曽祖父と曾孫
ジュードの手がイチに伸び、触れようとした瞬間ふわりと風が吹いた。ジュードがクレアを掴んで引き寄せた。イチの手がするりと離れてしまい、見ると彼女の身体が浮かんでいる。
何が起きたのか、眼をぱちくりさせたクレアの前に風が渦巻き、イチを抱きかかえるリューイがいた。
抱き上げられたイチの唇に、唇を重ねる。すると、濁った水が清流に追い出されるように、彼女の身体に絡みついていた濁った線が清浄になっていく。
「サブロー。イチをいじめちゃだめだって言ったはずだぞ。」
男のそばに、いつの間にか褐色肌の女性がいた。ヒナと呼ばれた女性は男の顔を踏んでいる。土にめり込み、腕がもがいているが女性をどけることはできない。
「ジュード、油断するな。」
ラツの声がして黒い影が渦巻く。それが外套のように、クレアとジュードを包んでいた。
「人型の使い魔を見たのは久しぶりだ。」
いつもは朗らかなラツの声に緊張感があった。
リューイは血で汚れたイチの口を拭った。
「……リューイさん、貴方は魔術師だったんですか? 」
クレアの問いかけにリューイはほほ笑んだ。
「高位の魔術師ほど自分の力を隠すのがうまいんだよ。」
ジュードの警戒がクレアにも伝わる。けれどクレアは恐ろしいとは思わなかった。
「ヨシフミ様。その娘は、貴方の孫。どうぞお連れください。」
男が叫んだ。クレアはリューイを見た。
「リューイさんは、私の曽祖父なのですか? 」
困ったように笑ってリューイは見つめ返した。
「クレアさんの中にある僕の血は薄すぎて、僕にもすぐには分からなかった。けれど見れば、君にはヨシカズ……君のお祖父さんの面影があるね。」
それはリューイの子供なのだろう。その目に懐かしさがこもる。どうしてだろう。母を苦していている元凶なのに、敵意を抱くことができない。
女性が今度は強めに男を蹴った。
「リューイ、もうこいつ食べて良い? 失敗するからやめろって言ったのにちっともいうこと聞かないし。イチはいじめるし。」
ヒナが首だけ向けて言った。
「ヒナさんの好きにしていいよ。」
穏やかな口調でリューイは言った。彼は自分の腕のなかにいるイチの呼吸が段々おちついていくのを見ていて、それ以外は興味がないようにも見えた。
「何故です、私は、貴方をふたたび玉座に……。」
「僕は今のジハンの方が好きだな。活気があって、戦もない。僕らが治めていた時よりも素晴らしい国じゃないか。」
ヒナの口が耳まで裂け、人相が変わった。彼女の目は金色に輝き、獣のように顎が長くなって大きく口を開ける。
ジュードがクレアの目を手で覆った。
悲鳴は一瞬しか聞こえなかった。後は何かを咀嚼する音がして、もう一度見るとヒナの顔は元の美しい女性になっていて、口の周りと手についた血を舐めていた。
「簡単に仲間を殺すんだな。それがスオウのやり方か? 」
「仲間じゃない。僕が指揮したならもっと早く済んでる。」
ヒナがじっとラツを見ている。
「とは言っても、僕がイチさんには強化魔術を施しているから、そのせいでクレアさんを危険な目に遭わせてしまったね。」
飼っている子猫がひっかいてしまったような申し訳なさでリューイは言った。
その時、イチの目が開いた。リューイの目と目が合った瞬間、彼女の青白かった肌に赤みが差し、腕の中から降りようとする。暴れたイチがリューイの頭に巻いていた布を掴み、ほどいた。
黒く長い髪が揺れて、露わになった顔にはただれがなかった。代わりに彼の耳があるはずの場所には、犬のようなふわふわの、ぴんっと尖った耳が付いていた。
「……その耳……お父様に会ったのですか? 」
「会ってはいないよ。かなり近くにはいたようだけど探さなかった。近づけば僕も犬になるし。」
だから彼らは父が犬になっていたことを知っていたのか。
暴れるイチを、ヒナが後ろから抱きしめた。びくっと震えて叫び、子猫のように暴れる彼女を抱き上げて、宙に浮かんだ。
