アルコールは飲み物
その夜は母が倒れたという噂が広まっていたため、多くの人が訪れた。
「クレアちゃん大丈夫? マリアさんの容体はどうなの? 」
「毎日毎日ここで遅くまで働いてて、いつかこうなるんじゃないかって思ってたんだよ。」
「旦那さんは? 連絡とれたのかい? 」
クレアは椅子の上に立って大声で言った。
「母は大丈夫です。しばらくの間、代理の者と私がいますので今まで通りどうぞごひいきに。」
スカートの裾をつまんでぺこりと挨拶をすると、拍手がした。
「久しぶり、ジュード。」
「あんたをここで見るのは何年ぶりかな。」
ジュードの周りにも人だかりができている。
「なんだ。お前は給仕をしないのか? 」
ジュードはジョッキを握ったまま離さない。
「俺に運ばせたら席に着く前に飲み干すぞ。」
接客業にあるまじき暴言なのに、げらげら笑っている。
「違いねぇ。久しぶりに顔見せたんだから奢らせろ。」
不愛想なジュードを囲んで男たちは笑う。
ラツは昔からここで働いていたように、注文を取り、飲み物を作り、洗い物を片付ける。こんなに使い魔とは万能なのか。一人欲しいとクレアが思ったとき、また新しい客が来た。
「ここだけ異様に客がいるな。閉店セールでもやってんのか? 」
縁起でもないことを言いながら金髪の男がやって来た。ジュードの弟子のセオドアがカウンターに座る。
「セオドアさん。いらっしゃいませ。」
セオドアは月に一度ほどこの店にやってくる。慣れた様子でクレアが持ったお盆の上のジョッキをひょいと持った。
「これ誰のだ? 」
「お客様なのだから座っていてください。」
「クレアは俺の酒を持って来てくれ。」
セオドアが言ったとき、すっと手が上がった。ジュードだった。
一瞬、顔が引きつったように見えた気がしないでもないが、セオドアはそのままテーブルに運んだ。ジョッキを降ろして去ろうとしたのだが胸倉をつかんで隣に座らされた。同い年くらいに見えるが、上下関係がはっきりわかる。
「ここはいつ来ても大賑わいね。」
また新しい客が来た。
「すみません。すぐお席を用意します。」
「いいのよクレアちゃん。ゆっくりで。」
おっとりとした喋り方に、甘い香水の匂いが混じった。
胸の大きく開いたドレスに揺れる赤毛の髪、赤い唇ににっこりと笑みを浮かべた女性が歩くと、周りの男は釘付けになった。
「となりいいかしら? 」
ジュードの席に向かい、彼女は尋ねた。
右側にいたセオドアが立ち上がろうとしたが再び胸倉を掴まれて座らされ、左側にいた男が立ち上がって譲った。
「ありがとう。」
大の男たちが子供のようにぼーっと見つめる美女、この街に住む男なら彼女の存在を知らぬものはないとさえ言われる歌姫、イレーナだった。母を訪ねて時々来ていたが、相変わらず同性でも見とれてしまうほど美しい。
「クレア、三階層の水を。」
魔術でしか使わない、高山の純水をジュードに頼まれ、クレアは店の奥に向かった。
地下の棚に並んだワイン倉庫の奥に、鍵のかかった保管庫がある。魔術用の水は不純物が入らないようにワインと同じくらい大切に保管されている。味は知らないが、一番安いものでもワインの倍の値段だ。
ただの水だけど、シャンパングラスの中にそそぐと白ワインにように見えなくもない。よし、とクレアは談笑中のイレーナに置いた。セオドアの目は相変わらず死んでいた。
「今夜の公演は? お前が来ないと知ったら店が放火されるんじゃないか? 」
「お休みだったけど、貴方が帰って来たと聞いて、嬉しくて来ちゃった。」
イレーナが花のように笑う。彼女の表情が動くたびに、本当に何か甘いものが香るような気がした。
「それはわざわざ手間をかけたな。」
周りの男たちが聞き耳を立てる中、ジュードが言った。
「もう少し遅かったら、俺から会いに行ったのに。」
セオドアの表情が死んでいるのが見えた。どうして師の逢引の間に挟まれなければならないのだろうという表情だった。
「いやだ。お化粧もしていない顔を貴方に見られたくないわ。」
「そうか? イレーナは化粧をしていなくても可愛い。」
