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昭和のお伽話  作者: 森信義
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第1章

 貴方は東京教育大学を知っているだろうか。


 戦前は東京高等師範といい、広島高等師範と並び日本の旧制中学の教員養成をまかなっていた。

 ついでに触れるとお茶の水女子大と奈良女子大は女学校の教員養成に当たる女子高等師範だった。

 何回かの改編の後、戦後は文学・理学・教育学・農学・体育学の5学部等からなる総合大学として東京教育大学が成立した。本部は文京区の茗荷谷にあった。


 私は1965年 (昭和40年)に理学部地質学鉱物学専攻に入学した。

 理学部の校舎は地上4階地下1階、正方形の各辺に教室等を配置して、中庭を広く空けたビルだった。

 地下1階と書いたが、北側の付属小学校から見ると、地下は無く5階建てだ。ビルは小石川台地が氷川下の谷に落ちる崖線の斜面に建っていた。


 入学手続きをして驚いた。学費は入学金15,000円で授業料が年額12,000円だった。高校の時の授業料は月額800円だったが、諸会費を合せると月額約3000円だった。諸会費がない国立大の学費は高校より、格段に安かった。

 叔父から入学祝として貰った金で、全額を支払えた。


 大学生活が始まり、クラスが招集された。二年生の先輩が、地鉱教室の施設を案内してくれた後に、自己紹介が行われた。集まったのは18名だった。

 出身高は東京近辺が多かったが、関西圏の高校もあった。進学校として知られた高校が多かった。浪人も数名いた。

 一浪だが浦和工業高校卒の白鳥がいた。私は世田谷工業高校なので工業高校卒が2人いた事になる。

 自己紹介の後、記念撮影という事で、占春園へ向かった。

 占春園は理学部の北東、台地が谷に落ち込む斜面を利用して造られた水戸藩ゆかりの庭園だ。

 名園といわれる庭園には木立が鬱蒼と茂り、木漏れ日が風で揺れて水面に反射していた。

 担任の菅野助教授に引率されて園内を一巡りした。樹齢何百年もの古木が多く歴史を感じられた。

 講道館柔道の創始者であり、東京高等師範の校長でもあった嘉納治五郎像の前で記念写真を撮った。


 その後の第一の仕事は選択科目の決定だった。

 私は英語には自信があったので、第一外国語をロシア語、第二外国語をドイツ語にした。

 教育大のカリキュラムは語学を中心として配置されていたので、英語を選択しない私の科目は理学部の学生とはかなり違ってしまった。専攻の必修科目以外の講義で級友と一緒になる事は殆ど無かった。


