心の準備
番外編「千依と竜也5」の直前頃のお話です
「き、来てしまった…」
その日の朝、部屋の中央に座って目ざまし時計を握り締めながら千依はそう呟く。
2年前に竜也からプロポーズを受けた千依は、少しでも自立した生活ができるようにと1人暮らしをスタートさせていた。
本当は部屋探しも一からしようと思っていた千依だったが、著名人であるという点から流石に家族や事務所にストップをかけられた。
セキュリティが整い、職場からもほど近い1LDKのアパート。
初めは馴染みのなかったこの部屋も、今ではすっかり我が家だと感じられる。
そんな自分だけの空間で、ドキドキどころじゃなくバクバクと大きく心臓を鳴らせて必死に先週書いたメモを復唱する千依。
「千依ー、準備できたか?」
そんな時に部屋に響いたのは、竜也の声だ。
お互い部屋の合い鍵を交換済みの2人は、交際を発表してからはこうして気軽に行き来している。
「た、た、竜也さん…!」
「え、なにその呼び方。って、はは、練習してたのか。大丈夫なのに、そんな緊張せんでも」
「そうはいかないよ…!だ、だって、け、け、結婚の、ご挨拶」
「大丈夫だって。第一もう親父とおふくろには会ってるだろ、千依」
「交際のご挨拶とけ、結婚のご挨拶は違うよ…!大丈夫かな、手土産失礼なものじゃないかな?服装、非常識じゃないかな…!?」
「落ちつけ落ちつけ。千依が非常識だったり失礼だったりしたことないから」
「う、でも」
「大丈夫。……つーか、むしろ千依逃がしたら俺の方が家族中から総スカンくらうレベルだし」
「へ?」
「何でもない」
相変わらず千依は緊張したり混乱したりするといっぱいいっぱいになって、落ちつきをなくす。
顔は土気色…ほどではないが、心なしか白っぽい。
手の先は緊張で冷え切り、目が完全に泳いでいる。
それでもこうして必死にその場にとどまって練習する姿が竜也には嬉しい。
好きな相手が自分のために苦手なことを一生懸命励んでくれる。
それがここまで幸せな気持ちにさせてくれるとは思わなかったのだ。
千依が自分との未来をはっきりと望むようになってくれたと実感して頬も緩む。
勿論そんな心の中で悶えまくっている竜也の様子など、千依には察する余裕もないわけだけど。
「た、タツ…どうしよ、こんな私じゃ駄目だって言…ん」
心は決めたはずなのにやっぱり自信が持てない千依はついつい弱気な言葉を口にしてしまう。
そんな千依にほほ笑みながら、竜也はその唇を塞いだ。
そっと彼女の両手に自らの手を重ねながら優しく。
「駄目なんて絶対言われないし言わせない。大丈夫だから、落ちつけ?」
「……お、落ちつけない」
「ん?もう一回する?」
「む、無理っ、お父様とお母様に顔向けできない!」
「いやいや、そんなバカな。さ、そろそろ行こうか」
余裕の頬笑みを浮かべながらリードする竜也。
その手をそっと握り返しながら、千依は何となく面白くない気持ちになる。
…なんだかいつもいつも振り回されて悔しい。
ムクムクと生まれてくるのはそんな感情。
自分はキスひとつだって未だにドキドキして心臓が止まりそうになるのに、竜也は慣れた様子で何ともスマートにこなしてしまう。
家族になる相手なら、もう少し対等になりたい。
人間関係だけじゃなくて、恋愛関係でも。
そんな少し強気な想いになって、千依はグッと竜也へ握る手の力を強めた。
「ん?どうした千依…って、んっ」
立ち上がる力を利用して体重分の力を下へと引っ張る千依。
勢いでやや下がった竜也の頭めがけて、千依は背伸びする。
そうして再び触れあった瞬間に、竜也は驚いたように目を丸くさせた。
もっとも恥ずかしさでギュッと目を瞑ってしまった千依には見えていなかったが。
「お、お、お返し、です」
熱くなる頬を感じながら、上も向けないまま千依は言う。
生まれて初めて自分からキスなんてものをしてしまった。
大きな恥ずかしさと、少しの後悔と、そして中くらいの喜び。
乙女心は複雑という言葉の意味を改めて知る。
やがて勇気を出してゆっくり顔を上げると、そこにあったのは真っ赤な顔で硬直する竜也の姿だった。
…自分と同じだ。
そんなことを理解すると、途端に親近感を覚えて嬉しくなってしまう。
「わ、笑うな!不意打ち卑怯だぞ、千依」
「な、だ、だってタツだって不意打ち」
「俺は良いの!そうでもしないと進まないだろ色々。でも千依は駄目。1回1回の威力でかすぎだろ、理性切れるっつの!」
「え、り、理性?」
「…婚前に狼に食いつくされたくなかったら可愛い真似しないで本当」
「えっと、何を言って」
「……タチ悪い。本気でタチ悪いよ、この子。これだから無自覚天然羊は」
「え、えー…、なんか理不尽」
「どっちがだ!」
ぎゃあぎゃあ騒ぎながら2人揃って車に乗り込む。
そのおかげかどうかは分からないが、千依の緊張も少しは解消されたらしい。
その数十分後。
竜也の実家で2人を出迎えたのは竜也の両親のみならず、彼の兄、弟、さらにはその妻達と子供達、いとこと、随分な大所帯だった。
例に漏れず千依は緊張と驚きで硬直し、そしてそんな千依を見て渋川家女性達は大いに母性本能をくすぐられたらしく熱烈な歓迎を受ける。
結婚の話は1分もしないうちにまとまり、残りの時間のほとんどが千依を構い倒す時間に費やされ、千依を取り上げられた竜也が拗ねるのは少しだけ先の話。
それは、千依にまた新しい家族が増えた瞬間でもあった。