後で奴隷本人が自分を買い戻せるようにごく安価に定められている。
トーカーがバクチでスった金額には、それでは到底足りないのだ。
「く、クソがっ……衛兵を呼ぶぞ、お前のやってることだって違法じゃねえか。私人逮捕に拷問だ、出るとこに出れば……」
呪詛めいて言い募るトーカーに、コンラッドは少し驚きを覚えた。生命や自分の身体の完全性を脅かされてなお、こうも強気に出ていられるものなのか?
トーカーの腕をねじ上げたまま、コンラッドは空いた左手で少し苦労しつつ自分のポケットをまさぐった。小さく巻かれた紙片を取り出し、トーカーの目の前で広げる。
「字は読めるか? 残念ながら、俺にはその手の罪状は適用されない。こいつは四大国の首脳が署名した、その免責証明書だ」
「は……!?」
莫迦な、と吐き捨てかけて、トーカーの目がその紙片のある一点を凝視しし、そのまま釘付けになった。
「それはまさか、三鱗竜皮紙……!?」
なるほど、この程度の男でも聞いたことくらいはあるらしい。コンラッドが広げているのは、強い魔力を持つ竜の皮を薄くなめした貴重な紙だ。書面サイズごとに鱗の基部を三枚づつ残して加工されたこれは、もっぱら最重要の外交文書などに限って使われる。
そしてこの書面の鱗は「赤」。
「ゆ、勇者特許状……」
「そうだ。私人逮捕に拷問、傷害。市街地での武器佩用。住居侵入に民間財産の即時徴発――これら全てが、俺に対しては王命を遂行するための裁量範囲として認められている」
「どうかしてる、まだそんなもんが通用してるなんて! 何なんだ! そこまでする値打ちがあのガキにあんのかよ!?」
「俺にはあるのさ」
特許状には何の制限もないわけではない。私欲のために行使してはならず、全ては正義と善と平和の為でなくてはならない。破れば神意による制裁すらある。無論、そんなことは一般人にはあずかり知らぬことだが。
「わ、わかった。話す、ちゃんと話すから助けてくれ」
コンラッドが肉食獣じみた表情を作って笑いかけると、トーカーはついに折れた。
* * * * *
トーカーがジュリアの娘を売り渡したのは、「寿ぎの家」と称する新興の教団だった、と分かった。
詳しい実態はほとんど世間に知られていない。だが、最近ちらほらと耳にする名前ではある。どうやらあちこちで十歳前後の子供を引き取ったり、時には買い取ったりして集めている――そんな噂が囁かれていた。
(どう考えても、まともな代物じゃあるまいな)
十代の頃から「勇者」として、時には一人、時には数人の仲間と共に、世界の各地を巡って不穏の芽を潰してきたのがコンラッドだった。ようやく五年前に一通りの片がついて、幼馴染の顔を見に故郷に帰ってみれば二人は影も形も失せはてていた、というありさまだ。それからまた時間をかけて、ようやくここまでたどり着いたのだが。
コンラッドは表通りに戻りながら心底うんざりしてため息をついた。だが、どうやらジュリアとランディ――彼らの娘のために、もう一仕事する必要がありそうだ。