 本館と文・教育学部の入る東館は二階から上がつながっていて、通路はその下を通っている。本館の一階は事務室になっていた。

 選択科目の届を事務室に提出し、事務室内の掲示板を見ると、アルバイト募集の紙が貼ってあった。

 その殆どは家庭教師のアルバイトだった。教育大の名前故だと思った。

 基本的には一日2時間・週2回というものだった。アルバイト料は月15000円程度で、食事つきとか色々な付帯条件が付いているものもあった。

 入学したての18歳の大学生に、大金をはたいて子息の教育を託する。そういう親の存在が私には恵みになった。

 2件のアルバイトを決めた。月に約3万円の収入になる。大卒の初任給が3万円程度の時代なので、十分な収入が確保できた。


 講義が始まった。一般教養科目が殆どだったが、受験勉強とは異なり学問の真髄に触れるような講義を数多く受講できた。

 『憲法提要』の講義では、講師は教科書をただ読むだけだったが、教科書そのものが、諸説に触れ、最新の最高裁判例等も記載してあり、深く憲法を学べるものだった。

 講義に触発され、真の学問をするのだという自負も生まれて、空き時間に図書館に籠って勉強する事が多くなった。

 本館の並びに学生食堂があり、その二階が図書館だった。

 図書館は空いていたので、4人掛けの机を独占して、参考書を並べて勉強した。豊富な蔵書から関係書籍を何冊も選び出すのは楽しかったし、理解が深まる実感を持てた。

 入学して驚いた事は、校門で手渡されるビラの多さだ。殆どは共産主義を唱える党派のビラだった。大学は共産主義イデオロギーの坩堝だった。

 未知の領域に興味をそそられた私は、勉強に共産主義の理論を含める事にした。


 地学巡検の説明会があった。

 一年の間に5回、日曜日に東京近辺の地質を見学に行くのだ。各自が購入すべき調査用具等の説明があり、第一回は筑波山へ行くとの事だった。

 指定販売店でハンマー・調査袋・クリノメーター・ルーペ等を買い揃えた。


 当日は現地集合との事だったが、大学院生の丸山さんの指示で、上野駅の出発ホームに集合して現地へ向かう事になった。

 腰にハンマーをつけ、調査袋を肩から下げた私たちの集団はホームで異彩を放っていた。

 私が持っている駅弁の袋を見て吉田が聞いてきた。

「駅弁かい。どこで売っているの」

「改札の側に駅弁売り場があるよ」

 私は朝、上野から出かける時には朝食・昼食用に駅弁を二つ買う事にしていた。

 吉田と何人かが駅弁を買いに行った。

 列車に乗り込み吉田・広田と私の3人が同じボックスに座った。

 発車してすぐに駅弁を食べ始めた。

「美味しいね。山に行く時にはここで買う事にするよ」

 吉田は山岳部だった。

 列車は荒川を渡り、街並みから離れて、水田地帯を進んで行った。

「関東平野の広さを感じるね。富山はすぐ山だからね」

 広田は富山県の出身だ。車窓から見える水田の緑は何処までも続き、山並みは遠くに霞んでいた。

「立山連峰が富山湾に落ち込む景観は魅力的だと思うよ。眺めてみたいな」

 私は日本アルプスを遠景でしか見た事が無いので、写真で見た富山平野からの立山連峰の雄姿を思い起こしていた。

「東京からは遠いからね。長野からでも立山は遠景になるから富山平野からは魅力的だな」

 吉田が同意した。

「確かに雪山が夕日に輝いているのを見ると凄いと思うけれど、見慣れると何でもなくなるよ。でもこの関東平野の広がりも凄いと思うよ」

 広田は改めて窓外の水田を指差した。

 列車は長い利根川の鉄橋を渡り茨城県に入った。

 土浦駅で降りて筑波線に向かう。人ごみの中で頭一つ飛び出した山高帽を被った柴田教授が見えた。

「やはり、柴田教授は背が高いね」

「180センチ以上あるね」

 私に広田が応えて笑った。

 筑波駅に着くと丸山さんが言った。

「気合を入れて柴田教授について行ってください」

 今年定年だという柴田教授の脚は驚異的に速かった。長身で脚が長い上に凄いピッチで歩く。半ば小走りになって教授に付いていった。

 やがて林道脇の土の崖に着いて、丸山さんが説明した。

「これは筑波型花崗岩が風化してできた真砂土の崖です。正長石は風化しやすくすぐ土になり、他の鉱物の大きな結晶がバラバラになっています」

 ハンマーは使わずに軍手をした手で真砂土を潰した。半透明なのは石英、白いのは斜長石、金色に見えるのは黒雲母が風化されたものだという。

 広田がおどけて言った。

「残念。金ではないのだ」

 その後沢に入り、花崗岩の露頭で造岩鉱物を確認した後、沢に転石として転がっている斑レイ岩を割って、造岩鉱物を確認する様にと指示された。

 筑波山はご神体なので、神社のエリアでハンマーを使う事は許されない。ここの転石で確認するのだという。

 一見して、白い花崗岩と黒い斑レイ岩は識別できたが、割って造岩鉱物を確認するのは初めてだった。

 今までの山歩きでは、単に岩と認識していたものが、明瞭な個性を持った岩石として認識できると分かり、新鮮な感覚を持てた。

 柴田教授が言った。

「残念ながら花崗岩と斑レイ岩の接触部はいまだに発見されていません。この二つの岩体がどういう関係にあるのかを突き止めるのは君たちの課題です」

 功成った教授でもやり残した事は沢山あるのだろうなと、学問の奥深さを感じた。

 山頂まで登り、露出している斑レイ岩を観察し、景色を堪能した後、尾根を下って筑波駅を目指した。

 眼下に桜川低地の水田が広がっていた。

 快適な尾根道の下りを楽しんでいると丸山さんが声を出した。

「あの列車に乗るそうです。急いで下さい」

 列車が筑波駅に向かって走っているのが見えた。

「嘘だろ?」

 皆で顔を見合わせた。標高差で200メートル以上あるのではないかと思えた。

 教授の後を追って殆ど走って下った。

 無事、列車に乗った時には、教授以外は全員が息を切らせていた。


 初めての岩石鉱物学実習。

 緊張していたのは皆同じか。開始時刻のかなり前に全員がそろって、並べられた偏光顕微鏡の前に座っていた。座席以外にスペースが殆どない小さな部屋だ。

 成瀬が言った。

「定員が20名なのに、合格者が毎年19名なのは、偏光顕微鏡が19台しかないからだって、今年も入試成績20位は不合格だ」

 成瀬は古生物学志望だ。自分とはあまり関係がない岩石鉱物学の設備の不備で、『去年自分が不合格になったかも』と考えると割り切れなさを感じたのだろう。そんな事あり得るのかと、半信半疑で数えたら、確かに19台しか無かった。

