象徴について
よくこんな遊びを思いつくなあ、と駆け出し社員のフィオナは思った。
即興映写講と呼ばれる遊戯である。
活動画幕の前で、発表者が聴衆に向けて語っている。プレゼンテーションである。発表者はしっかりした衣服と姿勢で、堂々と喋らなければならない。
「では、その効果を次のスライドでご説明します」
発表者が自信満々に言って、画面が切り替った。映写されたのは、牛に似た形の雲が浮かぶ青空のスライドだった。
会場が笑い声に包まれた。きっと全員が声を立てて笑った。フィオナも笑ったし、発表者自身も噴き出すのを堪えていた。
発表者はスライドの中身を知らされていないのだ。登壇してからお題を伝えられ、初めて見るスライドを使って発表を行なう。
スライドには、まったく一貫性がなく、発表資料として意味をなさない画像で構成される。
「ご覧のように、空気中の塵が少ないと、空が澄んで見えるのです。こちらの雲、輪郭がはっきりしていますね」
発表者は動じない様子で喋り続けた。破綻したスライドで話を組み立て、堂々と喋ることが、発表者には求められる。
数人のプレイヤーが順に登壇して発表し、最も巧みだった発表者を、聴衆の拍手によって決定する。
即興映写講と呼ばれる遊戯である。
日常業務としてフィオナはスライド資料を作成した。
慣れないうちは、機序や新しい工夫といった、技師の関心事をそのまま載せたものだった。
「これじゃあ何が言いたいのか伝わらないよ」
ふつうお客は、機序や新しい工夫に興味があるのではない。何ができるのか、どういう違いを生むのかを、説得的に示す必要がある。
思えば、過程の違いを理解するとは、それにより結果がどう変わるかを通して、理解するものだ。
古いことわざに曰く「例は試金石」だ。試金石というのは平らな石で、これに金銀を擦って筋をつけ目視することで品質を知る。
見えない違いは、見える作用の違いによって明らかにする。
伝えることを伝える技術、伝えないことを伝えない技術、伝えることと伝えないこととを判別する技術を、フィオナは学んだ。
資料作りについて、基本から始めて成長し、できの良さについて自分なりの基準を持った。
棟梁はいつも忙しそうだ、と思っていた。棟梁は、多くの進行次第を管理し、資料を使って説明する役割も多く受け持った。いつ発表資料に目を通しているのだろうか、とフィオナは不思議に思った。
新しい記載事項があるのだと、直前になって依頼されることもあった。
「確認していただく時間がなくなります」
「構わない」
フィオナが気づくのに時間はかからなかった。ああ。目を通して、いないんだ。
忙しい棟梁にとって、見たことのない資料を使って人に説明するのは日常茶飯事だった。
フィオナには、信頼されていることが嬉しくもあり、不安でもあった。作成者がめちゃくちゃなスライドを提出したら、どうするつもりなんだろうか?