「ヨシフミどうする? 私はどっちでもかまわない。おいしいお酒をくれたお嬢ちゃんをいじめるのはちょっと心が痛むけど。」
ぺろりと口の端を舐める。
「そっちの子供はおいしそう。魔力もたっぷり入っているし。」
ラツの影が大きくなる。
「だめだってば。魔力を無駄に使いたくないし、クレアさんにはお世話になった。」
風が渦巻き、リューイはほどけた布を首元に巻く。
「追わないでほしい。争いたくはない。」
クレアを抱き寄せる腕に力を込めて、ジュードは言った。
「お前を生かしておけばクレアを狙うだろう。」
ラツの影が濃くなったような気がした。
「信じてもらえかもしれないけど、僕は故郷に戻るつもりはない。玉座もどうでもいいし、もう理由がない。」
ふわふわとイチを抱いて浮かんでいるが、ヒナの目が光る。獲物を狙うような目で瞬きもしない。
「追いません。でも、イチさんを大事にしてください。」
争いたくないというのは、たぶん本当だ。
「大切なら、治す前に傷ついたり苦しんだりしないようにしてあげてください。」
リューイは苦笑いをした。そして風が舞うと、いなくなっていた。
あたりに残ったのは血と、のどかな夕焼け空だ。
「クレア。」
ジュードのため息交じりの声に、クレアははっとした。
「あの、はい……。」
「むやみに会話をするな。魔術や呪いのきっかけになる。」
「ごめんなさい。」
ひょいっとクレアを抱えて、痛む足に手をかざした。
「他にけがは? 痛む場所は? 」
「あ、ありません……。」
身体が密着してドキドキする。
「ジュード、あっちで死にかけた男がいた。マリアの呪いの触媒にされたな。」
ラツが突然現れた。目を細めて馬車を見て、いつもの朗らかな口調で言った。
「持って帰る。馬は無事か? 」
「無事だ。運転手は雇われただけの男だった。気絶しているが縛るか? 」
「起こして運転させる。」
クレアを抱えたままジュードは馬車に乗る。運転手はびくっと震えていたが、ラツが隣に座ると黙って操縦を始めた。
クレアはジュードの膝からそろっと降りようとしたが、ぐいっと引き戻された。
「あの、叔父様、重くありませんか? 」
「ない。」
「邪魔じゃ……。」
「ない。ここから動くな。」
「はい……。」
重みはないというが、触っているので熱は伝わる。こんなに長く他人に触れられるのは幼い頃以来で、それもジュードの膝の上に十七になった今乗ることになるとは思わず、クレアの心臓はドキドキと鳴りっぱなしだった。
苦しい、のに幸せすぎて、いろんな恐ろしい目に遭ったはずなのにどれも薄れていった。
戻ってくると店はいつも通り営業していた。裏口から入り、一瞬目が合ったハイジが驚いて、駆け寄ろうとしたが足を止めて、酒場の女主人に戻った。その間五秒もなかっただろう。抱えられてジュードの部屋に行き、ベッドに下ろされた。
「痛むのは足だけか? 」
「はい。」
「見るぞ。」
ひょいっと足を掴まれた。クレアはスカートのすそを慌てておさえた。
「骨は大丈夫そうだが、明日医者を呼ぶ。」
背後の棚を見もせず、開いた手のひらに瓶が飛んでくる。
「叔父様、ごめんなさい。」
ジュードの手が一瞬止まり、瓶のふたを開けた。
「お前は悪くない。俺が油断して怪我をさせた。」
叱られるよりも胸が痛くなる。何も言えなくなってしまった。
「クレア。」
頬にジュードの手が触れた。
「私、叔父様の邪魔だけはしたくなかったのですけど、ポリーさんまで怪我をさせてしまいました……。」
涙が溢れて笑おうとしたが笑えなかった。
「ポリーは大丈夫だ。傷も痛みも残っていない。次に会ったときは、上等の菓子を用意して愚痴を聞いてやれば、機嫌が直る。お前のせいじゃない。」
ジュードを余計困らせるだけだと分かっていても涙が止まらなかった。
「……はい。」