「とにかく僕たちは合格したのだから使わせてもらえる。ラッキー」

 去年20位で不合格になったかもしれない、一浪の成瀬には深刻な問題だが、現役の広田にはおどけの材料だった。

 偏光顕微鏡では、0.02ミリ程度の厚さに削った岩石の薄片に偏光を当てて、鉱物を鑑定する。様々な装置が付いていて確かに高価そうだ。

 実習は午後の5限から7限まで、休み時間を入れれば2時間半以上の長丁場だ。先日の筑波山で採集した花崗岩と斑レイ岩の薄片が各自に配られていた。顕微鏡で結晶の形・色・劈開・干渉色等を観察した。

 斑レイ岩に含まれる橄欖石の干渉色は虹色だった。『綺麗だ』初めて見た干渉色に心を奪われて、時間が過ぎるのを早く感じた。


 6月に日本史の家永三郎教授が国を相手に教科書裁判を始めた。裁判の意味は良く理解できなかったが『国は太平洋戦争の悲惨さと国家の責任を忘れさせようとしている』と思った。

 国に公然と反旗を翻す教授がいる事は誇らしい事だと思った。


 奨学金が3ヶ月分支給された。私は特別奨学金だったので、月12,000円、合計36,000円の支給だ。

 4月後半から家庭教師のアルバイトを始めていて、生活費はアルバイト代ですべて賄えていた。奨学金は完全な臨時収入だった。

 2万円を母に渡した。

「奨学金は家計の足しにするよ、今後も月1万円を入れるから」

「有難いね。いつ必要になるか分からないから、毎月の分は貯めておきなさい」

 母は顔を綻ばせて受け取った。高校の時には奨学金を学費に充てた以外は、すべてを母の収入に頼っていたが、今は家での食費以外は全額を私が負担していたので、母にも多少の余裕ができている様だった。


 城ヶ島での地学巡検があった。京浜急行線三崎口駅前の集合だったが、座りたかったので始発の品川駅で、広田達と待ち合わせて三崎口へ向かった。

 私には見慣れた東京湾と三浦半島の海だが、広田達には物珍しい景色だった。

「この川は大きいな」

「多摩川だよ。東京と神奈川の境。右の鉄橋は東海道本線だよ」

 私はガイドにならざるを得なかった。

 京急川崎では通学の高校生が大勢乗り込んできた。

 みな物珍しそうに私達を眺めていた。

「これから城ヶ島の地質見学です」

 広田が見つめていた女子高生に声をかけた。

「私達も去年行きましたよ」

「地学部なんだ」

「天文部ですけれど、顧問の先生が地質を好きなので連れて行かれました」

 高校生は地質より天文に惹かれるのだと思った。その生徒達を地質見学に連れて行く顧問の先生の思いを感じた。

「頑張って下さいね」

 横浜駅で高校生の殆どは下車し、車内の人混みは消えた。

 横須賀港が見えると広田が歓声を挙げた。

「凄い。軍艦が何隻もいるよ」

 港には折り重なるように軍艦が停泊していた。

「軍港だからね。自衛隊と米軍の両方だよ」


 三崎口駅に着いた。

 農学部の学生が、中学の教員免許をとる為の科目に指定されていたので、三崎口駅前には30名以上が集合した。

 高等師範のプライドか、理学部では中学教員免許が取れないカリキュラムなのに、農学部では取れる様になっていた。

 広田が言った。

「今日はお客さんが多いから、実習助手兼任だね」

「ハンマーも持っていないし、僕たちが岩を割って見せるしかないね」

 農学部の学生は普通のハイキングスタイルだった。

 大学院生の磯貝さんが農学部の担当で農学部の学生を集めた。私と広田は地鉱の学生集団の一番後ろで、磯貝さんの側を歩いた。

 歩いて城ヶ島大橋を渡る。子供の頃、船で城ヶ島に渡った記憶はあるが、城ヶ島大橋はできたばかりなので初めてだった。

 海面から20メートル以上の高さで、左に房総半島、右には相模湾・富士山を見渡す眺望は素晴しく、さわやかな初夏の風が心地良かった。

 城ヶ島の東端、安房崎に着いた。磯貝さんが露頭の岩体の前で説明した。

「黒い層がスコリアで、白い層はシルト岩です。交互に重なっているので互層と言います」

 私と広田はハンマーで互層の一部を割り、農学部の学生達に渡した。

「スコリアは火山岩砕と言って富士山や三原山で見られる黒い火山灰と同じです。シルト岩は粘土が固まってできた堆積岩で、泥岩の一種です。火山活動があった時代と無い時代が何回も繰り返して来たことが分かります」