疑問への答えは、すでに知っていた。
即興映写講は、ふだんの業務をゲームにしたに過ぎない。
むしろ、遊びを演じるのをふだんの業務としているのではないのか。初見の資料をもとに喋っていることを、聞き手も承知で、いかに巧みに演じるかが評価されているのではないのか。
ともかく不安は解消した。作成者がめちゃくちゃなスライドを提出しても、業務は破綻しない。
そして、信頼に沿おうという意欲が残った。
「久しぶりだね。探索者ヴィクロム・インヴィット君」
生垣の小径を木漏れ日が照らす。ここは迷宮、無形魔王城である。庭園の階層だった。
「ああ! えっと、お久しぶりですね! 以前は何とお呼びしていましたっけ」
庭園で、一つの影が待ち受けていた。夜空の色の装束をまとう女の人物だ。
「魔女のお姉さん、なんて呼んでくれていたね」
「そうでしたっけ」
探索者ヴィクロム・インヴィットの記憶に、この人物はなかった。
「さあ。第一次祭祀改革と近古代の話をしよう。何が起こったか思いつくか?」
「試験問題に出てくる対話文のパロディですか? 第一次祭祀改革以降といえば、宮廷の恋愛詩が盛り上がったとか?」
当世にいう試験問題に出てくる対話文で、文化史の話題が最初に提示されることは少ない。牽制である。魔術戦はすでに始まっている。
「へえ? そんなもの読むんだ?」
「そんなものを読んだら悪いかよ?」
宮廷恋愛詩は、近古代を代表する文化である。ふつう、徳高い騎士から貴婦人への尊敬を恋愛に擬して歌う。定番の題材の登場人物に、実在する武人や妃が重ねられる。
「宮廷恋愛詩の流行には、当時の王権をめぐる社会状況が現われている。
まず、いいかい。武家の女の本分は、ナメた輩を恨み続けることにある。男は一時だけ怒ってすぐ水に流そうとするため、武家の名誉を保つには、女が覚えておかねればならない」
「初めて聞く性役割ですね。というより階級と性による役割ですかね」
「中古代、戦乱の時代の男はバタバタ死んだ。五十年百年先を見据えるのは女の仕事だった。男は死ね、と蹴り出す仕事も含む。
近古代、比較的平和な時代になれば、武家の名誉を女が担い、武家の実益を男が担った」
帝国は崩壊し秩序は失われた。中古代、色々な部族が集っては散らばり、抗争を繰り返した。
第一次祭祀改革の前後で混乱は落ち着き、近古代と呼ばれる時代に入る。
「武家の名誉を女が担うっていうと、聖堂が黙っていそうにありませんね」
聖堂は、武家の戦闘に秩序を与え、権力を確立していったと知られる。近古代を通して、聖堂と各地の有力武家との間には緊張関係があった。
一方、天教は伝統的に男尊女卑を説いたものと、当世で認識されていた。
「俺でも、ありそうな非難で単純なものが思いつきます。
安全な後方にいると威勢がいい、現実が見えていない、おだてられて調子に乗っている、とか」
「ほう! なるほど。君には、容易に思いつくんだね。後世ではよくある発想なんだろうね」
「俺が思ったってわけではありませんよ。悪しき伝統だ」
「ふふ。何かと何かが戦った結果、君より少し前の時代の規範ができたんだろうね。当時の宮廷で、そんな非難は、一笑に付された」
近古代当時、名誉を重んじる立場から助言をするのは武家の女の鑑と考えられた。敵に対して妥協を図る男を叱りつけるのは、武家の女の美徳だった。
武家社会において、怒声を上げながらも落としどころを探るのが男の仕事である。恭順を示しながらも恨みの記憶を保つのが女の仕事である。
「何かと何かの戦いって、何も言っていませんね。聖なる権力と俗なる権力のことですか?」
近古代について有名な話である。教主たちと王たちは争った。
王侯貴族は天教の僧たちを鬱陶しがった。武力による庇護下で暮らしながら、統制を受けないからである。
天教権力は武家を弱体化させようとした。勝手な法を作って、天教世界の人々を不自由にするからである。
「少し違うな」
「違うんかい」
「各地の政権も中央の聖堂も、それぞれ正当性の確保と利益の追求を両立する必要があった。
名誉社会と貨幣経済、封建制と私貿易、王族と諸侯、女たちと男たち、多方面にわたる複雑な争いが起こっていた。聖なる権力の世界でも、男所帯の官僚団と、尼僧館や苦行林との間で緊張があったよね。
俗なる権力、武家政権の方では、王や妃や騎士たちが宮中儀礼を演じたってわけさ」
「聖俗と別の軸として、名誉と実益とのせめぎ合いとでも言うべきものがあったってことですか」
探索者ヴィクロムは簡単にまとめた。
「いいね。先ほど、聖堂が黙っていそうにない、と言ってくれたな?
