プロローグ
――ハァッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ――
月明りさえ通さない、闇に包まれた森の中。喘鳴を上げて少女は一人、走っている。息も絶え絶えで額からは汗が流れ、肺は限界に悲鳴を上げているというのに――止まらない。
いや、止まらないのではない。止まれないのだ。必死の形相で走り続ける少女の頬に、汗だけでなく涙が伝う。悲しみから出た涙ではない――それは恐怖から流れた涙だった。
(――嫌だ。まだ、死にたくない――)
それだけ。考えられるのはただそれだけだ。だから少女は逃げている。月明りさえ通さない、闇に包まれた森の中を。背後から近づく死の恐怖から。
――だから、少女は足元の大地から盛り上がる木の根に気づけなかった。
「ひ、ぅっ!? ――あぐっ!?」
何かにつまずいた。その瞬間に体が浮いて、少女は地面を転がった。被っていた帽子が落ち、肩下げを装ったそれがちぎれ、中から爬虫類の尾がまろび出る。
痛みは感じなかった。ただ、息がもうできなかった。ぜぃ、ぜぃと息を吸っても、苦しさがなくならない。
逃げなければならないのに、もう体が動かない――
その背後から聞こえた、声。
「――鬼ごっこは、もう終わりか?」
「ひっ……!?」
心臓が跳ねる。恐怖に体がひきつる。怯えながら背後を振り向けば、そこにいたのは二人の男だった。鍛え上げられた体をした壮年の大男と、マフラーで顔を隠した、まるで盗賊みたいな小男の二人。
大男は森の隙間から。小男は樹上を飛び移って、闇から姿を現した。
相手のことを深く知っているわけではない。それでも、その男たちは知り合いだった、はずだった。仲間とまではまだ呼べなくても、これから同じ“同僚”になるはずだった。
なのに、今――その二人に、殺されようとしている。
無表情な、のっぺりとした顔で大男が呟いた。
「まさか、“悪魔混じり”だったとはな……そりゃ、キャスバドも喜ぶわけだ」
「……!!」
「悪いな。そういうわけだから、死んでくれや」
「――……ゃだ、やだっ……やだぁっ……!!」
もう立ち上がれない。それでも逃げようとして、少女は必死に後ずさった。土をつかんで、震える足で押しのけて、どれだけ無様でも生きようとした。
だが、もう下がれない。どん、と背中に何かが触れた。
ただの木だった。だが少女は呼吸を止めた。悲鳴すら上げられなかった。もう逃げられないと、わかってしまったからだ。
(――どうして)
どうしてこうなったのか。それがわからない。何が悪かったのか。どうすればよかったのか。何をしたからこんなことになったのか。わからない。そんなこと、わかるはずがない。
生きていくために、冒険者になろうとしたのに。
涙で歪んだ世界の先で。ばつが悪そうに大男が言った。
「そんな目で見るなよ。悪いとは思ってんだ。だが……俺だって、まだ死にたくねえんだ」
――だが、少女は聞いていなかった。
そんな意味のない言葉よりも。
「――おお、天秤よ――」
はっきりと聞こえた声があったからだ。
「我が愛しのアバズレよ!! 裁の雷矢、断の火句、廻り束ねて咎人を討て!!」
その、声が。
ただ力の身を宿した声が、夜の闇に轟いた。
そして雷が。夜を裂いて小男を打ちつける。
矢のように放たれた雷だ。直撃した男はひとたまりもない。悲鳴すら上げられずに、小男は炎上しながら樹上から落ちた。
「なに、が――」
起きたのか。
わからないまま呆然としている少女が聞いたのもまた、声だ。
「――“殺して奪って、大儲け”――」
とうに枯れ果てた、老婆の声――だが童女のように、心底愉快だと弾む声。
「――“夢見たマヌケがやられて“チクショウ!” ってなぁ!!」
声のほうへと少女が振り向けば、そこにいたのもまた、二人分の人影だった。
神官服を窮屈そうに着ている老婆と、どこか呆れ顔をした旅装の青年。
いつの間にそこにいたのか。どうしてそこにいたのか。それは少女にはわからなかったが。
老婆は凄惨に頬を吊り上げると、少女に向かってこう言った。
「よお、ルーキー。地獄の沙汰も、金次第だぜ――助けてほしけりゃ金出しな!!」
「……それは聖女のセリフじゃないよ、ヨランダ」
呆れたようにうんざりと、青年がぽつりとつぶやくが――
――思えば、これが。
“悪魔混じり”の少女、ウリスが人生を踏み外した最初の一歩だった。