馴染み客と酒場の噂
夜になり、酒場が開く前にクレアは何重にも鏡の前で確認し、背中も問題ないか母とソーに見てもらった。
酒場が開くとお客が入って来た。冒険者や傭兵、旅芸人、この酒場は地元の人もくるが、半分以上が流れ者だ。みんな酒を飲みながら情報を交換し、時には母に相談する。
クレアは料理や酒を運ぶのが主な仕事だ。今日は特に人が多い。魔物討伐の話や、宝の隠された地下迷宮の噂、相変わらず火種の尽きない他国の戦況。さりげなく聞き耳を立てながら、クレアはその間を食器や料理を持って行き来する。
「可愛いお嬢ちゃんだな。一緒に呑まないか? 」
背後から声をかけられて、クレアはジョッキを両手にくるっと回った。
「私は忙しいので、ご遠慮します。お客様は楽しんでくださいませ。」
男は一瞬きょとんとしたが、大声で笑った。
「こりゃ驚いた。まるで貴族のお嬢さんみたいじゃないか。」
男の手が伸びてきてクレアの手首を掴もうとしたとき、誰かが割って入った。
「おっさん、あんた新顔だな。」
赤ら顔の男の隣に顔に入れ墨のある男が座った。
「この酒場で許可なく女の子に触ると、腕が腐って落ちるの知らないのかい? 」
男と同じくらい二の腕の逞しい女性が逆の席に座る。
クレアと男の間に入った青年は、クレアの手からジョッキを取った。赤ら顔の男の前にどんっとジョッキを二つ置く。
「彼女は忙しいんだ。俺たちと楽しく飲もうか。」
クレアは顔なじみの冒険者に囲まれて、赤ら顔が青ざめるのを見た。
心の中でお礼を言って、クレアは再び注文を取りに走った。人であふれかえっても、馴染み客は自ら自分の料理や酒をとっていくので助かる。今日は二重の意味で助けられた。
「相変わらず盛況だな、マリアさん。ヨシ先生はまだ魔物討伐に? 」
クレアの手からジョッキを取った男が、カウンターに座り直した。
青い目に金色の髪をしたザックは、父から剣を教わった冒険者だ。傭兵のように魔物討伐に出かけることもあるが、噂話を辿って財宝探しや隠れ里を探しに出かけることの方が多く、お土産を必ず持って来る。
祖父の作った孤児院で育ったので、クレアのことも妹のように可愛がってくれている。
「ええ。三か月くらい前に。手紙もまだないの。」
ジョッキを握りかけて下した。
「三か月って、あんなに筆まめなヨシ先生が手紙もよこさないって珍しいな。」
飲み干されたジョッキをクレアは回収した。
「ジュード先生に相談は? 」
「あの子も今忙しそうだからまだ。」
父の話は気になるが、熱々の骨付き肉が出来上がったので運ばねばならない。クレアは再び席の間を走った。
「おまちどうさま。」
注文先には四人の女性がいた。冒険者らしい姿と装備、一人はジョッキを持って、一人は煙管を咥え、一人はおろおろとし、一人は机に伏せていた。
「起きよう。ほら、お肉来たよ。」
おろおろしながら女性が言う。
「クレアちゃん。もらうね。」
「あ、はい。」
空のジョッキと肉の大盛り乗った皿を交換した。
「だからあの男はやめろって言ったでしょ。みりゃわかるじゃない。安っぽい髪飾りなんかで浮かれちゃって。」
受け取った肉をむしゃりと食べる。
「うるさいー! 安っぽいっていうなー! 」
伏せたまま言う頭に、一人はふうっとたばこの煙を吹きかける。
「大体昼間から酒飲んでるような男はクズって決まってるのよ。」
顔なじみなので、クレアも察した。話の内容もいつもと同じだ。昼間からお酒ばかり飲んでいるなんて、誰かと一緒だと思ってしまった。
へとへとになる頃、客も少しずつ帰り始めた。上がる時間になると、帰って行くザックを見つけてお礼を言わねばとクレアは追いかけた。
「ザックさん、助けてくれてありがとうございます。」
「ああ、気にしないでくれ。この店で酒を飲んでおっさんの手が腐り落ちたら、妙な噂がながれるだろ。」
「へ? 」
「なんでもない。」
最後は小声でよく聞き取れなかったが、笑ったザックが何かを投げたので思わず受け取った。小さな包みで、中は丸い墨のようなものが入っていた。