もちろん黙っていなかった。勝手な戦争は天教敵対、武家の名誉を重んじるのは邪神崇拝、家長に指図する女は邪教の巫女も同然、といったところだ。
王たちが武家の女を軽んじてくれれば、俗なる権力は不安定になると、聖堂の僧たちは考えた。たぶん正解だ。
名誉を捨てた貴族など、ただの賊だ。二代か三代すれば、自分やごく狭い仲間を富ませるために家の名誉を捨てる、といった合理的な判断を下して滅亡に転落だよ」
「なるほど。ぼんくらの跡継ぎですか」
ヴィクロムは相槌を打った。男がどうした、女がどうした、という話への深入りは避けた。
男がどうした、女がどうした、という話を避けたことを、魔女は理解した。
「ふむ。君はいま、この論の由来を、論者の立場に見出したのかな。
魔女のお姉さんは昔の家父長制社会を女として生きたから、こう考えたのだと、思ったのではないか?」
対人殺法と呼ばれる強力な技がある。術師の属性に訴えることで、魔力を帯びた論を却下することができる。強力なだけに、さまざまなリスクが伴う。安易に使うことはできない。
「そんなこと言いませんよ。魔女のお姉さん。あなたが昔の家父長制社会を女として生きたことも、今言われてやっと思い出しました。つらい思いもされたことかとお察しします。
話を戻します。王位についた個人の関心が、過去から未来にわたる王家の利害と衝突することは、ままあったんでしょうね。
ところで、聖堂は王位の正当性の源泉を握っていましたね。聖堂の指示を受ければ王は、これ幸いと、女の人々の言うことを無視しようと思ってもおかしくない」
「だから宮廷恋愛詩が歌われたのさ」
魔女は言った。
この時点で、ヴィクロム・インヴィットは自身の不利を確信した。魔術戦の流れは、魔女の制御下にある。
「ぼんやりした応答すぎたか」
記憶にないやり取りがあるらしいことで、亜竜人はまともな手を打てなくなっていた。
「王族の名誉を女が支えた。王族を没落させたい聖堂と、好き勝手したい王とで、利害が一致する。
では女たちは、どうやって男に言うことをきかせるか? 騎士たちを味方につけたってわけだよ」
宮廷恋愛詩は、ふつう、徳高い騎士から貴婦人への尊敬を恋愛に擬して歌う。定番の題材の登場人物に、実在する武人や妃が重ねられる。
「詩の中で、侮辱を受けた貴婦人のために立ち上がるのは騎士の美徳ですね」
「詩の中で、ということは、宮廷道徳においても騎士の美徳さ」
王らしい王を演じるのは王の務めだった。妃を演じるのは妃の務めだった。騎士を演じるのは騎士の務めだった。宮中儀礼の一環である。
「君、何か歌えるかい」
「断っていいですか?」
「魔女のお姉さんのためだと思って、歌ってはくれまいか」
断ってはならない。貴婦人を蔑ろにするのは宮廷道徳において、最も重い罪である。
「詠唱を開始します。
王妃は言われた。口惜しや! 我が宮廷に男子はないのか。
貴種を侮る者どもの上に、血の報いがあることを、もはや誰も望みはしないのか。
おお我が貴婦人よ。輝く槍のコホンソーム、ここにあり。
それがしの武勲は他ならぬ貴女の誉、
悪竜ヴィズフローザをほふり、僭主ヴァルディンを討ち果たし、異教徒の財物を持ち帰った
その一部始終を、わずかでも、誇らしいとの思いとともに覚えてくれるというのなら、
貴女の騎士たるこの身にとって、それより勝る人生の喜びはないのです」
亜竜人ヴィクロム・インヴィットは節をつけて唱えた。
近古代でよく知られた、コホンソームの英雄伝説の一節である。
「なんだ、けっこういけるんじゃあないか。素晴らしい。嬉しく思うよ」
「聞き苦しいものを失礼いたしました。