 下調べおかげで補足説明ができた。

 広田が言った。

「凄いな。きちんと下調べしているのだね」

 私は、将来海外へ行って鉱床を探査したいという希望を持っていたので、地学巡検は夢への第一歩だと思ったのだが、広田には当然そんな夢が分る筈はなかった。

 城ヶ島を巡って種々の地質構造を見学した後、現地解散となった。

 私は横浜駅で皆と別れ京浜急行線を降りた。京浜東北線で自宅のある大井町へ帰った。


 6月の終わりに飯田から電話があった。

 飯田は世田谷工業高校電気科の同窓生だ。

 私達は世田谷工業高校付属中学校の第一期生だった。

 それは工業高校の地盤沈下を止めるべく作られた、都立初の中高一貫校だった。入試が行われ、全都から生徒を集めていた。

 中学で山を登る事を覚えた私達は、月に2~3回のペースで山を登ってきた。殆ど日帰りだったのと、交通費が安いのとで、奥多摩や中央線沿線の甲武相国境の山を登る事が多かった。

 当時は登山道も整備されておらず、獣道を辿り地形図を頼りにする藪漕ぎが多い山行だった。

 地形図の山の稜線や沢に赤鉛筆で行程を描く探検的なものが私達の山行だった。

「皆で大菩薩峠へ行こうという話になったのだけど、来られるかな」

 高校2年の冬に計画したのだが、受験勉強を本格化させていた私の意向で実行しなかった山行だった。

「僕は大丈夫だけど浪人生が行くのかい」

 4月にも「息抜き」という事で、日帰りで日光の半月峠に行っていた。

「本格的な山行でリフレッシュという事だよ」

 結局7月に1泊2日で行く事になった。

 中央線の猿橋から、牛の寝通りという長い尾根筋を縦走するきついコースだ。飯田以外に3人、合計5人が参加した。私以外は浪人生だった。

 荷物を軽くする為にテントは使わず、大菩薩峠の無人小屋に泊まる事にしていたが、久々の山行ときつい藪漕ぎで全員がバテバテになった。大菩薩峠に着いた時には日が暮れていた。

 疲れが酷くて、翌日は一番楽な小菅に降るコースを選択するしかなかった。

 快適な林道の下りに会話が弾んだ。

「二浪覚悟で、北大を目指す事にしたよ」

 早稲田を志望していた板東の方針転換に驚かされた。理数系が苦手で私大の文系を志望していた板東が国立の五教科に挑戦するというのだ。

 父親がアパート経営をしていて一人っ子なので、経済的には何の心配も無いのだろうが、板東の理数の学力は中学生以下だと思っていた。

「1年では無理だと思うよ。3浪の覚悟はあるのかい?」

「為せば成るだよ」

 板東は本気なようだった。

 小菅からバスに乗り、奥多摩湖を経て氷川駅に着いた。


 8月には3泊4日で、日光白根山から鬼怒沼湿原を経由して尾瀬へと、久しぶりに本格的な山歩きをした。単独行で一人用の簡易テント持参の野宿を含む山行だった。

 大型のリュックは30キロ近くになり久しぶりの重さが堪えた。予想していたきつい藪漕ぎは無く、かなり楽に尾瀬に出られた。2000メートルの高度では笹が生い茂る事は少ないのだと思った。

 尾瀬は私の最初の山だ。中学2年の6月に、生物の先生に引率された夜行日帰りだった。

 疲れ果てて帰りは鶴見まで寝過ごし、辛うじて終電で帰る事になったが、それさえ楽しい思い出だ。

 水芭蕉が咲き乱れる湿原、残雪の燧ケ岳での雪渓滑り、私は山の魅力の虜になってしまった。

 予定より早く尾瀬に着いたので燧ケ岳に登った。その後尾瀬には何回も来ていたが、燧ケ岳は5年ぶりだった。燧ケ岳から見下ろす尾瀬ヶ原と対面の至仏山の雄姿はやはり絶品だった。


