前を向いて、今を生きよう
「ついに、この日がやってきたか……」
門にくくりつけられた白い看板。そこには毛筆ででかでかと、“卒業”の文字。
「ここにくるのも、もう最後か」
綾野怜文、高校三年生。日差しがやわらかくなり、桜の蕾も膨らみ始めた三月某日。本日、俺は高校生の身分を捨てる。
さて、今まで俺の高校生活をなんとなーく振り返ってきたと思う。ざっくりだなぁとか言うなよ。人生という長いスパンにおいては、三年間なんてあっという間なのかもしれない。でも今の俺にとっては、この三年間は極めて長く、何より重要なものなのだ。全部話したらそれこそ、時間なんていくらあっても足りなくなる。他の人にとってはたわいもない日常でも、俺には意味があったりするのだから。
でもまぁ、一年以上年月は流れている訳だから、一応、あれからの流れを軽く説明しようと思う。
実はあの後、きーちゃんが卒業した時に、俺と斗華もそろって部活を引退した。学校の方針が変わり、部活動にいそしんで良いのは高二までという条件を付けられてしまったからである。我が校の進学率の低下を嘆いた、今の校長の判断だった。時代の流れからいって、仕方の無い事ではあろう。寂しいとは思ったが、特に反発をする事も無く、その決定に素直に従った。
その後はまぁ、他にやる事も無いし、受験生らしくただひたすらにひたむきに、試験勉強に努めていた。それ故に、そんな苦労話は要らないだろうとカットしたという事情もある。もっとも、実際にはたまに、息抜き程度には部活に赴いていたのだが。幸い、新入部員も何人か入っていたので、俺達がいなくとも文芸同好会は活動を続けられていたし。わいわいやっている所を、ひょこっと覗きに行くのはなかなか良い気晴らしになった。
それもこれも、織葉が部長として頑張ってくれたからだろう。突然一人にされて、そこから勧誘や説明、運営をこなしたのだ。そういう意味では、申し訳ない事をしたと思っている。しかし意外と、あの子には人望があった。……いや、これではあまりにも上から目線か。織葉に失礼だ。言い変えよう。織葉は歴代の中でも、皆に慕われて好かれている良い部長だ。だからこそ人も集まり、今では立派に文芸同好会の伝統は下の世代へと引き継がれている。
ちなみに、努力の甲斐あって、俺は無事希望する大学に入る事が出来た。……何故だかは分からないが、学部は違えど斗華と同じ大学になってしまったのは、部活の仲間にはしばらく秘密にしておきたい事実である。というか、出来れば黙ってやり過ごしたい真実である。
過去に想いを馳せているうちに、卒業式はいよいよ終盤。今は生徒会長が壇上にあがって堂々と、答辞を読んでいる最中だった。その中で彼は、“未来”という言葉を幾度か口にする。輝けるとか、明るいとか。そんな希望に満ちた言葉と共に、彼は朗々と会場にいる全員に向かって演説している。
――未来、か……。
そういえばこの前、夏葵と話をしていた時に、進路の話になった事がある。
「ねぇ、レイちゃん」
「なんだよ」
あの日は夏葵も部活に来ていて、一通り部員と喋った後、一緒に帰る事になったんだっけ。あれは確か、その時だったと記憶している。
「レイちゃんってこれから、どうするの?」
おっとりした彼女にしては割かし真剣な口調で、突然そう尋ねられた。
「んー、とりあえず経済学部入れたんだから、そこで色々学びとる」
「そうじゃなくて」
何となく、彼女の言わんとしている所は分かっていたのだが、俺はあえてはぐらかした。もし仮に読み違えていて的外れな答えを返すのも嫌だったし、何より俺自身、あまり将来の話はしたくないのである。
真っ暗で何も見えない、未確定で不安な道というのは、案外進みづらいのだ。
「大学卒業して、それで、どうするの?」
そんな俺を心配しているのか、夏葵は答えやすいよう、言葉を選んで問いかけてくる。まるで昔の、いじめられていた時の俺に、手を差し伸べるように。
「どうするって……」