歌ってみると、自分で覚えているつもりより多く出てきたものですから」
「ああ。韻律憑依と呼ばれる現象だね」
「はい?」
亜竜人ヴィクロムは、節をつけて歌うと、覚えていると思っていなかった箇所まで引き出すことができた。この現象を魔女は、韻律憑依と呼んだ。
「韻律憑依現象なんて大げさですね。だいぶ前に覚えた歌の記憶が意外と長持ちしていた、というだけでしょう」
韻律憑依との呼称は、歌い上げるという行為を韻律という一種の神霊が人の上に置き定める、という考え方に基づく。
当世で人間の行為をめぐって神霊を持ち出すのは一般的でない。
「では、こちらの言い回しは一般的であろうか」
魔女は手を大きく振って、ある隅を指した。
生垣の小径を木漏れ日が照らす。ここは迷宮、無形魔王城である。
「象徴遭遇戦」
熊に似た人、または人に似た熊が佇んでいた。騎士然とした装束を身につけていた。
空間が広めに作られている。戦闘を想定した迷宮設計だ。
「そんな感じの言い回しは聞くには聞きます。準備してから戦闘に飛び込むことができるんですね」
「助言しておこう。勝てないなら、君がありったけの準備をしてもあれに匹敵しない。勝てるなら、いきなり飛び込んでも勝てる」
「ありがとうございます。いいことを聞きました」
かれは魔女に言ってから、騎士に宣言する。
「探索者ヴィクロム・インヴィットが、お前に挑戦する」
相手がわずかに頷いた。
そして、その姿が消えた。
「魔力点を一〇ポイント消費、スキル〈気配感知〉を使用する」
使用しながら探索者は、敵手が今いると思われる方へ向き直った。敵手は魔女の後ろにいた。
魔女の後ろから、その腿を撫で上げていた。
「きゃー」
魔女は気の抜けた声を上げた。
「何だ!? 高速移動、というか主観時間の加速かな。なんて使い方だ。それでも騎士か?」
敵手は、高速移動により元の位置に戻った。
「グハハ。この熊騎士、貴様の挑戦を受けて立つ」
「今のは騎士の振る舞いじゃあないな。宮廷道徳において、貴婦人を侮るのは最も重い罪だろう」
「名誉とは強者のものだ。弱者は名誉を語るに値せぬ」
騎士は傲慢な振る舞いを示した。
この時点で、三者の中で魔女が隔絶して強いということに、全員が気づいていた。魔女に力を出させては、何が起こるか知れたものではない。
危険を察知したからこそ、熊騎士は離れるときも高速移動した。
「叩きのめしてやるからな!」
探索者は吠えた。代わりにしっかり怒っておくことで魔女に手出しを控えさせる、という判断である。魔女に力を出させては、何が起こるか知れたものではない。単純に怒ってもいた。
「ガッハハハ! やってみろ! 貴様など返り討ちだ!」
騎士は笑い、剣を抜くと優美な構えを取った。宮廷道徳の枠組みの中で戦い、勝ってから魔女に非礼を詫びる、という算段である。宮廷道徳の枠組みは、女が戦いに介入することを防いでくれる。
「振る舞いのわりに綺麗な構えだな、えせ騎士」
「これでも昔は可憐で生意気なちびっ子騎士だったんだぜ。今や下品で傲慢な中年ってわけだ。ガハハハ」
「今のお前も熊系でかわいくはあると思うぞ」
熊騎士は身震いの仕草を演じた。
「気色悪いこと言うなよ」
「気色悪いことを言って申し訳ない」
そして、戦いは始まる。
「詠唱を開始する!」
仕来りに従い、格上である熊騎士が詠唱戦の先手を取った。なお詠唱戦の一般論では、先手が不利と考えられている。
「仕えた主はなく残されたのは生垣の花々のみ
草木に落ちる雨粒をそそのかしの神霊が呼び
美の神霊が落とす涙は清い色を帯び花となり
ゼヘル鈴蘭の呼ぶ風が猛き騎士の背中を押す」