「旅の魔法使いからもらったお香だよ。寝る前に炊くと良い夢が見れるらしい。」
「ありがとうございます。」
ザックはふと尋ねた。
「ジュード先生には最近会った? 」
「会いました。今日、ノームさんのところでお酒を飲んでいたんですよ。昼間から。」
ぷんっと怒ると、ザックは笑った。
「まぁまぁ。ジュード先生が暇だってことは、この国は平和だってことだよ。」
なだめるように言われて、クレアは気になっていたことを言った。
「叔父様は、最近お祖父様のように研究している姿をあまり見ません。その、疑うわけではないのですが……。」
ザックはどう説明しようか悩むように少し考えた。
「ジュード先生の仕事は、この国を守ることなんだ。マリアさんの仕事に似てる。」
「国の防衛……でも、あんなにお酒を飲んでいてはいざという時に働けないと思います。」
クレアは納得がいかないと言う顔をした。
「ジュード先生水みたいに酒を飲むからな。」
苦笑いするザックの腕に、さきほど机につっぷしていた女性冒険者がしがみついた。
「ザックー。早くー、もう一軒行くよー。」
「はいはい、ねえさん泣かないの。」
涙と鼻水で濡れた顔を、小さな女の子のようによしよしと撫でる。
「あんた……ちょっと前までは後ろについてくるだけの小僧だったのにー。こんなにイケメンになってー。あんたは昼間からお酒飲む様なクズにはならないでよー。」
「分かったから。」
笑ったが、ザックは急に真面目な顔で言った。
「ヨシ先生のことは、俺も気になるから調べるよ。クレアはマリアさんを支えてあげてくれ。」
クレアの不安を見透かしたようにほほ笑んだ。
「本当に、ありがとうございます。私、まだまだで。」
「なんの。君はよくやってるさ。」
幼いころからの知り合いなのに、ザックは会うたびに大人びていく。自分も見習わなければと、クレアは強く思った。
クレアの朝は早い。洗濯をしてから一階の酒場のごみを片付け、掃除をし、朝食を作って、起きていなければ眠っているマリアを起こす。部屋をあけると、起きようと努力をしたのか、ねじまき式の目覚ましが握られていた。これが鳴ると隣家にまで響き渡るほど大きな音が鳴る。そのためマリアの部屋は防音になっているのだが、今日は目覚ましが負けてしまったらしい。
「起きて。朝食を食べたらまた眠っていいですから。」
母を引きずって二階に降りる。
スープと焼いた固いパンを出すと、マリアは水を飲んでから言った。
「おいしい。クレア、貴方いい奥さんになります。」
「ありがとうございます。」
毎日のことなのでクレアは気にしなかった。朝食を終えると、クレアは身だしなみを整えた。
「ケーク草の出荷準備と、ヘイゲルさんのところに届いた荷を持っていってきます。他によるところはありますか? 」
母は荷を確認して言った。
「ノームさんのところにお礼を。これを。」
包みを母は鞄に入れた。
「ホエー産の豚の塩漬け。蜜のお礼に。」
「了解しました。」
店の裏口に置いている配達用の三輪車を出した。今日は荷物が少ないので、荷車は外して後部座席に荷物を載せた保管箱を乗せる。
「クレア、安全帽もね。」
父が旅先で狩った魔物の殻でできた安全帽は兵士の付ける兜と比べると軽く、丸くて白くて可愛い形をしている。父の知り合いの絵師が花柄で絵も描いてくれた。
「歩いている人や馬車に気を付けてね。」
三輪車に乗るのが苦手な母は、クレアが三輪車に乗るときいつも過保護になる。こんなに便利な乗り物なのにとクレアは思うが、人それぞれ得手、不得手はあるものだ。
まずはノームの家に寄った。決してジュードに会いたかったわけではない。会いたかったわけではないが、少し期待している。
「ごめんください。ゲイシーのものです。」
ノックをすると返事がした。
「いらっしゃいクレア。」
「昨日はありがとうございます。母からお礼の塩漬け肉をもってきました。」
ノームが両手を広げて喜びを表した。
「古い蜜が塩漬け肉に化けた。」
嬉しそうでクレアも嬉しい。母の贈り物はいつも的を得ている。
「とてもおいしかったです。」