俺の事を本当に考えてくれている、まっすぐな眼差し。今の俺にはまぶしすぎて、思わず目を背ける。
すると、一呼吸置いてから、彼女は自分の事について話し始めた。
「私はね、レイちゃん。大学でちゃんと勉強して、先生になりたいと思ってるんだ」
それは初めて聞く彼女の夢であり、その意外性のあまり、俺は無粋な事を尋ね返してしまう。
「お前、教育学部だったっけ?」
「ううん。理学部。でも、先生になりたい。出来るだけ教育の授業受けて、でも自分の専門分野もしっかり勉強して、それを子ども達に伝えられるようになりたいんだ」
そう語る彼女の眼はすでに先を見据えており、俺の入る余地なんか無さそうに見えた。けれども、俺は聞いてしまう。それが彼女の事を心配しているからなのか、それとも自分の事が不安になったからかは、自分でも分からなかったけれど。
「それ、かなり大変じゃないか?」
「私もそう思う。でも」
俺の意地の悪い質問にも関わらず、夏葵は気高かった。しっかりと自分の理想を、恥ずかしげもなく惜しげもなく、披露してくれる。
「自分が楽しくなくちゃ、生徒も楽しくないと思うんだ」
だから、楽しさを分かってから、教える側になりたい。彼女はそう、笑顔で語った。
それは立派な、目標だと思った。
「そっか……」
ここまで言われて、何も返さないのは流石に格好悪い。だが、生憎と俺にはそんな高尚な理念は無い。だからそのまま、ありのままの現状を吐露した。
「俺にはそんなにやりたい事って、ないんだよな」
「本当に?」
しかし夏葵は、俺以上に俺の事を知っているように問いかけてくる。彼女には全てを見透かされているような気さえした。
「本当に、そうなの?」
「そうなの、って、言われてもなぁ……」
俺が頭をかいて悩み始めると、ここで思いもよらぬ言葉が、夏葵の口から飛び出した。
「レイちゃんは、あの子みたいになりたいんじゃないの?」
あの子。それだけで俺は、ぴんときた。あの夏の日、颯爽と現れて全てを解決し去っていった、あの少年。忘れられる訳が無かった。
「……見てたのか」
「レイちゃんの事なら、何でも」
「敵わないな」
苦笑交じりに、そう呟いた。全く、見ていないようで、大事な所はちゃんと見ているんだ、こいつは。
何も言わなくったって、話さなくったって、夏葵には俺の想いが伝わっていた。
「探偵、目指してみたら?」
こんな後押ししてくれるのは、こいつだけだ。探偵なんて不安定な職業、誰が勧めるものか。きっと、だから俺は無意識のうちに、頭の中からその考えを捨ててしまったのかもしれない。それを彼女はわざわざ拾って、持っていてくれたのだ。
本当の事を話せば、実はあの美少年に会ってからやっと決心がついて、俺も推理小説を書くようになっていた。準先輩にはまだまだ届かないレベルだし、稚拙極まりない出来だけれども。でも。
「そうだな、それも悪くない」
そのぐらいには、思い続けていた。いつか自分も、あの少年のようになれるんじゃないか。そんな淡い、淡過ぎる期待と共に。
俺の目の色が変わった事で、彼女も安心したのだろう。最後に、こんな事を尋ねてきた。
「あとさ」
「ん?」
「なんで経済学部?」
その質問は、今までに聞かれたものの中で最も簡単なものだった。だから俺は簡潔に、こう答える。
「将来ほら、何かと役に立ちそうじゃん。経理とか経営とか」
「……現実的、だね」
そうだ。俺はいつだって、“今”しか見ていないんだ。
そうこう考えているうちに、卒業式は終わった。クラスに戻り、ホームルームを終え、携帯を見ると、そこには後輩からの呼び出しのメール。すぐさま俺は、部室へと向かった。
「あれ、夏葵」
「やっぱりレイちゃんもかー」
「だろうな」
そこには当然のごとく、先に夏葵が来ていた。まぁ、それが妥当であろう。もし仮に俺だけ呼ばれたとしたら……。それはあまり、よろしくない展開になった気がする。
『先輩』
声のした方を振り返ると、そこには織葉をはじめとする文芸同好会の部員達が顔をそろえていた。
