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見習い女主人の奮闘記  作者: 柳沢 哲
10/13

釣り場での交渉


 気が付くとクレアは大きな羽ペンを持っていた。足元には絨毯のような便箋がある。そうだ、ジュードの手紙を書かなくてはいけない。羽ペンを動かすと、声がした。

「インクがないと書けないわよ。」

 ポリーの声がして見ると、ポリーが牛のように大きくなっていた。ポリーのとなりにあるインク壷も大きい。

「ポリーさん。そんなに大きくなって……。」

「何言ってんの? あんたが小さくなってるだけなのに。」

 クレアは自分を見た。身体が小さくなっただけではなく、子供に戻ってさらに小さくなっている。

 羽ペンを置いて、インクの壷を外そうとするのだが重くて持ち上がらない。

「諦めなさい。あんたには無理よ。」

「だめです。叔父様に頼まれたのに。」

 クレアはインク壷に飛びついた。するとインク壷がひっくり返った。

 真っ白な便箋の上にこぼれたインクが広がっていく。羽ペンも汚れてしまった。悲しくなり、クレアは泣いた。

 顔も服もインクでべたべたに汚れてしまった。母が作ってくれたワンピースなのに。とても悲しい。

 その時、インクが波打った。便箋の上をまき戻るかのようにするすると戻って行き、縦長に伸びていく。

 真っ黒な影のような人の形になった。ぽかんと見ているとインクが動いてクレアに手を伸ばした。

「こっちにおいで。クレア。」

 真っ黒なインクが喋った。

「その墨を取り除いてあげるよ。」

父のように優しい声だった。クレアはそっと手を伸ばした。その直前に、大きな拳がインクを叩き潰した。

 インクが津波のようにやってくる。大きな手がクレアを守るようにすくいあげた。ふうっと息を吹きかけて、クレアの身体についていたインクが吹き飛んで行った。服も手もすっかり汚れが取れて、ワンピースは元通りにもどった。