美女が少女のように恥じらっている。女性の心を弄ぶのに長けているのは使い魔だけではない。もしかしたら、使い魔も主に似るのだろうか。そんな気持ちで、クレアはちらとラツの顔を見た。
店に元の騒がしさが戻った頃、クレアは休憩のために裏口に出た。ほっとしたときに、餌をねだりに来たのか、白猫が鳴いて寄って来た。
「あら、貴方見ない顔ね。どこのおうちから来たの? 」
真っ白な猫は首輪をしていた。無邪気な猫の目は、誰かと同じ透き通るような青色だった。
「……叔父様の馬鹿。」
イレーナのようにきちんと化粧ができるようになれば、子ども扱いしなくなるだろうか。窓ガラスに映った自分の顔を見る。
コルセットを付けてみようか。母は胸の開いたドレスは着ないけど、このあたりの酒場の女性は皆胸の谷間をくっきりさせたドレスを着ている。イレーナも、それはそれはたわわに膨らんだ見事な谷間だった。
「窓ガラスは姿見の代わりにはならないぞ。」
ひぇっと振り返った。ジュードが背後にいた。
「おっ……どうしてここに? 」
「お前の姿が見えないからだろ。」
クレアはぷんっと顔を背けた。
「イレーナさんがいらっしゃるのに、こんなところに来てはいけません。」
「イレーナは帰った。話したかったのか? 」
ジュードが猫をなでる。猫はすりすりっと手にすり寄る。
「イレーナさんは叔父様に会いたかったのでしょう。ずいぶん、親しげだったし。」
「昔あいつの子供が漁師に絡まれたときに助けたからな。恩を感じてくれてる。イレーナにとっては、俺は孫みたいなもんだろ。」
突然のエピソードにクレアは驚いた。イレーナに子供がいたことも知らなかった。
勘違いしていた自分が恥ずかしくて、クレアは赤くなった頬を抑えて顔を背けた。
「わ、私休憩が終わったのでもう行きます。」
逃げるように扉を開けようとしたとき、ジュードの手がクレアの肩を掴んだ。引き寄せられる力強さに、固まってしまった。
「休憩するなら、店から出るな。このくらいの使い魔じゃ見るくらいしかできないからな。」
自分の不用心さを思い出させる言葉に、クレアは一気に体温が下がるのを感じた。
「そうでした。すみません……。」
ジュードの腕の中から、猫がぽんっと地面に降りた。
「え? この猫さんは叔父様の使い魔さん? 」
まさか、さっきの話を聞かれていたのかと、クレアはわなわな震えた。
「……眼を借りただけだ。」
それでも、さっきの一連の行動を見られていたのかと思うと泣きそうなほど恥ずかしい。
「大丈夫よ、ご主人様。私が守るって言ったでしょ。」
少女の声がして、クレアの肩にずしっと重みが現れた。同時に、ふわっとした毛の感触がした。
「それとも、ご主人様は私の力が信用できない? 」
ポリーがクレアの肩にいる。
「ポリーさん、お部屋にいたはずじゃ? 」
お菓子を食べた後、用意したクッションを敷いたカゴをベッドにして、ぷうぷう寝息を立てていた。
「私仕事はちゃんとするの。」
ふふんっとポリーは鼻で笑った。
「そうだな。お前がいれば安心だ。」
ジュードはポリーの頭をなでる。
「だけど、無駄な力を使わせたくない。」
何も持っていない手をひるがえすと、飴が出て来た。ポリーは前足で受け取った。ふんふんと匂いを嗅いで満足したのか、眼がキラキラと輝いた。
「クレア。ラツに任せてお前は早めに上がれ。当分忙しくなる。お前が倒れたらそれこそこの店開かなくなるぞ。」
「では、あと一時間だけ。」
もぐもぐと飴をほおばるポリーを乗せて、クレアは店に戻った。酔っぱらっているせいなのか何か仕組みがあるのか、誰もポリーに気づかなかった。
幼い頃、父が旅立つ日は悲しくてクレアは泣いていた。街の治安が悪く、クレアを祖父の家に残して母は店に出ていた。
ジュードは泣いているクレアを見つけると、そばにいてくれた。
ある日手紙が届いたとき、ジュードは文字が書けないので返事を書いてほしいと言った。
幼いクレアでも、それは嘘だと思った。けれど、ジュードに任された仕事が嬉しくて、口答えせずに手伝った。
魔術師は難しい本をたくさん持っている。文字の読み書きができないと魔術師にはなれない。