『短い間ではありましたが、ありがとうございました』
まさか、自分がこうやって見送られる立場になろうとは。不覚にも感動しつつ、彼らから小さな花束と、冊子を受け取った。冊子というのは、またの名を卒業特別号といい、卒業していく先輩達に向けて思い思いの文章を綴り、一冊の本にまとめたものである。これだけは他に公開される事も無く、また見本として取っておかれる事も無い。本当にその年の卒業生の為だけに作られる一冊であり、俺はこの伝統を最も気に入っていた。
勿論これが、“文芸同好会の伝統その一”である事は言うまでも無い。もっとも、今よりも未来に重点を置くこの姿勢は、最初に聞いた時は理解に苦しむものだったが。
「ありがとう」
夏葵が後輩との別れを惜しんでいる中、俺は冊子をぺらぺらとめくっていた。どうやら、今年は皆でテーマを統一して書いたようだ。表紙の桜の絵が、それを象徴している。その所為かより一体感があって、俺は好きだと思った。うん、良く出来ている。
「いかがですか?」
気が付くと、織葉が隣に来ていた。ここで嘘をついてもつまらないだけ。俺は素直に、称賛を贈る。
「良い出来だよ。お前、本当良い部長だな」
「……ありがとうございます」
一方、俺が普通に褒めた事に面喰ったのだろうか。言われた方の織葉は少しきょとんとしてから、にこりと笑って一礼した。そして、
「稜先輩も、良い先輩ですよ」
と微笑む。こういう切り返しが出来る所が、この後輩の素晴らしい所だと思う。
……まぁ、次のこの一言は、余計な御世話だとも言いたくなったけれど。
「斗華先輩を、大事にしてあげてくださいね」
それに俺は、あえて答えない。それでも彼女は、“応じない”という態度を解答ととってくれたのだろう。こうも付け加えた。
「その為なら私は、いくらでも力をお貸ししましょう」
「頼もしいな」
これには流石に苦笑した。全く、どうして俺の周りには、格好良い女の子が多いんだか。
「はい、私は頼りになりますよ?」
本当、この後輩とは長い付き合いになりそうだ。何故だかそんな風に思った。
「ねぇ、レイちゃん」
「ん?」
後輩達に見送られながら帰りがけ、夏葵は少し口を尖らせてこう言った。
「織葉ちゃんと、何話してたの?」
「別に? ただ、今後ともよろしくなって」
「ふーん。それだけ?」
「それだけ」
ここで話を終わらせても良かった。実際、織葉と交わした言葉なんて、この程度だろう。
しかし、それではこの、頬を膨らませてすねる少女に、あまりにも失礼というものだ。
「ああ、そうだ」
根が天邪鬼な俺は、彼女の言葉を引用する事しか出来なかったけれど。伝えないよりはましだと思った。
「お前を大事にしろ、ってさ」
これは俺の、本心でもあるのだから。
聞いた途端、夏葵は頬を赤く染めた。それを見られないようにそっぽを向いたのだろうが、残念ながら少し遅い。ばっちりと記憶させてもらった。その一連の表情の移り変わりが愛らしくて、思わず笑みがこぼれる。
だが俺が笑っている事が、よっぽど悔しかったのだろう。せめて最後の抵抗にと、横を向いたまま彼女は俺を試しにかかった。
「……織葉ちゃんに言われたから、なの?」
「いや?」
けれどもそのぐらいなら、俺でもきっちりと答えられる。
「元々、そのつもりだよ」
「……なら、良い」
そう言って、夏葵はにっこりと、嬉しそうに微笑んだ。
この笑顔がもしかしたら、高校生活三年間の中で、一番の宝物なのかもしれない。柄にもなく、心からそう思った。
式自体が終わったのは、午前中だったはずなのに。帰る頃にはもう、すっかり日が傾いていた。
中学生の時の自分のままだったら、こんなにも別れを惜しむ事は無かっただろう。本当、俺は変えられてしまったようだ。この学校と、ここの生徒達に。
「今までお世話になりました」
最後には深々とお辞儀をして、三年間通い続けた学校を後にする。門を出てからは後ろを振り向く事無く、ずっと前を見ていた。
そんな訳で、俺はめでたく、卒業と相成ったのである。