 机の上にはもう一度白い便箋があった。大きな手がインク壷のフタを外し、羽ペンにインクを付けてからクレアに渡してくれた。

 クレアは手紙を書いた。かすれると手がインクを付けてくれたので、最後まで書ききった。達成感に満ちた気持ちでクレアは笑った。大きな手がクレアの頭を優しく撫でた。

 そこで目が覚めた。ポリーの顔がすぐそばにあってのぞき込んでいた。

「涎垂れてるわよ。」

「ええっ。」

 口を押えて跳ね上がる。

「冗談よ。でも、そのくらい幸せそうな顔してたわ。」

 ポリーはふふっと笑った

 不思議な夢だったが、とても幸せな夢だった。ザックのお香は本物らしい。

「そうだ。ご主人様から伝言よ。今日は戻らないからうかつなことや危険なことはせず家でおとなしくしてるようにって。」

 子供に言って聞かせるような言葉に、クレアは若干落ち込んだ。

「私は、いつまでも叔父様にとって、子供なんですね。」

 ぽすんっと枕に頭を落とすと、ポリーがもそもそとクレアの髪の毛をかき分けてやってきた。

「クレア。ご主人様はあんたのこと子ども扱いしているのは間違いないわ。」

 きっぱりと言われてしまった。

「でも、子ども扱いされたくないなら、大人にならなきゃいけないのよ。」

 クレアは顔をあげた。ポリーが三毛ではなく、長い黒髪のかつらでもつけたような状態だった。

「大人にはそのうちなるけど、子供には戻れないわ。それに、ただ大人になっただけじゃご主人様は振り返らないわよ。」

 一番こたえる正論に、クレアは頭を伏せた。いつまでも落ち込んでいられないので、朝食を作る。ハイジも起きて一緒に食べた。

 空は、昨晩ポリーが言ったように荒れていて、風が強く吹き付ける。出歩いている人も少ない。

「傘がひっくり返ってしまいそうですね。」

 外を眺めてハイジが言った。

「本当に。今日の買い出しは難しいですね。」

 保管庫に肉や野菜はいくつかあるが、こんな天気だと客も少ないかもしれない。

「マリア殿はいかがでしたか? 」

「体調は良いようです。呪いはまだ飛んできているので、しばらくはお祖父様のところに。」

 ハイジは少し考えた。

「ということは、相手の魔術師もすでに何らかの対策をとっている可能性がありますね。」

 ジュードや祖父も同じことを言っていた。

「何らかのというと、代わりの贄ですよね……。」

「はい。跳ね返った呪いの対策には鳥や猫、犬などの小動物からより複雑で強い呪いの場合には、人間を用いることもあるかと。」

 クレアはスープを混ぜながら言った。

「そうなるとすでに、何人か死んでしまっているかも……? 」

「その可能性はあるかと。魔術師殿から伺ったところ、クレア殿とお父上殿をかどわかす隊に別れているのであれば、それ相応の人数がそろっていると予想されます。」

 ハイジは髪を緩やかにほどいているが、その目は初めて会ったときと同じ、軍人の顔つきだった。

「もう一つの隊が壊滅していながらも、自棄になって襲い掛かってこないところを見るとよほど自信があるのかもしれません。もしくは完全に仲たがいして独立して動いているのかも。」

 クレアの視線に気づいてハイジはほほ笑んだ。

「最も、魔術師殿の結界やこの付近にいるゲイシー家の護衛が優秀だというのが一番の理由かと思います。」

「ご、護衛、ですか? 」

 確かに毎晩知った顔が訪ねて来てくれた。

「はい。この建物の中は王室よりも堅牢な結界があり、向かいの八百屋や隣家にも武装した者がいます。もしも私がクレア殿を攫おうと思っても、どう攻めても失敗する結果しか見えません。」

 気づかなかった。驚いたクレアの顔を見て、ハイジは言った。

「クレア殿。貴方が気づかないのも無理はありません。相手はそれを生業とする者。やすやすと気づかれる者では務まりません。」

「な、なるほど。」

 ハイジはもぐっとパンをほおばった。

「私も、最初は化粧が苦手で苦手で。」

 信じられないことをハイジは口にした。

「遊技場に通いそこで最も美しかった踊り子や歌姫に指示を仰ぎ、やっとそれなりになったのです。」

「お化粧にも、先生が……。」

「もちろん。」

 ハイジは教師のように言った。

「何事にも勉強や修業が必要なのです。そこで良い師に巡り合うことほど重要なことはありません。」

 人差し指をぴんと立ててハイジは言った。

「クレア殿。人生は短いです。その中で物事を最も吸収できる期間というのはもっと少ないのです。そんな限られた時間の中で、あれもこれもと欲張っていてはどんなことも身に付きません。」

 クレアはハイジの顔を見つめてふんふんとうなづいた。

「クレア殿は母上の技術をしっかりと学んでいます。この朝食も短い時間で手際よく出されながらも、ふかふかのパン、さっぱりした具だくさんのスープ、と完璧です。」

 突然褒められて、クレアは驚いた。

「本格的な料理はソー殿にお任せして、クレア殿は手早くできる前菜を手際よく出していらっしゃいます。貴方と同い年だった頃の私は、肉を炭に、スープを塩水に変えていました。」

 突然の黒歴史にクレアは何といっていいか分からなかった。

「なんでも秀でるのは天才に任せて、まずはコツコツやっていきましょう。」

「はい。」

 きれいにまとまったところで、クレアは元気よく返事をした。



 翌朝はきれいに晴れた。朝になったがジュードはまだ戻ってこない。何か連絡がないかと気になりつつも、部屋の掃除をしているとポリーが突然現れた。姿が見えないとどこにいるか分からないが、いつもそばにいてくれるのだとわかる。

「クレア。ご主人様よ。」

「え? 」

 振り返ると大きな蛇が机の上にいた。この前馬車にいた蛇だ。クレアの肩からポリーが飛び降りて、彼女は蛇に近づく。何も知らない状態で見れば、ポリーが食べられてしまいそうにも見えて不安な光景だった。

「クレア、呪いの触媒を見つけた。」

蛇がジュードの声で喋った。

「港で見つけた冒険者や浮浪者を使っていた。なんとか会話ができる奴を見つけて問いただした。当初あいつらは姉さんでもクレアでもどちらでもよかったようだ。不安を煽って連れ出す。詐欺師がよくやるやり口だ。」