 家から日帰りできるという事で、関東ローム層団研(団体研究)に4日間参加した。

 団体研究とは一つのテーマで何人もの研究者が地域を分担して調査するという研究法だ。研究者だけでなく、教師、学生も数多く参加していた。特に研究を離れた教師にとっては数少ない研究の機会になっていた。

「団研がなかったら研究などできなかったからね」

 小学校の先生の一言が強く印象に残った。

 初体験の私はもっぱら説明を聞き、ローム層を掘る作業しかできなかったが。多摩丘陵を巡ってローム層の存在を初めて意識した。

 それまでは単に赤土と思っていたのだが、氷河期の歴史を解明する地層だった。


 後期が始まって、図書館で勉強をしていると、白鳥が入って来た。

 私を見つけて机の前に座った。私は机を独占していたが、椅子が三つ空いていた。

「ドイツ語の勉強かい」

 白鳥は机の上に置いてあったドイツ語のプリントを見て言った。

「そうだよ。これが一週間分の課題」

「多いな、これを全部訳すのかい」

 何回も試みたが、他の勉強を犠牲にしない限り全部訳すのは無理だった。『西部戦線異常なし』翻訳は文庫本で300ページ以上ある。初学者に一年間で全部訳させるという信じられない試みだった。

「無理だよ。幸い、席が指定されていてその席順に訳させられるから、自分が当たりそうな部分だけを訳しているよ」

 白鳥はブリントの下に置いてあった『フォイエルバッハ論』に眼をとめた。

「こんな本も読んでいるのか」

「マルクス主義を理解しないと、ビラの内容が理解できないからね。後藤を非難するのではなく、論破したいと思ってね」

 先日のクラス会議の時、共産党系の主張をオウム返しに述べた後藤に「ビラと同じ事を言うな」とかみついて険悪な雰囲気を作ったのだ。

「後藤はね」

 白鳥は笑って応えた。

「君がいなかったら地鉱での君たちの立場は悪かったと思うよ」

 私の理解では、あまり目立たないが、白鳥こそ地鉱の共産党系のリーダーだった。

「当面は、無党派だから、心配しなくても大丈夫だよ。自治会というか、新井さんを支持しているし」

 理学部自治会では、地鉱三年生の新井が副委員長を務めていた。私は新井の朴訥な人柄が好きだった。

 白鳥は後藤に反発した私の様子を窺いに来たのだった。


 桐葉蔡(文化祭)準備でクラスに招集がかかった。

「一年は毎年恐竜の張りぼてを作る事になっているそうです」

 専攻の知識が乏しい一年生の参加手段だと思った。前年の写真を見ると理学部正門横にゴジラもどきの張りぼてがあった。

 滝沢が言った。

「場所はいいのにさえないなあ」

「三大怪獣にするか」

 広田が無理な事を言い出した。

「三つも作るのは無理だと思うので、ゴジラを動かすとか工夫を加える形にしよう」

 後藤がまとめた。

 ゴジラの中に入り、声を出し、口を開けるという計画になった。角材で骨格を作り、竹を針金で取り付けて輪郭を作る。その上に新聞紙を貼り色を塗るという仕様だ。私は図書館を休みにして、毎日ゴジラづくりに励んだ。

