天使の命日
世界でも有数の大国、オルトバーネス。この国は代々オルトバーネス家によって統治され、その王位は世襲によって受け継がれている。王家の常に習い、当代の王太子はとても綺麗な顔立ちをしていた。
「支度は済んだ? くれぐれも失礼のないようにね」
オルトバーネス国王都、その中心に位置する城で、黒い衣服に身を包み、美しい王子はそう言った。てめえじゃねぇんだから失礼な真似なんかするかよ。そう思ったが、スヴェンはただ恭しく頭を下げるに止めた。
揃って黒いクラバットを締めているスヴェンとクリスの様子を見て、王子が満足げに頷く。王子の護衛隊、通称君影隊の軍服の正装は、深緑のクラバットであったが、この日ばかりは漆黒のそれだ。これは、喪に服していることを示す。
相対する王子も、喪服を着用していた。派手好きで軽い服装の多い王子の割には珍しく、全く着崩すことなく堅苦しい衣服に身を包んでいる。そういえばクリスでさえ、今日はきちんと軍服を着ていた。
王子の視線が、部屋の片隅に生けられた一輪挿しのヒメサユリに向く。愛おしそうに、そして少し寂しそうに、そっとそれに触れる。まるで触れれば壊れてしまうかのように、優しく。
「もう、あれから十年も経つんだね……。兄上、僕はあなたが誇れるような弟に、ちゃんと育ってるかなぁ」
「……王子、そろそろお時間です」
「うん。わかってる」
オルトバーネス国第二王子にして王太子、ディーデリックの目がヒメサユリから剥がれた。
「一年に一度くらい、みんなでお参りに行かないと。兄上が寂しがるからね」
この日はオルトバーネス国にとって、大いなる損失があった日。
オルトバーネス国第一王子、ナサニエル・セオフィラス・ノーマン・オルトバーネスの命日である。
ナサニエル王子は、一言で言うと、ディーデリック王子と正反対の人格者であった。
ディーデリックは天才であり天災だが、ナサニエルは天子にして天使だった。ナサニエルは母の身分こそ低かったが、その優れた気質と溢れる才覚で、一枚めくれば真っ黒い陰謀が顔を出す宮廷において、皆から愛されていた。
第二王位継承権を持つディーデリックが兄に懐いていたことも、ナサニエルの支持率に与える影響は大きかったのかもしれない。ディーデリックは幼い頃から「僕は将来、兄上を支えることができる、立派な科学者になるんだ」と言っていたそうだ。
もともとディーデリックは全てにおいて天才だったが、その才能はどちらかといえば科学分野に寄っている。一方でナサニエルの才能は、ディーデリックほど尖ったものではなかったが、特に政治経済に明るかった。ナサニエルが統治し、ディーデリックが支える。これこそオルトバーネスの理想とする王家の体現であると、誰もがそう言っていた。
しかしある時、悲劇が起こった。
ナサニエルが避暑地で休暇を取っていた時のことだ。大規模な火災が発生し、ナサニエルの別荘はその主ごと焼け落ちた。不審火の犯人はすぐに見つかった。酒に酔った男が火のついた煙草を捨てたことが原因だったのだ。
決して警備が甘かったわけではない別宅にて起こった事件に、当時は誰かの陰謀ではないかという説もあった。だが、犯人の男は陰謀に加担するにはあまりに根性がなく、あっさりと捕まった。背後関係をどれほど探っても何も出ない。
結局ナサニエルの死に後ろ暗いものはないとされ、事件は幕を閉じた。
兄を失ったディーデリックは失意のあまり、しばらくの間部屋から一歩も出ることなく、使用人も両親も部屋に近づけなかった。数日後、やっと姿を現した王子には、それまでの無邪気な笑みはそのままに、しかし確かな変化があった。
まるで失った何かを埋め合わせようとするかのように、各地を放浪するようになったのだ。
ディーデリックはもともと悪戯好きな性格ではあったが、今ほど性悪ではなかった。だが兄を失うと同時に、ディーデリックは人間性を失った。その放浪癖は年々酷くなり、特に三年ほど前、ちょうどディーデリックの爺やが亡くなった頃から、本当に手がつけられなくなった。
近しい誰かに不幸があると、ディーデリックは放浪する。もし国王に何かあれば、王子は城を離れ、二度と戻らないのではないか。そんな噂も流れた。
「……ふう」
スヴェンは凝り固まった眼の筋肉を右手でほぐし、読んでいた資料を閉じると、喫煙所へ向かった。行きがけに資料を本棚に戻す。それは仕えている王子、ディーデリックの兄であるナサニエル王子に関する資料であった。