 無表情だが、不愉快そうな声がする。

「まさか魔術師の対策をとってくるとは思わなかったんだろう。隠れ家は分かったから、今から潰しに行く。」

 やっとこの騒動も片付くのかと、クレアはほっとした。

「店が閉まる頃には帰る。」

「はい。でも叔父様、あまり無理しないでくださいね。」

 血なまぐさい方面で心配だ。

戻ってきたときにおいしいお酒とおいしいつまみを用意したい。ハイジに報告して、クレアは買い出しにでかけた。

 いつもの酒屋にお酒を頼み、念のため港にも行くと閑散としていた。漁にも出れなかったので仕方がない。クレアはこんな時の裏技を父から教わっていたので、釣り人の多い場所を探した。

 釣り人と交渉して、釣った魚を分けてもらうのだ。人によってはお金は遠慮されることもあるので、塩漬け肉やお酒と交換する。

 釣れてそうな釣り人を探していると、その中に見覚えのある服の柄を見た。

「リューイさん? 」

 声をかけると釣り人が振り返った。

「おや、クレアさん。」

「釣り、ですか? 」

 リューイの持っている桶の中にはヒラメが入っている。

「船が出なくてね。一日暇になっちゃったから相談したら宿屋のおやじさんが貸してくれて。」

 そう言っている間もまた釣れた。

「上手ですね。」

「餌がいいのかもね。バッタがたくさん見つかったんでつかったらよく釣れるよ。」

 串にささったバッタがリューイの手元にはあった。

「今日は、この前一緒にいたお嬢さんはいらっしゃらないんですね。」

 クレアは周りを見た。イチの姿がない。

「イチさんは釣りには興味ないみたいだからね。」

 たしかに、女の子の好きな遊びではない。

「お買い物ですか? 女性はお洋服やアクセサリー見るのが好きですし。」

「大通りならいいんだけどね。変なところに行ってないといいんだけど。」

 クレアは、東地区にいたイチを思い出した。

「リューイさんとイチさんは、ご家族ではないのですか? その、なんだかすごく仲が良く見えていたので、ご兄弟かと。」

 少し込み入った事情がありそうだが、クレアはつい尋ねてしまった。

「兄弟じゃないよ。彼女は身寄りがなくて、僕が引き取ったんだ。」

 暑そうに顔を隠した布をパタパタと振った。

「でも僕が頼りないせいか、個人行動が多くて。」

 その言葉に、クレアはイチと自分が重なって思えた。

「リューイさん、イチさんを子供扱いしていませんか? 」

「え? 」

「行動を制限したり、あんまり大人っぽいドレスやお化粧を制限したり。」

 しばしリューイは黙った。心当たりがあるのだろうか。

「いやでも、イチさんはまだまだ子供だし。お化粧したりこう、丈の短い服を着ていたらよからぬ男が寄ってくるかもしれないし。

 その過保護さに、クレアはぽつりと言った。

「その、イチさんはもしかして、子ども扱いが嫌なのかもしれません。」

 クレアは、自分を睨んだときの態度を思い出した。ドレスを見る彼女の後姿を思い出した。

「好きな人のために大人になりたいのに、なかなかうまくいかなくて、もやもやしているのかも。」

 クレアの言葉に、リューイはなにか思案した。

「女の子は難しいね。」

「はい。難しすぎて、自分でも困ってます。」

 リューイの竿に魚がかかった。

「ハリセンボンか。」

 ひきあがったのは、大きな棘のついた魚だった。ウニのように四方八方に針をとがらせている。リューイは手こずりながらも外した。

「持って帰るんですか? 」

「身は少ないけど雑炊やお吸い物にするとおいしいよ。皮も提灯にすると置物として売れるし。」

 時々軒下にぶらさがっているのは見るが、食べれるとは知らなかった。

「リューイさんはいろんな食べ物をご存じなんですね。」

「生まれた場所が海沿いでね。うちは商家だったからいろんな商品を見たり、口にする機会があったから。」

 父の生い立ちと重なった。

「商家、なんですか? もしかして東国はかなり商人の地位が高かったり、します? 」

 ふふっとリューイが笑った。

「どうして? 」

「リューイさん、ツバメの巣の味をご存じだったので。とても高価なものだから、採ってくる人たちでも食べられないと聞きました。」

 感心したようにリューイは唸った。

「なるほど。まぁ、どちらかというと裕福ではあったね。でもツバメの巣を食べれたのはそんなに自慢できる話じゃなくてね。」

 餌を食われてしまったらしく、リューイは釣り針を引き上げて、バッタを付けた。

「親に勉強だと言われて、高級料亭の下働きをさせられてたことがあったんだ。そこで、ある貴族の夫婦がツバメの巣を注文したんだけど、料理が出来上がる間にケンカをしてしまって。」