「森は結構器用なのだね」

 ベニヤでゴジラの体内の足場と入り口を作っていた私に吉田が声を掛けた。

「工業だからね。木工も一応やっていたよ」

 中学の技術家庭科が工業の基礎学科になっていて、大抵の事は学んでいた。週の時間数を増やしたのだと思うが、三年では高校一年の電気と機械の基礎科目も履修していた。

 ゴジラの叫び声と口を開ける動作は見物の小学生に評判が良く、地味な理学部前に人だかりができた。


 教育大の朝永振一郎教授が、日本人としては二人目となるノーベル物理学賞を受賞した。

 私は朝永教授の『物理学概論』を受講していた。文系向けという事もあったかもしれないが、数式は一切使わず、絵解きで『繰りこみ理論』を説明して分かり易かった。

 受賞後最初の講義ではマスコミが押し寄せて来た。平常は座席が後から埋まるので、私は最前列で講義を受けていたのだが、その日は最前列に座る事ができなかった。

 朝永教授が入ってくると一斉に拍手が起こった。

「ありがとう」

 一言だけで普段と変わらない講義になった。朝永教授らしいと思った。


 正月にテレビを見ていたら湯島天神が映し出された。

「お前が嫌がると思ったから言わなかったけど、去年は行って絵馬を奉納したのだよ」

 確かに母に誘われた記憶があった。

 神頼みみたいな事は大嫌いだったので、私は聞く耳を持たなかった。母は一人で行っていたのだ。

 私が小学5年の時に父が亡くなっていた。

 中学を卒業したら働いて、母親を助けるべきだという周囲の意向に反して、母は借金を重ねて私を大学に進学させてくれた。

 今でも仕事は続けているが、借金の返済も終わって最近は余裕ができた様だ。これ迄行ったことがない観光旅行へも行く様になっていた。


 磯貝さんに誘われて本宿団研に参加した。

 他にも声をかけた様だが、一年で参加したのは私一人だった。

 3月下旬に群馬県の南牧村で行われた4泊5日の団研で、グリーンタフ変動の地質調査だった。その特徴となるグリーンタフとは、緑色の溶結凝灰岩の事で、関東地方で一般的に使われている石材の大谷石もその一つだ。

 日本の金属鉱床と油田の多くがグリーンタフ変動に関連している事が興味を掻き立てた。

 昼は残雪が残る沢を遡り、露頭を探して岩を調べた。

 カルデラ噴火を起こした陥没の断層や、カルデラ湖に生息していた魚の化石などが確認できた。

 夜は食事の後、総括会議を行い、成果の確認と翌日の調査方針を決定する。紛れもなく自分が地質調査に関わっている事が実感できる体験だった。


 二学年が始まった。


 ためらいはあったが、何の連絡も無いので飯田に電話をかけた。

「結果はどうだったの」

「僕と土井は理科大で盛野が工学院大学、板東は二浪だよ」

「取敢えず合格して良かったよ」

「行くところが無くて二部だったよ」

 理科大の二部は誰でも入学できるけれど、卒業はできないという事で有名だった。

 私達の下の学年は第一次ベビーブームといわれた世代で、入試も激烈だった。その激烈さの中で浪人の努力は消え去ってしまったのだ。

「板東以外は一安心という事だね。いつかまた山に行こうよ」

 その後、飯田から連絡は無かった。


 専攻の科目が多くなったので、級友と顔を合せる事が多くなった。

 田中が言った。

「最近宮地が来ないけれど、単位大丈夫なのかな?」

 香川県出身の田中は、優しくて常に友達の事を気にかける好人物だ。

 白鳥が応えた。

「パチンコだよ。藤沢の家は出るけれど、新橋で途中下車してパチンコに通い詰めているらしい。浪人の時にパチンコを覚えたそうだ」

 白鳥はすでに心配して宮地に事情を聞いていたのだ。

「新橋か?途中だから今度ヒマがあったら宮地を探しに行ってみるよ」

 私は明日が5限からなので、明日にも行くつもりだった。


 新橋駅の烏森改札をでると2軒のパチンコ屋が並んでいた。

 小学校入学以前に、祖母に連れられてパチンコを打った経験があるが、それ以来だ。

 店に入るとすぐ前に宮地がいた。

「宮地君発見!みんなが心配しているので連行します」

「まいったな」

 宮地は笑って応えた。

「少し付き合うよ」

「やるのかい?」

「何年ぶりかな?この開くのがチューリップかい?」

「そう上に入ると連動して下が開く」

 チューリップに関してはスポーツ紙の記事で見ていた。

 パチンコ玉は1玉2円、100円で50玉借りられた。運よく入って玉が沢山出てくる。

「まいりました」

 沢山の玉を出した私に宮地は笑って言った。

 出た玉を換金して、宮地は1000円を私に渡した。


 クラス会議で後藤が口を尖らせて発言した。

「碇助手に『ガロ』を捨てられた。『大学生が漫画を読むのは怪しからん』だと」

 ガロは、唯物史観といわれる『カムイ伝』を連載していて、左翼系学生に人気の漫画雑誌だった。

 私はガロを読んでいたが、控室に置いてある事には違和感を感じていた。後藤が啓蒙の為にと置いていたらしい。

「旧来の大学人のアカデミズムから見れば漫画は苦々しい事なのだよ」

 私の発言に後藤が反論した。

「化学の控室には少年サンデーが全巻置いてあるのに、地鉱はダメというのは納得できない。ガロだよ」

 後藤は納得できない様子でガロを強調した。

「教室会議で問題にして良いかな?」

 地鉱教室の教職員・学生が集まって教室の課題を話し合う事になっていた。

 私は後藤の考えが理解できなかった。

「教室会議では牛田助教授の問題が最重要課題だから、変な事は話題にすべきではないと思う」

 地鉱では定年退官した柴田教授の後任に牛田助教授を推薦していた。牛田助教授は共産党系の科学者組織の中心人物で、保守派の教授達から疎まれ教授就任が認められていなかった。

