先古典期半島諸語・魔王宮廷語で「覚えられてあれ」と、劇団主は呟く
いつの時代、どこの土地で起こったことか。
これは夢だ、と劇団主は思った。
「そうであるか。この戦いで、わたしは、魔王は死ぬか」
かすかな笑みが見て取れた。
彼女は喜んでいたか。
彼女は悲しんでいたか。
それとも彼女は、愛おしんでいたのか。
「我らはじつに果報者だ。死に化粧には手を抜けぬな」
王は後頭部に捻れた二本の角を下げている。
王はその戦を、最後のものと正しく知った。
「その命を、遠き未来が語り継ぐのだから」
彼女は、支配者だった。
世界に名を刻む、傑物だった。
これは夢だ。
劇団主は戦いに向かう魔王を夢に見ていた。
現代の通説は、かの魔王には王の証である角がなかったとする。
見れば武具や装飾品は時代考証に関して不揃いだ。
これは歴史小説や演劇が描く魔王の御殿なのだ。
歴史上実在しなかったのであろう人物が、世に想像される魔王として立っていた。
「わたしを倒したのは、どのような人物だったと伝わるか?」
有名な話だ。
魔王を倒した勢力は明らかになっていない。
候補がいないのではなく、候補が多すぎるためだ。
それが想像を掻き立て、多くの物語を生んだ。
魔王を強度あるキャラクターとしたのは、実際の歴史上での活躍だけではなかった。
「敗れたわたしを話に伝え、征した戦士の名声を失うに任せるか。それは快いことでないぞ」
これは夢だ、と劇団主は思った。
「君は戦場を見届けよ。誰がわたしを打ち倒すか。それを確かに見て伝え繋げ」
かの魔王が、自分に劇の題を授ける。
身に余る幸福を、劇団主は夢に見た。
それが、その演目の始まりだった。
現在の樹上都市〈毒樹枝節経アーバスキュール〉へと、魔王は解き放たれた。
彼女は見た目に年若く、癖っ毛をツインテールに結えていた。
「例の亜竜人にも、二度と会うことはないのでしょうね」
呟きながら、そんなわけはないと思い直す。
かの〈文脈の亜竜人〉とは、必ずまた相対することになる。
語りの途中で別れたのだ。続きを語る時がくる。魔王の知る限り亜竜人とは、そういうものだ。
少女は迷宮都市を歩く。
亜竜人ヴィクロム・インヴィットを利用して都市へと入り、葉脈と呼ばれる交通網にしたがって移動する。
その足取りに迷いはない。
あの商店は更地になったか。道端の偶像はすり減っている。まもなく建つと言われていた街区の新たなシンボルは、以前よりも進捗状況が後退している。
一方で、見たことのない食料売りが聞き慣れた掛け声を上げる。道の上に、ここ数十年の習わしとして、これまで描かれたことのない吉祥紋が描かれる。
「〈樹〉の恵みとともにある人の子の営みは不変ね」
魔王は解き放たれた。
四年と四ヶ月ぶり、ここ百年で四度目のことである。
解き放たれたのは初めてのことでもなかった。
二つ結びの髪を揺らして、少女は足を止める。大衆劇場の前である。
値段は以前から変わらない。大人には八〇〇、子供には二〇〇の料金で提供している。
「観劇券、大人一枚」
迷宮から持ち出していた硬貨を差し出す。もちろん当世で通用するものである。
「はい。二〇〇だよ」
劇場の受付が観劇券を渡す。
「わたし立派な大人よ」
「もちろん。立派なお人だ。自分が得しているところ、あえて言ってくれるのだからね。これは六〇〇の割引と思ってくれ」
「お言葉に甘えちゃうね」
少女は譲った。ここで受付を困らせるのは本意でない。
無事入場し、劇場の廊下を進む。
劇の開演には早い。
少女が向かうのは、客席から離れた場所だ。壁の表示や立てられた板が客の立ち入りを禁ずるのを無視して、ある一室に入ってゆく。
「お久しぶり」
「これは魔王陛下。お変わりないようで。『エズメラミ』」
最近跡を継いだ若い劇団主が、大げさに挨拶してみせる。魔王はおどけて答える。
「陛下は結構よ。きざはしが故障中なの」
「それは助かります。失礼ながら先代と違って私はあなたを、魔王だか何だかと信じていませんので。『エズメラミ』」
先代には世話になった。この劇団主とは、あまり話したことがない。
「それ、ESMERAMINと言いたいの?」
「先代から受け継いだ言葉です。意味は分かりません。『エズメラミ』」
「辞書借りるね」
少女は堂々たる歩みでトテトテと壁際に寄り、本棚から巨大な書籍を一冊取り出した。
数巻におよぶ『先古典期半島諸語辞典』のうちの一冊だ。
机の上に背表紙を載せ、半ばのページを開く。そして前のページへと繰ってゆく。
「この巻の初めの方に載っている」
劇団主はわずかに驚きを覚えた。この分厚い辞書は、表紙を上にして捲ると背表紙に負担がかかりやすい。少女の開き方は、知らなければできない取り扱いだ。
「じゃあわたしは客席に行くから」
開かれた辞書を睨む劇団主を残して、少女は部屋を出ていく。
「観劇も四年少しぶりね。楽しみ」
少女は期待を膨らませる。先の人物が率いる劇団は、どのように演じてくれるのだろう。
少女は数十年の間、その演目を観に行くのを習慣としていた。
魔王を倒した戦士の活劇である。