うなづくと、クレアの唇にジュードの指が触れた。涙をぬぐうように離れて額が触れた。
「情けないが、お前が大人になったら、どう慰めていいか分からない。」
肩のところで切り落とされた毛先を、傷口と同じように優しく撫でる。クレアはくすっと笑った。
「そばにいてください。できるときだけでいいです。」
額を摺り寄せると、背中に手が回った。
クレアの足は捻挫ですみ、骨には異常がなかった。フロアーには立てないけれど、料理の下ごしらえを手伝ったり皿洗いはできる。ハイジが三つ編みにして結い上げると、髪が切られていることは分からなくなった。
昼間の買い出しに出られない間、クレアはスオウの資料を借りて読んだ。
元々は小国の集まりだった島国を、スオウという一つの国にまとめたのがヨシフミ王だった。彼は魔術師としても王としても優れていたが、人の国を治めるのは人であるべきとして退位し、息子のヨシカズが王となった。その代では法整備がされ、徐々にスオウは国として機能し始める。他国との貿易も始まり、国は栄え始めた。
転機が訪れたのはヨシカズ王が変死し、その従兄弟ヨシアキが即位してからだ。スオウは元々災害の多い国だったそうだったが、そこに地震も起きた。国土は荒れたがヨシアキ王は民を顧みず、税を上げた。国土の整備や民のためには使われず、貴族や王族の生活を維持するために使われた。
先代、先々代の王が必死につなぎとめるために行っていた国務を怠り、スオウは崩壊した。
ヨシアキ王への国民の恨みはすさまじく、その家族を処刑するまでに至った。災害の死者の数や、災害後の復旧対策への無関心さからは、その気持ちも理解できる。
反乱は各地で起き、最終的な首謀者は当時の大臣と軍部ということになっている。父、ヨシユキの名前はなかった。
ジハンは民主主義を唱えた。それまでの階級制度を廃止し、王のいない国になった。それを受け入れられず、それまでの利権が奪われたことに不満を抱く者もいる。その不満が、反乱組織を作った。
その中には王を求めるものもいれば、新しい王を建てようとするもの、現政府への不満など、根本は様々だ。
読み終わってからクレアは、父のことを考えた。
故郷のことを話すとき、そこに暮らす人々のことを考えていたのだろう。自分にできることはないのか、このまま自分だけが平穏に暮らしていいのかと、悩んだ。
だから、家族と共に安全な場所で暮らすことはできず、誰かを助けるために傭兵になったのだろう。衝動的に心のむくままに飛び出したりはしない。今の自分が故郷に帰っても無駄に混乱を招いて、せっかく成り立ちかけた国を崩壊させてしまう。
きっと父の心は今も、スオウの民として悩みながら、苦しみながら、正しいことを選ぼうとしている。
クレアは資料を丁寧にしまいながら、彼の言葉を思い出した。
反乱組織の男を一蹴して、今のジハンが好きだと言ったあの人は、心からそう思っているのだろうか。
戦乱を終わらせ、スオウという国に小国全てをまとめ上げた。それだけ偉大な功績をした国は、今はない。王もいない。自分の存在も後世に残らないかもしれない。
それでも人々が作り上げた新しい国の方が好きだと言った言葉は、嘘には思えない。
クレアを誘拐しようとしていた反乱組織は、イチを除いて確認できたのは二人。マリアの呪いの触媒として使われていた男は金で雇われていて、今は命に別状はないがもう二度とこの店には寄り付かないだろうというほど怯えていたらしい。
潜伏先と思しき場所には人はいなかった。大量の血痕と複数人のものと思われる肉の端が落ちていた。残された地図やメモ書き、装備などから五人以上はいたと思われる。後は金で雇われ事情も知らずに手伝わされていた者たちだけだった。
おそらくヒナがおいしくいただいたのだろう。
反乱に手を加える気もなく、後始末をして消えて行ったヨシフミ王は、何故ここに来たのだろうか。それだけが分からなかった。