山中の死闘
スヴェンが先陣を切った。怪物は突然懐に潜り込んできた人間に驚いたようで、少々仰け反った。スヴェンの逞しい腕が横薙ぎに振るわれ、鋭い斬撃が怪物の顔をかすめた。
しかし斬撃は怪物の毛をいくらか削っただけで、分厚い肉まで到達することはなかった。目を傷つけることができれば、この先の戦いがかなり楽になったのだが、まあ文句を言っても仕方あるまい。
「クリス!」
スヴェンの叫びに従って、クリスが飛び出した。彼は両腕にぐっと力を込めて、槌を逆手に握ると、空に向けて振り上げる。その一撃は、仰け反って体勢を崩した怪物の、後頭部に直撃した。
怪物は空へと投げ飛ばされ、そのまま翼を広げてこちらを睨みつけてきた。
「効いてないぃっ!」
やはり涙声で叫ぶクリスであったが、スヴェンはそうは思わなかった。
「よく見ろ。ふらついてる」
怪物は空中に留まるのに、随分と苦労しているように見えた。酔っ払いのようにふらふらと定まらない姿勢を見ても、脳震盪までは防げなかったのだと推測できる。あの怪物に、どの程度の脳みそがあるのかは知らないが。
「でも、この後はどうするんですか」
この距離では、スヴェンの剣もクリスの槌も届かない。だがそれは、怪物の方にも攻撃の手段がないということだ。このまま逃げてくれるならばそれでもいいし、向かってくるならそこを返り討ちにすればいい。それだけのことだ。
しかし怪物は予想外の行動に出た。
ばさりと羽を広げると、そこから淡い黄色に輝く粉が、風に流されて地上に届く。
(鱗粉……!)
スヴェンは木立の中に逃げ込んだ。体の大きな怪物が入り込めないような隙間に体を潜り込ませ、なるべく鱗粉を吸わなくて済むように、口周りを服の袖で覆った。そのまま鱗粉で視界が悪くなった道へと視線を送ると、運悪く、真っ先に鱗粉が降ってきた場所にいたクリスが、仰向けになって倒れているのが見えた。
「た……たい、ちょ」
(あの馬鹿!)
鱗粉には体の自由を奪う効果があるようだ。クリスは痺れたように舌が回っていないが、顔色は悪くないし、血も吐いていない。捕食のための毒であるなら、怪物本人までもを傷つけるような毒は、使わないはずだと信じたい。
鱗粉を纏いながら怪物が降りてきた。その足元にはクリスがいる。
(やばい)
このままでは、クリスが死ぬ。
しかし、どうする。このまま無策にスヴェンが飛び出しても、クリスの二の舞になるだけだ。でも逃げていてはクリスが犠牲になってしまう。
部下の死は上官である自分の責任である。
「あぁっ、畜生! 今日は厄日だ!」
スヴェンはその場で大きく息を吸った。ほんの少し吸い込んでしまった鱗粉が、スヴェンの体にわずかな痺れと眠気をもたらした。
(やはり痺れ薬か)
眠気の方はオプションだろうが、こちらも戦闘中において、無視できるものではない。スヴェンは左の指先を剣に這わせて、わずかに傷をつけた。小さな傷だが、指先は敏感な部位だ。鋭い痛みが走り、どくどくと指先が熱くなった。同時に眠気がどこかへ吹き飛ぶ。
覚悟を決めたスヴェンを見て、怪物は歓喜に体を震わせたように見えた。獲物を嬲る化け物の目だった。
スヴェンは流れ出る血を柄に付けながら、両手で剣を握り直した。自分の命も部下の命も、くれてやるつもりなど毛頭ない。
腹の底から声を張り上げた。普段よりも半歩だけ、大きく足を踏み出す。左から右へ、大きく剣を振る。間合いを読み損ねた怪物の腹に、今度こそスヴェンの刃が届いた。怪物の口から初めて悲鳴が漏れた。
緑色の体液が怪物の傷口から吹き出し、白い体毛を汚した。おそらくこれが怪物の血液だろう。頰にひんやりとしたものを感じた。左手でこすると、緑色の液体が付いていた。赤くない返り血を浴びたのは随分と久しぶりだ。
ひるんでいる様子こそあったが、化け物の傷は深くない。この好機を逃すつもりはなかった。今度はもっと深く、致命的な傷を与えてやる。
握りを変え、剣に体重を乗せたその時、ぐらりと視界が揺らいだ。
足に力が入らなくなって、がくりと膝をつく。身体中が痺れていた。
(なんで……。息は止めてたのに)
痺れに気を取られ、つい呼吸してしまった。鱗粉の痺れ薬が体内に取り込まれ、さらに身動きが取れなくなる。濁っていく視界に、緑に汚れた左手が見えた。
(そう、か。血液……)
あれも毒だったのだ。指を傷つけたのは迂闊だった。そこから毒の成分が入り込んでしまったのか。
(あ……。俺、もしかして死ぬ……?)
怪物がこちらを覗き込んでいるのが分かった。スヴェンをつついて、コロコロと転がす。しかし怪物はスヴェンよりも、スヴェンの荷物の方に興味を示していた。何を見ているのだろうか。動かない体を少しずつよじって、怪物の様子を見る。
(あれは、王子の落書きか?)
怪物は懸命に、王子の手紙に触手を這わせている。いったいどうしたのだろう。せっかく動きを止めた獲物がいるのに、それを無視するなんて。
そのとき、怪物がピタリと動きを止めた。
「ああ、こんなところにいたのか」
訝しげな表情のスヴェンの耳に、馴染みの声が響いてきた。普段であればそれは聞きたくもない声であったが、今このときに限って言えば、神の救いに思えた。
「まったく……。ずいぶんと捜したんだぞ」
足音が近づいてくる。すらりと伸びた、綺麗な足元が見える。その靴には見覚えがあった。
いつどこで役に立つか分からない細々とした設定④
オルトバーネスにはミドルネーム文化がありますが、よほどの由緒正しい家柄でなければ、ミドルネームをつけることはしません。中途半端な貴族がミドルネームを付けようものなら、周囲から目をつけられてしまうからです。
ちなみに王子の名前はやたらと長いですが、それぞれに一応意味を設けています。
ディーデリック
これがファーストネームです。
セオフィラス
初代オルトバーネス国王の名前です。王家直系の男子には、必ずこのミドルネームが付きます。
アルバ
王子の両親が付けたミドルネームです。アルバとは、オルトバーネス国史上に名を残す発明王です。彼は魔法文化ばかりが栄えていたこの世界に、科学の概念を生み出しました。彼がいなければ人間種族は数多の魔法種族との生存競争に敗れ、絶滅していたかもしれません。
この名前には、アルバのような常識にとらわれない柔軟な発想と卓越した頭脳を持って欲しい、という両親の願いが込められています。