風が熊騎士の背を押し出す。
「ああ。予想外の展開が一切ない。近古代の詩って感じだな」
風は勢いを弱めた。
イメージが魔法を動かす。当世の探索者ヴィクロムにとって、熊騎士の詠唱はいかにも無力だった。
「類型的だよな。パターンが限られている。では、詠唱を開始する」
こんどは探索者ヴィクロムが魔法を動かそうとした。
「瞑想者に夢はない
ただ残るは」
「聞くに堪えん」
熊騎士が遮った。
「その発声は何だ。酒飲み歌と宮廷の詩吟との忌み子か? 瞑想だの夢だのと、神秘詩の言葉を使っても滑稽なだけだ。
それ以上無様を晒す前に止めてやったことを感謝するがいい」
節のつけ方や発声の癖には、口頭伝承の系統が表れる。ヴィクロム・インヴィットの詠唱は、近古代の騎士には明らかなことに、どの正統な流派にも属していなかった。
立派な伝承系統に属しない発声の詩は、内容を検討するに及ばないとされる。騎士の時代の宮廷では常識である。
「信頼できる伝統は、吟じ手の媒介を経て、権威ある声を発する。信頼できない伝統は、吟じ手の媒介を経て、自らの滑稽さを表す」
イメージが魔法を動かす。近古代の熊騎士にとって、探索者の詠唱はいかにも無力だった。
「互いに詠唱が効かないのか。かといって肉弾戦には分が悪そうだ」
熊騎士の体格は、探索者より一回りも二回りも大きかった。しかも、高速移動能力もすでに見せていた。
そして、探索者ヴィクロムに不安はなかった。ただ強いだけの敵手は怖くない。かつて強竜たちは強いだけで面白くないので滅びた。
「互いに詠唱が効かない、と考えるには早すぎるのではないかな?」
熊騎士が言って、傍らに生えた花を摘んだ。
「この花の意味するところを、お前は知るか?」
「キリーハの花か。たしか花言葉は無私の忠誠とかだ。キリクシスの自己犠牲神話に由来する」
キリーハの花は見た目がよいため広く好まれた。
無私の忠誠との花言葉は、生態を説明する神話に由来をもつと伝えられている。
昔むかし、キリクシスはハトゥエンナを愛した。
ハトゥエンナには決められた婚約者があった。
キリクシスは誠実と禁欲をもってハトゥエンナに奉仕した。
婚約者はハトゥエンナを疑い、呪詛した。
不実な女め。お前は蝙蝠にでもなってしまえ。日の光を恐れ続けるがいい。
そしてハトゥエンナは蝙蝠になり、鳥とも獣とも仲間にならず、暗がりに隠れ住んだ。
キリクシスは言った。
愛するハトゥエンナよ。あなたが一羽の蝙蝠となるなら、僕は一輪の花となろう。あなたには僕の蜜や花粉を食べてほしい。
そしてキリーハの花は咲いた。
今でも、注意深く観察すれば、夜中、ひときわ目立つ花に蝙蝠が留まって口をつける場面を見ることができる。それはキリクシスとハトゥエンナの末裔なのだ。
「それだけか。やはりな。お前は真の花言葉を知らない」
「真の花言葉!? 真の花言葉、だと」
「宮廷人なら、キリクシスの神話を題にとった東方の詩と、それを鮮やかに翻案したゼハラニア詩人たちの作品と、それを踏まえた北方宮廷詩の定番を、即座に思い浮かべて当然だ」
言って、騎士はいくつかの詩節を吟じてみせた。
一語一義の花言葉辞典を睨んで詩を作る者など、近古代にはいない。当時の宮廷人にとって、花々は、後世におけるよりも遥かに豊かなイメージを喚起した。
宮中詩人や貴族たちが花を見たり花の名前を聞けば、それを読み込んだ詩節がいくつか即座に連想される。宮廷の詩は、聞き手全員がそのレベルにある前提で詠まれた。よって、宮廷人ならば誰でも知っている詩を、最低でも五百はおさえておかなければ、まともに理解することができない。
