戻ってきた
銀色の錨のミニチュア。そこにいる俺。マスターのシゲさん。ワインをがぶ飲みする俺。
何だかちょっと酔って来た。飲み過ぎたかも知れないな。ボトル一本空けちまった。俺らしくもない。ここにいたメグミは別人なんだ。俺の知ってるメグミじゃないんだ。元の世界に戻れば、何事もなかったかのようにいつもの生活に戻れるんだ。
「はっ」
店の中を見回す。銀の錨のミニチュア。デジタルのスマートウォッチ。店にはシゲさんと俺。戻って来た!
「戻って来ましたな。お帰りなさい」
シゲさんがにこやかに声を掛けてくれた。
やった、戻れたんだ。
「あれ、でも何か、かなり酔ってる感じなんだけど」
頭がクラクラする。それに、何だかちょっと気持ち悪い。
「そうですな。かなり飲んでましたからな。メグミさんに別の彼氏がいるということがショックだったようで。何でこっちの世界でも俺を選ばないのか、と」
こっちの俺は普通だからな……
「そうそう、お会計、かなりいってますよ」
シゲさんは、─15,000─と書かれた手書きの小さな白い紙をテーブルに置いた。
「一万五千円!?俺、マティーニ一杯しか飲んでないですよね?」
俺は反論した。でも大きな声を出すと、吐きそうだ。
「向こうのショウさんは、かなり飲んで食べましたからな。ちゃんといただきますよ」
そんな感じだ。喉の手前まで食べ物と酒が上がって来ている。今にも溢れてそうな感じがする。
「あいつ、何で払っていかなかったんだよ。社長なんだからちゃんと払ってけよ。金持ちだろうが」
腹が立って大声で叫びたいが、頭にも胃にも響く。小声で言う自分が情けない。
「こっちで払ったら、結局あなたのお金が減るだけです」
そうだ。チェンジは心だけ入れ替わるのだ。お金は持っていけないんだっけ。いや、バー・アンカーは向こうの世界にもある。戻ったあいつが払えばいいのだ。
「だったら向こうであいつに払わせてくださいよ。向こうのアンカーもシゲさんのお店でしょう」
「いえ、向こうは向こう。こっちはこっち。諦めてください」
シゲさんは、涼しい顔だ。仕方ない。言い争うより早く帰ろう……
──────────
「ところで、会社に行かなくてもいいんですかな?」
そうだ。戻って来たんだ。会社に行かなくては。時計は十一時を回っていた。これはまずい。スマホを見ると、LINEに先輩の小山さんからメッセージが山ほど入っていた。どうやら、部長には体調不良で前半休ということにしておいてくれたらしい。助かった。
俺は一旦、中目黒のアパートに帰り、シャワーを浴びて会社に向かった。西新橋のバーから中目黒に帰り、汐留の会社に行くのは面倒だが、この二日酔い状態で、昨日のスーツのまま会社に行きたくなかった。
往復の電車の中とシャワーを浴びている間、さっきのことをずっと考えていた。
俺はチェンジャーで、パラレルワールドにいる別の自分と入れ替わることができる。これってすごいことなんじゃないか。さっきは戻らなきゃと思って帰って来てしまったけど、もう一人の俺は社長、俺だって社長をやれるってことなんじゃないか。向こうの俺には悪いが、入れ替わってもいいんじゃないか。
いや、そうとは限らない。向こうの俺は、俺とは違う。俺が向こうで上手くやれる訳がない。やめておいた方がいい。
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会社に着くと、小山さんが「上手くやっといたぞ」という顔でウィンクした。俺は「ありがとうございます」と親指を立てて笑顔で席に着いた。
席に着くとすぐに後ろから江上部長の声がした。
「守谷、体調はいいのか?別に休んでも良かったんだぞ。お前はやること無いんだしな」
グサっと来た。悔しかった。でも何も言い返せなかった。俺の戦略書は昨日のレビューから何も進んで無い。午後の会議も俺の出番は無い。出ても、また追い出されるだけだ。
暇だった。やることは何もなかった。時間だけがゆっくりと流れていく。
どうしてこうなってしまったんだろう。もう一人の俺はどうやって社長になったんだろう。あの大学三年の時に行動していたら良かったんだろうか。
そしたら今頃、高層ビルのフロアーに会社を置いて、社長室から街を見下ろしながら仕事をする。
今日は大事な会議が午前にあったんだった。今から会社に行って午後に振り替えてもらおう。相手は役員とは言っても、気心知れた昔からの仲間だ。大丈夫、今からでも間に合う。