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 時は遡り三年前、イザベルが両親を亡くしてから五度目の夏。


 傷だらけのキャリーケースを引き、継接ぎだらけの鞄を背負って、イザベルは歩いていた。廃屋と呼ぶべきか瓦礫の山と呼ぶべきか、崩壊したかつての住宅街。なるべく影になるところを選んでいるが、ずっと歩いているせいか身体は燃えるようだ。イザベルは、首にかけたぼろ布で噴き出た汗を乱暴に拭った。 


(早く楽になりたい)


 周辺の建物は、外壁が多少残っているものの損傷が大きくて、屋内――と呼べるほど外と隔たれていないが――に使えるような遺物はなさそうだ。


 ちょうどいい瓦礫を見つくろうと、イザベルは足を止めてキャリーケースを地面に倒した。今日はここで夜を越す。


 キャリーケースから毛布などの野営に使うものを取り出す。元々あったであろう屋根はあまりに心許ないので日避けを張り、それを終えるとイザベルは閉じたキャリーケースに腰を下ろした。自重から解放された足の裏が、途端に疲労を主張する。


(早く楽になりたい)


 縦長のベルトポーチに手を突っ込む。いつまでも手に馴染まないその硬質な感触を確かめて、イザベルは心を落ち着かせた。


 明るいうちに水を確保しなければならない。川の場所は幸いにも把握している。それでも再び立ち上がるのがひどく億劫だった。


 イザベルは、森が苦手だ。雨量が多くなければ水源の近くを生活拠点にしたほうが何かと楽ではあるのだが、理性よりも心のもっと根っこのところで忌避感がある。


 虫が嫌いだ。


 生き物の気配が嫌いだ。


(早く楽になりたい)


 イザベルの心は、限界だった。


 喉が渇いたら潤す。空腹が耐えがたければ満たす。手持ちの地図の、まだ印のない土地に向かう。眠る。探す。たどり着いた土地に×印をつける。そして、また違う土地に向かう。


 その繰り返しの毎日だ。


 法という秩序のない世界で、女の一人旅が安全なはずがない。命を奪われそうな場面をギリギリで脱したことも、一度や二度ではない。自由を、尊厳を、ギリギリのところで守り抜いてきた。ギリギリ、ギリギリとその度に心を軋ませて。


 早く楽になりたい。


 旅を、命を、自分の手で終わらせるという選択肢はなかった。頑張ったけど出来なかったという免罪符が欲しかった。


 死神を、待っていた。


「動かないで。変な動きをしたら殺す」


 背後から聞こえたのは、甘いソプラノだ。花のような甘い香りが鼻先に漂う。首元には、冷たく硬いものが押し当てられている感触があった。目視で確認はできないが、おそらくナイフだろう。


 ベルトポーチの中身に触りたい衝動に駆られるが、理性で押しとどめる。


 油断した。このところ寝不足だったのがいけない。緊張で呼吸が浅い。喉の渇きを強く感じる。


 相手は一人のようだ。疲れていたとはいえ、これほど接近を許すとは不覚だった。


「今から見せる似顔絵について、分かることを教えて」


 背後で物音がする。首元の圧迫感が緩むことはない。


「…………」


 唾を飲み込むことすら躊躇う緊張感。


 しかし、取り出すのに手間取っているのか、似顔絵とやらは一向に差し出されない。


「…………」


 血の気が引いていく。耳鳴りがする。音が遠のいて、視界がどんどん暗くなっていく。緊張、浅い呼吸、脱水症状。思い当たる原因は多い。


 どうにでもなれ、という気分で声を発した。


「すまない、横にならせてくれ」


 耳元に聞こえるのは、先ほどより低く怒気をはらんだ声だ。


「なんで? まさかお前、あいつの仲間?」


 お前の手際の悪さのせいで、『あいつ』が誰だかも分からん。


 感情的に返したい気持ちをギリギリで押しとどめた。


「具合が悪いんだ」


「だから何?」


「質問には答えてやるから、話を聞け。このままじゃ意識がなくなって答えられん」


 首の圧迫感が緩んだ。イザベルは崩れるようにキャリケースから降りて、地べたに横になった。目を閉じて、荒く呼吸をする。遠のいていた感覚が、ゆっくり戻ってくる。


 息が整うまでどれほどの時間を要しただろうか。背後から視線をずっと感じていた。


「すまない。待たせた」


 目を開けて、身体を起こす。服が砂で汚れているが、あえて掃うことはしない。自分に抵抗の意志はなくとも、背後の女がそれを『変な動き』と見なしたら、その瞬間に殺されるだろうから。


 さっきまであんなに終わりたがってたくせに、実際に目前にすると逃れようとする往生際の悪さを、笑いたい気分だった。


 差し出されたのは、古い本から破り取られたであろう薄い紙で、二行ほど印字された旧文明の文字があるが、それは関係なさそうだ。掠れた茶色いインクで、男の顔が描いてある。よく観察すると、左腕になにか模様が描いてあるが潰れて判別できない。


「これは刺青か?」


 振り返ることはせずに、背後に問う。


「ニタついてる蛇のイラストが、そこに描いてあった」


「なるほど」


 疲れていた。動揺していた。苛ついていた。自暴自棄になっていた。相手が女だった。


 様々な要因が絡み合い、イザベルは柄にもなくリスキーな発言をした。


「本当に探す気があるのか?」


「は?」


 相手の殺気を感じ取り、口早に続ける。


「紙の質が悪くて劣化が激しい。それに、インクが滲んでいて分かりにくい」


 指摘については薄々感じていたようで、背後から反論はない。


「これよりいい紙とインクが、このキャリーケースに入っている。それをやるから、書き直すといい。私が動くのが信用ならないなら、荷物を自由に漁って構わない」


「……動いていいよ。だから、頂戴」


「顔を見ても、殺さないか?」


「殺さない」


 イザベルは、身体の緊張を解いた。警戒心は緩めずに、キャリーケースから紙とインクとペン、それから下敷き用に薄い板を取り出す。


「好きに使ってくれ。私は野営の準備をする」


 服についた汚れをはたき落としながら、イザベルは立ち上がる。そして、ようやく女の容姿を確認した。


 やや低い背丈と顔立ちのあどけなさから、可憐な印象を受ける。月明かりのような金髪は、ウェーブを描きながら腰まで伸びていた。


 女と、目が合う。


 深緑の瞳は、興味深そうにイザベルを観察している。そして、蕾がほころぶように女は笑った。


「ありがと」


「……ああ」


 死神にしては愛らしすぎるな、とイザベルは思った。

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