 大学の自治が認められる以上、その前提となる教室の人事は教室で決めなければならない。その前提が否定されようとしていた。

「森が言う通り、保守派の橋本教授達に、改めて牛田教授に賛成と確認させる事が最重要課題だと思う。後藤の提案は『控室の私物を持ち主の許可なしに処分しないで欲しい』という要望にして最後に付け加えれば良いと思う」

 白鳥の穏便な提案に皆が賛成して後藤は引き下がった。

『カムイ伝』が唯物史観の啓蒙になると本気で信じている後藤が愚かに思えた。

 教室会議で橋本教授は大学院生らの質問に対して、牛田助教授の適格性は認めたものの、教授昇格への言質を与える事は無かったし、教授の決定はあくまで「正教授会」の専決事項だと主張した。

 しかし執拗な追及に地鉱教室としては牛田教授以外の選択肢は無いと認めざるを得なかった。

 他の大学等から岩石学教授を招聘するという最悪のシナリオは避けられた事になる。

 結局、岩石学教授の座は最後まで空席だった。


 『比較文学論』の講義開始を待っていると、突然の休講が告げられた。

 女性が近づいてきた。何日か前に、図書館で、会釈して私の脇を通り過ぎて行った女性だ。

「西洋史2年の肥沼妙子といいます。突然すいません」

 名前を知っていた。4月の文学部自治会委員長選挙に共青(共産主義青年同盟)から立候補した女性だった。当選はしなかったが。

「森といいます。地質学鉱物学2年です」

「森君はトロッキーに関心があるのですか」

 先日、私の机の上に置いてあった『永続革命論』に気づいていたのだ。1年から始めた共産主義の学習で、この頃はトロッキーに興味を持つようになっていた。

「まだ理解はできないけど、興味を持ち始めたところです」

「良かったら、私達の学習会に参加しませんか」

 肥沼が声をかけて来た理由はこれだった。

「『永続革命』に興味を持っているので、『構造改革』に興味はありません。失礼だけど、貴女の党派は現実認識が甘過ぎると思う」

 構造改革派は共青の上部組織で、共産党から『修正主義』の烙印を押され、除名された。

 その後分裂を繰り返していて、理論的な興味を持つ事はできなかった。

「分かりました」

 肥沼はがっかりした表情で去っていった。


 7月に6泊7日の調査旅行(大巡検)があった。日立鉱山、常磐炭鉱、石川町のペグマタイト等。茨城から福島へと地質を調べて周った。

 日立鉱山では地下数百メートルの坑道までエレベーターで降り、含銅硫化鉄鉱床を見て、サンプルを採取させてもらえた。黄鉄鉱の大きな立方体結晶が群生していて見事なものだった。

「綺麗でも資源的な価値は無いのだよね」

 私が言うと広田が珍しく真剣な表情で応えた。

「鉄より、硫黄の方が価値があるというのだからね」

 黄鉄鉱は燃焼させて硫黄を取り出してのみ価値を見出せる鉱石だった。

 常磐炭鉱でも坑道を案内され石炭鉱床を見学した。土砂まみれの薄い石炭の層が多かった。引率の大森助教授が探鉱の手助けをしたとの事で、関係者の丁寧な対応を感じた。

 坑内の温度は40℃に近く、湿度は恐らく100%近い。汗が噴き出してきた。

「こんな所での肉体労働は地獄だね」

 私が言うと白鳥が応えた。

「朝鮮から強制連行をしなければならなかった訳だよね」

 戦時下には日本人だけでは賄えず、朝鮮半島からの強制連行者や戦争の捕虜を働かせていたという。

 鉱床から流れ出す温水は、坑道の脇を川の様に流れていた。この年に湧き出す温水を利用した常磐ハワイアンセンターがオープンしていた。

 ペグマタイトは花崗岩マグマが固まる時に、最後の液体成分が割れ目等で結晶化したもので、水晶や希少な鉱物からできている。石川町は日本三大産地の一つで、大きな水晶や白雲母、電気石等が印象的だった。