けれどジュードは本当に文字の読み書きができなかった。文字をなでるだけで言葉が頭に浮かぶので読む必要はなく、手紙の代わりに使い魔が言葉を伝えた。
それでもクレアに読ませたり、書かせたりさせたのは、クレアに寂しさから眼をそらすための仕事が必要だと思ったからだろう。
大人になるにつれ、寂しさや悲しさ、怒りや苦しみから眼をそらすことを学んでいくと、ジュードは言った。子供の頃はそれをまっすぐ受け取ってしまうので、感情が強すぎて心が縛られるのだと。
大人になると我慢できるのではなく、そらし方を覚えるだけだとジュードは言った。子供の頃は分からなかった色々な言葉が、今になると身に染みるように理解できる。同時に、子供だからといってごまかしたり丸め込まずに、自分に向き合ってくれていたことを知った。
朝目が覚めて、今日は母を起こす必要がないのだとクレアはぼんやりおもった。でも、ジュードの朝食をつくるという仕事がある。
起き上がって服を着替えて、いつも通りに朝食を作る。ジュードの部屋をノックした時、ラツの声がした。
「叔父様? 朝食ができたのですが……。」
扉が開いた。隙間から手が伸びてきて、出てきたジュードは、人を殺したばかりの強盗でも、もう少しましな顔をしているだろうというほどの圧迫感のある顔だった。
「ジュード、顔。」
背後のラツが部屋の片づけをしながら、頬を指した。
久しぶりに見たから忘れていたが、ジュードの寝起きは母よりも悪かった。
「叔父様、朝食を。」
「……うん。」
うん、という消えるような声に、クレアの胸がきゅんっと高鳴った。
パンとスープに、昨日の残りの料理を並べる。味は悪くないと思うのだが、ジュードは口に入れて噛み、飲み込むのを繰り返す。
「叔父様、朝はあまり召し上がらないのですか? 」
クレアが言うと、ジュードはうなづいた。
「お酒ばかりでは身体を壊してしまいます。」
「酒は贄だ。俺が飲んでるわけじゃない。」
クレアはどういう理屈かわからずぽかんとした。
「贄というと、一般的に血や生餌、作物ですが、叔父様がお酒を飲むとそれが贄になるのですか? 」
ジュードはうなづいた。
「ポリーは砂糖やバニラ、シナモンを好む。あいつは自分自身で食べるが、自分で食えない奴もいる。」
ジュードは襟元をほどいた。のどに紋章のような形の光が光った。
「俺の身体を陣にしている奴は、俺から贄を得る。」
「それは、大変じゃないですか? 」
ジュードはもそもそとパンをほおばって飲み込んだ。
「対策をしておかないと数時間の睡眠じゃ身体は休まらないし、普通に食事をしていても餓死する。」
そんな過酷な状態だとは知らなかった。
「……もしかして、お母様も? 」
「姉さんは元々寝起きが悪い。昔は俺がベッドから引きずり……俺何か言ったか? 」
ジュードが顔をあげた。声がはっきりしていた。
「なにも。」
母の黒歴史を知ってしまったような気分だ。クレアはごまかす様にほほ笑んだ。うまく笑えたと思う。
魔法使いの多くは場所によって力量が変わる。魔力が少なくともその土地の精霊の力を借りることで力を使うことができる。
魔術師はそれに加えて自分の中にある魔力を使い、魔術を行使する。場所に縛られず使い魔を召喚し手足のように使う。そのために対価が必要になる。
多くの使い魔を召喚するならば、それに合わせて対価を用意しなくてはいけない。
爪、皮膚、血液や髪の毛などの体組織や、水晶や銀などの鉱物、生命力や命そのものを対価にすることもある。
人の理から外れた力を使うということは、それ自体が自分の命を対価にしているのだ。
歳をとらないように身体の時間を停めても、使い魔に対価として命を奪われることもある。
「叔父様。あまり無茶はなさらないでくださいね。昨日の夜も、遅かったようですし。」
ジュードは襟を締め直しながら言った。
「お前も無理はするなよ。人間相手ならいくらでも守ってやれるが、魔術師相手なら先に殺すくらいしか対処がないからな。」
突然血なまぐさい話になった。魔術師、というイメージは頭脳派のイメージがあるが、ジュードの場合は力技に頼るところが多いのかもしれない。