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女が描き直した人相書きに、心当たりはなかった。
「役に立てなくてすまないな」
野営の準備を一通り終えたイザベルは、瓦礫に腰掛けながら言う。
「ううん。そんなことより、お礼したい。何のお肉がいい?」
肉なのは決まってるのか、という言葉を飲み込む。
どうやら懐かれたようで、シャノンはイザベルにきらきらした眼差しを向けている。純粋な好意がくすぐったくて、イザベルは居心地の悪さを感じた。
「じゃあ、食べやすいやつで頼む」
「分かった!」
弾けるような笑顔で頷くと、女は弓と矢筒を背負って森の方へ走り出した。
(不思議な奴だ)
遭遇時に見せた剥き出しの敵意。協力を申し出てからの天真爛漫な笑顔。自分自身に素直に生きているその姿が、イザベルには羨ましく思えた。
ベルトポーチの中に手を伸ばし、杖の感触を確めてようやく人心地つく。
(使命なんて放り出してしまえたら、どれだけ楽だろう)
自分の心に従うなんて、イザベルには到底出来そうになかった。
緊張が緩んで、どうやら眠っていたらしい。イザベルが目を覚ますと、食欲をそそる刺激的な匂いが鼻孔をくすぐった。
「あ! もう少しでご飯できるよ~」
女は、肉をふんだんに入れたスープを作っていた。荒らされた荷の有様を見るに、鍋も香辛料もイザベルのものを使っているらしい。イザベルは呆れたが、もはや文句はない。それどころか、好き勝手振舞う彼女に付き合わされるのも案外悪くないと思っていた。
「あんた、このあたりに住んでるのか?」
イザベルが訪ねると、女は不満げに頬を膨らませた。
「シャノン」
「え?」
「名前! あんた、じゃなくて、シャノン」
「ああ。……シャノンは、このあたりに住んでるのか?」
人の名前を呼ぶのは、久しぶりだった。
旅の途上で物を売り買いしたり、世話になってその礼をしたり、人との関わりはそれなりにあったが、大抵は二人称で済むことだった。
「ううん。さっき見せた人のこと探してるんだけど、なかなか見つからなくて。あっちの方から来た」
女――シャノンが指差すのは日が沈んだばかりの方角。イザベルの目指す方角だ。
イザベルはベルトポーチから地図を取り出して、シャノンに見せるように地面に置いた。
「この地図でいうと、どの辺りだ? 地形や汚染区域の情報があれば教えてほしい」
シャノンは地図を一瞥して、首を傾げた。
「分かんない」
本当に闇雲に捜し歩いているのだろう。他人事ながら、彼女の旅路が心配になる。
そんなことより、とシャノンがニコニコしながら問う。
「あなたの名前は?」
「……イザベル」
「イザベルは、どこから来たの?」
「私は――」
本当のことを言うか逡巡したが、真っすぐに自分を見つめる翡翠の瞳の圧に負けて、ぽつり、ぽつりと、イザベルは話し始めた。
「東から。生まれてからずっと、旅をしている」
イザベルはベルトポーチから、細く短い杖を取り出した。
「世界を救う力を秘めた杖、らしい。聖杖と両親は呼んでいた。この杖の、真の持ち主を探すこと。それが旅の目的だ」
イザベルは、両親からその使命を託された。両親もまた、別の誰かから託されたのだという。正しい持ち主に杖を渡すために、両親はその一生を捧げた。
「すごい。じゃあ、あなたは救世主だね」
シャノンは鍋の世話をする手をとめて、目を輝かせていた。
「はあ? 話聞いてたか。私が救世主を探してるんだ」
「でも、救世主とその杖がいっしょになってはじめて、救世の力?を発揮できるんでしょ。だったら、生まれついての救世主よりすごいよ。イザベルは救世主を救世主にする救世主だよ!」
爛々と輝く瞳に圧倒されて、イザベルは何も言えなかった。
「それだけじゃなくて、これまで諦めずに次の人へ託してくれた、イザベルのお父さんもお母さんも、お父さんとお母さんに託してくれた人も、みんな、みーんな、救世主だねえ」
出来上がったらしいスープを器に盛りつけて、シャノンはそれをイザベルに渡した。受け取ると、器から手にじんわりと熱が伝わる。
何も、変わらない。
これからも途方もなく長い旅が続くこと。きっと、一生を費やしても、見つかるはずなんてないこと。それは、これまでもこれからも、何も、変わらないはずなのだ。
イザベルの言葉を聞いて胸にこみあげてきた感情を否定したくなって、イザベルはぶっきらぼうに続けた。
「正直、私は両親の言葉を信じてない。だって、杖を触っても私には何の力も感じられない。悪い奴に騙されたか、頭のおかしな人間の戯言を真に受けたか、そんな発端なんだろうと考えている」
シャノンが自分の器に料理をよそいながら、穏やかな声で問う。
「じゃあ、どうして今日まで続けてきたの?」
「……怖かったからだ。万が一、本物だったら。私が諦めたら、世界が救われないのは私のせいだ」
「強いね」
「強い? 弱いの間違いだろう」
(だって私は、こんなにも終わりたい)
自嘲気味に笑うイザベルに、シャノンは不思議そうな表情で返す。
「強いよ。だって、世界が終わっても、誰も責めないでしょ。責める人も死んでるだろうし。もし誰か生きてたとしても、自分が原因だなんて、誰にも分かりっこないよ」
「もう、お前が知ってしまっただろう」
日もとうに沈み、辺りはすっかり暗くなっていた。薄闇の中で焚火だけが明るく、シャノンの顔を照らしている。
「じゃあ、二人だけの秘密にしよっか」
唇に人差し指を当てて、シャノンは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
涼やかな夜風が、イザベルの頬を撫でていく。
不安だった。寂しかった。つらかった。
自分には重すぎる荷なんて、早く下ろしてしまいたかった。辞める言い訳を探しながら、そんな自分の卑劣を詰っていた。
それが、こんな子ども騙しみたいな言葉に救われてしまうなんて、どうかしている。
「さ、食べよ!」
スープを口に運んで、シャノンは楽しそうに笑う。
イザベルも思わずつられて笑みをこぼす。
もう少し頑張れそうな気がしていた。