それが、後世では、類型的でパターンが限られていると評される作品群である。
「古典語の辞書を引くとき見るべきは語釈ではなく用例、ってのと似た話か」
「これはどうだ。こっちは?」
さらに熊騎士は、何種類かの花を並べ、いくつかの詩節を口ずさんだ。
死の国への道は、ボゼニウムの花で飾られている。
かつて、ネケータスは生きながら死の国を訪ねた。知りたいことがあったからだ。ネケータスは人間の死後に待ち受けることを知り、そのための準備を冥界の主カクリウスに教わった。冥界の主によって説かれた儀式は、ネケータスの秘儀として実践された。
ネケータスの往路の足跡がボゼニウムの種となり、復路では花を開いて道案内となった。
ボゼニウムの花言葉は帰還とか離れた家族への想いとされる。
中古代から近古代には、まったく異なる神話が語られた。
魔女メーエカは家畜の命を連れていくのだという。ボゼニウムの花は魔女メーエカが活動した痕跡なのだ。よってボゼニウムの花を見かけたら、魔女メーエカを追い払う儀式を執行するべきである。
家畜はときどき、毒草であるボゼニウムを誤って食うことがあった。その骸から毒草が芽吹くのを、人は、時ならぬ死と結び付けて語った。
騎士たちにとって、魔境への冒険や最後となるべき旅の誘いを、ボゼニウムの花はほのめかす。
「ボゼニウムの花。メリニクの花。ああ。理解してしまう。理解してはダメだ」
探索者は魔術戦において劣位に回りつつあった。探索者ヴィクロムは、近古代の詩について、少しかじった程度しか知らない。よって完全な力が発揮されない。
少しだけ分かるし、分かろうとしてしまうので、花をめぐる詩の約束事によって魔術的影響を受けつつあった。また、単純に花々が美しいことによって圧倒されつつあった。
かれは言った。
「高尚な口承、か」
熊騎士は沈黙した。沈黙は軽蔑を意味した。
「解せないな。騎士殿。下品で傲慢と自称して、正統な詩吟に花言葉か。お上品な技だ。自己卑下はパフォーマンスなのかな」
「ならば聞かせてやろう。この身が下品で傲慢と称した所以を」
かつて、可憐で生意気なちびっ子騎士がいた。
かれは大人の騎士や貴婦人たちに可愛がられていた。王と王妃にも可愛がられていた。
「長いから要約するよ。王妃に誘惑されて、丁重に辞退したら、騎士様が襲い掛かったことにされた、って話だね」
魔女が要約して言った。
「要約ありがとうございます」
「アハハ。無理もないねえ。女は強姦されたがっているとか下品で傲慢な思い込みを持ってもさ! 全員が全員あんたの飼い主と同じ尻軽女だと思ってもさあ!」
魔女は熊騎士を嘲笑した。
それを聞いて探索者ヴィクロムは魔女に言った。
「すみません。魔女の姉さま。笑ってやってもらう分には全く構わないし正当だと思うのですけれど。俺があれをボコボコにした後にしてもらうことってできますか? 可及的速やかに済ませますから」
こうして探索者ヴィクロムがナメた口を叩くのを聞いて、熊騎士は焦った。
三者の中で魔女は隔絶して強い。魔女が介入したら終わりだということに、探索者は気づいていないのではないか?
魔女に力を出させては、何が起こるか知れたものではない。
「無理もないわけはなかろう! 恥ずべき邪な考えだ。俺は貴婦人を蔑ろにし、改めることがなかった。全面的に俺が悪いに決まっておろう! わが主君の妃を侮るか!? 恥を知れバカ女」
「バカ女て。恥を知るのはお前の方だろ! 自分が何言ってるか分かってんのか? 殺すぞ!!」
熊騎士の暴言を聞いて探索者は焦った。
三者の中で魔女は隔絶して強い。魔女が介入したら終わりだということに、熊騎士は気づいていないのではないか?