 クレアは、注文をとってお酒を持ってきたときには笑いあっていた二人が、つかみ合いの殴り合いを行っていた時のことを思い出した。

「それでね、お代は払ってくれたけど、料理は手つかずで。もちろんふつうは捨てるよ? でも料理長がね、味を知るのも勉強の一つだって言って、みんなで一口ずつ分け合ったんだ。」

 今度はクレアが感心してうなった。

「それは貴重な体験ですね。」

 クレアは納得した。そして自分の身たてもまだまだだと思った。

「料理で思い出したんですが、リューイさん。私、お魚を譲ってほしいんですが。」

「これ? 」

ハリセンボンをつまんでリューイは言った。

「それは……むずかしそうなので……そのヒラメを、お酒か、塩漬け肉か、お金で。」

 リューイはハリセンボンを置いた。

「この前クレアさんが買ってくれたおかげで、料亭でも信頼が得られて交渉がうまくいったからお金には困ってないな。どんなお酒? 」

「ワインです。白ワインは魚にも合いますよ。塩漬け肉にも合います。」

「お譲りします。」

 交渉成立した。

 魚をもらっていた時だった。リューイに向かってやってくる人影があった。褐色の焼けた肌をした女性で、リューイと同じように東国独特の刺繍の入った布の服を着ているのだが、かかとの高いサンダルを履き、開いた布の裾からは足が見え、夜の店で働く女性のように胸元を大きく開いていた。

「追加のイナゴ。」

 女性は串にささったバッタを持ってきた。

「ありがとうヒナさん。」

 リューイは受け取る。周りの釣り人もちらちらと女性を見る。踊り子のようにも見える女性は、生粋の東国人とは違う、クレアと同じように混血のような顔立ちをしている。しかし、褐色の肌に長いまつ毛、大きく赤い唇はぽってりと膨らんでいて、女性としてとても魅力的だ。

 女性はリューイの持っているワインに気づき、ひょいっと取った。

「ヒナさん。お昼からお酒はだめだって。」

 コルクを外して水のように豪快に飲む。周りの目線も釘づけだ。

「良いお酒はいつ飲んだっていいもんだなぁ。」

あっという間に半分も飲んでしまった。

「お酒、お好きなんですか? 」

あまりの気持ちのいい飲みっぷりにクレアは尋ねた。

「うん。好きだよ。スオウの神酒が一番好きだけどこれも悪くないね。」

 女性はぺろりと口の端を舐める。色っぽい。

「ヒナさん。スオウはもうないよ。」

「えー? そうだっけ? 」

「あとお酒はそんな風に飲むものじゃないよ。」

 リューイがたしなめる。

「私の家は酒場なんです。もしまたお時間があれば立ち寄ってください。」

「本当? 行きたい。」

「だめだって。ヒナさんが行ったらお店のお酒飲み尽くしちゃうでしょう。」

 子供のような顔をする女性をなだめる。

「では、また機会があれば。」

「ありがとう。」

 クレアは魚の入ったカバンを持ってもと来た道を戻った。

 なるべく不自然でないように、早歩きになる足に力を入れる。徐々に指が震えてくるので、鞄のひもをぐっと握った。

「ポリーさん。」

 耐え切れずに言うと、肩に重みがのしかかった。

「いるわよ。」

 ほっと安心してクレアは周りに目配せをする。市場はいつもより少ないとはいえ、にぎわっている。

「あの商人、普通の男よ。女も服装は派手だけどただの酒好きね。」

「そう、ですか……。」

 クレアはなるべく人ごみをに紛れるように歩いた。

「なにが気になるの? 」

「私、リューイさんの連れはあの女の子だと思ったんです。でも、それが勘違いだったように思えて。もしかして、リューイさんは……。」

 クレアの手首を誰かが掴んだ。

 人ごみの間、クレアの手を掴んだのはイチだった。

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