(ナサニエル王子については、正直それほど詳しくはなかったが……本当に、亡くなられたのが惜しい方だったんだな)
何しろ亡くなったのはもう十年も前の話なのだ。スヴェンとてまだ新米兵士。国の中枢に関わる情報など得られるはずもない。
ディーデリックの性格をも変えてしまった悲劇の王子。
通常であれば、劣り腹で権力の弱いナサニエルが王位に就くことなどあり得ない。ナサニエルが譲るという形で、金も後ろ盾もあるディーデリックが王太子となるのが普通だ。
(その常識を押してまで、ナサニエル王子は王太子になるだろうと噂されていた。それがどれほど異常なことか……)
部屋の隅に追いやられるようにして設置された、狭い喫煙所の扉を押す。六つほど置いてある椅子は全て空だ。スヴェンは一番右端の椅子に腰掛けると、懐から煙草とジッポーを取り出した。
スヴェンの口から、細く長い煙が立ち上る。ナサニエルは、ディーデリックの五つ年上の兄だったはずだ。享年十四歳。あまりに若い。
しばらくそうしてから、ちらりと時計を見る。そろそろ行かなくては。スヴェンはまだ長い煙草の先を念入りに灰皿に押しつけ、完全に火を消した。勿体ないが、時間に遅れるわけにはいかない。そろそろ城のバルコニーで行われている演説が終わる。その後スヴェンは王子の護衛として、ナサニエルの墓参りに行くことになっている。
王と王妃は同行しない。公務で忙しく、次の休みである週末に二人で行くそうだ。
スヴェンは喫煙所を出て、城に多数存在する王族専用の出入口の一つへと向かう。腰の剣の柄を撫で、気合いを入れ直した。今回は特に警戒を強めなくてはならない。
何しろ、王子を襲う者がいるかもしれないという垂れ込みが、入っているのだから。
城には出入り口が多数ある。一般人向け、貴人向け、商人向け、罪人向け、そして王族向けのものだ。王族が出入りする門は、パフォーマンス向けの一つを除き、極めて地味に作られている。暗殺の危険を減らすためだ。
今スヴェンがいるこの場所も、そんな地味な出入り口の一つだった。
煉瓦を組み合わせただけの城門前で馬車の準備をしていると、王子がクリスを伴いやってきた。たった二人で、だ。スヴェンは眉をひそめる。
「王子、他の者は?」
この日は王子が外出することが公に知られている。テロの危険もあった。そのため王子の直属護衛隊である君影隊の隊長スヴェン、副隊長クリスに加え、第二分隊がまるまる同行する予定だったはずだ。
しかし王子はまるで散歩にでも行くような、気軽な様子で答えた。いや、まあ散歩に気軽に行くのも正直やめてほしいのだが。
「いらないよ。墓地はそんなに遠くないし」
「いりますよ。向こうで一泊しますし、それなりに遠いです」
馬車で三、四時間だ。
「えー。だってさぁ、墓参り目的に行くならいいけど、僕の護衛に大勢引き連れて、兄上の寝所をうるさくしたくないもん」
「何かあったらどうするんです」
「そのときは、よろしく頼むよ。隊長殿」
「王子!」
スヴェンの叱咤などどこ吹く風。王子は鼻歌交じりに馬車に乗り込む。御者がどうしたものかと視線を彷徨わせ、スヴェンに困った顔を向けた。
はぁ……。
「クリス」
「説得しました。俺すごく頑張りました。でも無駄でした」
スヴェンの低い声を受け、クリスが死んだ顔で流れるように言った。
「……エミールに伝えろ。第二分隊を率いて、先に墓地に行け、と」
「それなら既に」
「それについて、王子は何か言ってたか?」
「何も。だって教えてないですし」
クリスはさらっと言ってのける。
「大丈夫ですよ。エミールはうちの隊員でもかなり温厚で平和主義な性格です。だからたぶんナサニエル王子のことは心から尊敬していて、自分とこの隊員を引き連れて、勝手に墓参りに行ってるだけです。
そこでたまたま王子に出くわしても、それは偶然です」
「……まあ、仕方ないな。なるべく静かに、見つからないようにすれば、王子もとやかくは言わないだろ」
王子とて、そのくらいのことは想定しているだろうし。
「おーい、スヴェン、クリス。まだ出さないの?」
馬車の窓から顔を出して、馬鹿王子が手を振る。スヴェンとクリスは互いに頷き合い、馬車に乗り込むと、王子の両隣の席を固めた。
どうもお久しぶりです。
ようやく投稿できました! 待っていてくださった方、ありがとうございます。お待たせいたしました。
今回はテーマ的にも、いつもよりシリアス多めにお送りします。