魔女に力を出させては、何が起こるか知れたものではない。
疑いは、怒りの表現を苛烈にした。これは熊騎士の目論見通りである。対峙している探索者がナメた態度を取っていては、自身も危ういと考えたのだ。
熊騎士は鼻で笑ってみせた。
「あのお方は清く正しかった。淫魔が取り憑く隙などありはしない」
「近古代の天教って感じの価値観だ」
探索者ヴィクロムは、すっと冷静になった。怒れる戦闘者の仮面が落ち、分析者の顔が現れた。
近古代の天教で公式には、性行為に対する欲望は悪霊のたぐいが吹き込むものである。
宮廷文化では、独自の仕方で教義が受容された。性行為に対する欲望を男が持つことは想定され、女が持つことは想定されなかった。後者は悪霊のたぐいが吹き込むものとされた。
「だからか。自分の感情や欲望を穢れたものとされ、ないことにされれば、いい気はしないことだろう」
すると魔女が朗々と言った。
「ああ、勇敢な人よ! お前に似つかわしくもない。ぶつぶつと呟くだけで、武器を握る手を動かしもしない」
芝居がかった口調だった。探索者と熊騎士は、魔女自ら手を出さないという宣言として受け取った。
探索者は応じた。
「おお、姉も同然のお方よ! あなたを侮った恥知らずの熊騎士めには、必ず後悔させてやりましょう」
熊騎士は黙って見ていた。魔女自ら手を出さないのは歓迎だった。
それのみではない。騎士としての振る舞いを茶化すことができないのだ。相手が格下で、下手な演技だとしても、だからこそ、あざ笑うことを宮廷道徳は騎士に許さない。
「願わくば、我がために剣をとる戦士に、賢女の加護があらんことを」
魔女は宣言した。それが魔法の完成だった。
【探索者に宝物庫開錠権限が付与されました。
付帯テキスト:力が欲しければくれてやる。わたしのヴィク。初回特典を受け取れ。】
「何だ。魔女様が祝福してみせたことで、介入の口実ができた? 迷宮内なら好き勝手できるわけではないのか?」
探索者はまたしても思索に入った。直後、思索に異物が飛び込んだ。
かれは聞く。
詠め! 太陽、太陰、南天、十字は三重なり
かれは声を聞く。天の声を、神女たる君主が告げる力ある言葉を、かれは聞く。
そして、魔王譚文脈の亜竜人ヴィクロム・インヴィットが詠唱を開始する。
「セーリオル、ルーフシャナ、ティルサングル、クルフル・ティサダス」
自身の喉を通る、知らない音の列を、かれは聞く。
詠め! 草木の季節を巡らしめ
「ローシェス・ラース・ドルイス・オルドゥヌ」
海の潮を巡らしめ
「ローシェス・ローロン・サンズーセ」
宙吊り王を巡らしむる
「ローシェス・レーゲン・プロシャゴンド」
天則は現れ出でよ
「サエウァ・オールディ・ファハードゥ」
古い言葉による音の列を歌い上げてゆく。
詠唱者はその意味を知らない。独特のリズムに乗せて知らないはずの言葉を発話した。
歌い上げるという行為を韻律という一種の神霊が人の上に置き定めているのだ。この現象を韻律憑依と呼ぶ。
詠め! 万有を我が掌中において示せ
「エーネウォルドン・メアファネア・ディサードゥ」
あらしめよ
「ファハザードゥ」
詠唱が終わろうとしている。かれはそれを感じた。
一度習ったことのある言語だと思い出した。単語を忘れても、形態法を少し覚えていた。たとえば命令形の作り方を覚えていた。
知らし召せ
「イゥゼカラードゥ」
天に属する王権よ!
「ディアーケト・リーゲ!」
そして、剣があった。
研ぎ澄まされた刃が輝く。
全体に彫り込まれた文様が古代を想起させる。
柄にまじないの宝玉があしらわれている。
かつて魔王が持った、儀礼用の剣である。