「そりゃよかった。ホエー産か。これはワインに合いそうだ。」
扉を叩く音がした。リズミカルで独特の、太鼓をたたくようなノックに、ノームが言った。
「開いてるよ。」
がちゃっと扉が開くと、ぼろぼろの外套をまとった人物がのぞいた。逆光で一瞬良く見えなかったが、髭と前髪で顔が見えず、長く風呂に入っていない匂いがする。
ノームの店は二階に宿がある。その客かもしれない。
「すみません、お邪魔しました。」
クレアを見て入りづらそうにしていたので、お辞儀をしてクレアは出ようとした。
「あんた、ゲイシーのところの娘かい。」
老人の声がした。
「はい。酒場を営んでいます。」
客は固まったようだ。怖いものでも見たように下がる。
「大丈夫だよ。この子は普通の娘さんだ。ジュードがとても可愛がっている。」
それでも店に入りたがらなかったので、クレアは申し訳なく思いながら、お辞儀をして店を出た。
ジュードは魔術師というよりも、この界隈ではその辺のゴロツキよりも所業は悪名高い。基本的にむやみやたらに暴力を振るうことはない。しかし、軽犯罪やいわゆる迷惑行為を働くものにとっては、その存在は警吏や兵士よりも恐ろしいと言われている。それ以上の犯罪を行い、彼や彼の周りに不利益を与えたものは、命を落としているとも言われている。
クレアは目撃したわけではないが、母のお尻を触った客の手を、ぐらぐらに煮だった鍋の中に押し込んだ、という話は何度も聞く。目撃した人は、一番怖かったのは、その一連の行動を、激高してやっているのではなく、眉をひそめて不愉快そうな顔で淡々と行ったことだという。
あの旅人も何かジュードに怖い目に遭わされてしまったのだろうか。
悩んでも仕方がないので、クレアは荷物を届けに回った。昼前には終わり、酒場に帰った。
「ただいま戻りました。」
店の中は静かだった。昼食の準備をしている時間なのに、その匂いすらない。
「お母様。戻りました。」
クレアは店の中を見渡した。テーブルの上で用意されたじゃがいもが転がり、その上で母が伏せっていた。
「お母様? 」
頭を触ると熱い。熱がある。クレアは上着を脱いで母にかけると、近所に住んでいる医者を呼びに行った。なんとか二階にある自室まで運び、寝巻に着替えさせた。
「マリア。あんた歳なんだから気を付けろって言ったでしょう。流行りの熱は長引くよ。」
顔なじみの老医師は、ため息交じりに言った。
「絶対安静だよ。七日、いや十日は様子見ないとね。」
「冗談じゃ……。私がいなきゃお店が開きません。」
母が起き上がろうとしたので、クレアが慌てて抑えた。
「酒場は私がなんとかしますから。」
「……貴方には、まだ、無理です。」
老医師は薬を置いた。
「そりゃそうだ。あの酒場はあんたじゃなきゃ無理だね。」
診察を終えて立ち去る医師は最後に言った。
「だからさっさと治すんだ。無理すれば長引くよ。」
ぐっと黙った母をみて、クレアはほっとした。こんな熱でも、母は酒場のカウンターに立ちかねない。
「ありがとうございます。」
「ほんとだよ。あの酒場はマリアやマーサみたいな異常に度胸のある女くらいしかやってけないね。」
老医師はクレアを見た。
「お店は当分閉めなさい。君みたいな若い娘さんには荒くれた傭兵や冒険者たちの相手は無理だよ。」
言われて、クレアは黙った。けれど、お店は閉めるわけにはいかない。
「お母様、酒場のことはお祖父様やソーさんに相談します。だから、安心してください。」
なるべく母に安心してほしくて言い、クレアは微笑んだ。
「ご飯は食べられそうですか? スープを作りますね。」
「ありがとう。あわてないでね。」
クレアは台所に降りてから、自分の両頬を叩いた。父が不在の今、母とこの店を守らねばと気合を入れる。
鏡の前で情けない顔をしていないか確認する。胸についたブローチは、父が遠方で仕事をした時に持って帰ったお土産だ。まだ雄羊のブローチはつけられないけれど、マリアが母からブローチを受け継いだように、クレアもいつか受け継ぐ時までにとくれた。
笑顔を浮かべてクレアは台所に向かった。