 鉱石マニアの井戸が必死に珍しい結晶を探していた。

 私は鉱石マニアではなかったが、水晶の群生結晶や白雲母・電気石の結晶を見つけてしまいこんだ。


 夕食後にはその日の総括を行い、各人が感想を述べる。その後は連日宴会騒ぎだった。

 団研でも総括の後に酒を飲んだが、研究者の真剣さが滲み出る酒宴だった。

 私達の宴会は物足りなかったが、お互いを知り合う場となったのは確かだった。


 夏休みが終わった。登校したら校門でビラを配っている肥沼と顔を合せた。

「久しぶり、読んで下さいね」

「読んで見るけど興味を持てるかな?最近はマル学同もビラを配り始めたね」

 反日共系全学連の主流派であるマル学同の活動が教育大で始まっていた。

「教育大生は殆どいないのよ。彼も早稲田よ」

 肥沼はビラを配っている男性を指差した。

 共青の影響下にある教育大に勢力拡張を狙って来ているのだ。反日共系全学連の主導権争いも激しいのだと思った。


 共青(共学同)が『ベトナム反戦スト支援集会』と称して数十人の集会を行っていたが、やがて構内でデモ行進を始めた。

 肥沼が私に気づいて、小さく手を振った。

 それに気づいたのかどう分からないが、稲川が吐き捨てるように言った。

「修正主義者は『ベ平連』に加盟したのか」

 ベ兵連とは『ベトナムに平和を市民連合』の事で、アメリカの北ベトナム爆撃に反対する無党派市民の反戦・平和団体だ。

 私は『ベ平連』を評価していたので、稲川に反論した。

「『ベ平連』は全市民の参加を目指す運動だよ。それを党派レベルでしか考えられないのはセクト主義だと思うな」

「21日には全国ストがあって、支援集会もあるから、みんなでそこに参加すれば良いという事で」

 白鳥が割って入った。

 やがてデモ隊は正門から出て、大学の周りの行進に移った。正門の前にはパトカーが一台待機していたが、無届であろうデモ行進を規制する素振りを見せなかった。それを見て稲川が言った。

「権力と癒着してやがる」

 大人しく問題がなさそうなデモ行進だから、事を荒立たせまいと思っただけだろう。『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』だなと、稲川に嫌悪感を覚えた。


 『比較文学論』の講義が終わると、肥沼が声を掛けてきた。

「森君。これから日比谷へ行きませんか」

「行ってみようかな、と思っていたところ、すぐ行くの」

「集会はもう始まっているけどデモには間に合うと思うので、すぐ出発です」

 何人かの彼女のシンパと合流して茗荷谷から丸ノ内線に乗った。

 肥沼とシンパはなにやら話が弾んでいるようだったが、私は敢えて距離を置いて無言を貫いた。

 大手町で降りて日比谷へ向かう。肥沼達はなじみが薄いらしく、案内板を見ていたので、私が先導役になった。

「道は分かるよ。この階段を登れば良い」

 地上に出て堀沿いを進んだ。堀の水が、傾いた秋の陽光を反射して眩しかった。

 日比谷野外音楽堂周辺は集会参加者でごった返していた。『10・21ベトナム反戦デー』と掲示された野音の中に既に人は少なく、外部にそれぞれの団体が隊列を組んでいた。

 赤が多い旗の中で、緑色の教育大の旗はすぐ判った。私は肥沼とともに反日共系全学連の隊列に入った。理学部自治会も来ているかと思ったが、日共系なので場所が違っていた。

 デモ行進では「スクラムを組みます」というリーダーの声に従ってスクラムを組んだ。先頭にデモ慣れしているらしき八人が並び、その後に八人ずつが並んで列を作った。私は体格が良いので外側という事で左の外側に並んだ。隣には肥沼、スクラムを組むと肥沼の胸の膨らみを感じて、妙な気分になった。

 デモは初めてだったし、男子高だったので女性と手を取り合う経験も無かった。

 ハンドマイクを持ったリーダーのシュプレヒコールを追従した。自然に大声が出た。休む間もなく続くシュプレヒコールの声に盛り上げられながらデモ行進が続いた。

 国会前に差し掛かるとリーダーが「手を伸ばしてフランスデモ」と号令。全員が両手を伸ばしてデモ隊は道路全面に広がった。

 そのまま手を前後に振り、スピーカーの音楽に合わせ、『インターナショナル』や反戦歌等を歌いながら歩いた。初めて聞いた歌詞なのスピーカーの声に導かれて自然に歌えた。

 やがて小走りになり国会前を通り過ぎた。

 流れ解散との指示で手を離して歩道に移った。

「ありがとう。今日は良い経験ができたよ」

「また、次も宜しく」

 地下鉄に乗るという肥沼達と別れ、新橋へ向かった。

 駅へ向かう人混みは興奮に支配された様な雰囲気だった。

 私も高揚を感じながら歩いた。初めてのデモ経験だった。





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